しそね町において吾妻グループは絶対的な存在だった。
町民すべてが吾妻和志会長を尊敬し、その息子である勇太・勇信ももちろん知られた存在だ。
つまり、多くの人が勇信を知っている。
そうした意味においては、しそね町は東京よりも危険な場所だった。
ただしひとつの安心材料はあった。
成人となった勇信の顔を知る者は、ほとんどいないこと。
メディアに出るのは常に兄であった。
加えて勇信が大人になってからというもの、この地を尋ねたことはない。
危険がないとはいえないが、別荘の出入りさえしっかりしておけば、取り急ぎの居場所としては最悪の環境ではなかった。
ジョーは仮設フェンスの下を歩いていた。
遠くにぽつりと明かりが見えた。
近づいてみると、そこにはコンテナオフィスがあった。
下請け業者の従業員たちが常駐する場所だろう。
オフィスへと近づくと、路上には筆記用具や頭痛薬などが転がっていた。
「何だこれ?」
ジョーは血のついた頭痛薬を手にとった。
血はまだ完全には乾いていない。
注意深く周りを確認すると、道路やフェンスにも血のりがついていた。
飛び散り方からして、誰かが体調不良で吐血したわけではない。
ケンカ?
撮影用カメラをポケットにしまい込み、ベースボールキャップを深々とかぶった。
そしてポケットから取り出したマスクをつけ、コンテナオフィスへと向かった。
コンコンコン――。
扉をノックすると、ひとりの労働者が顔を見せた。
男はジョーを見るなり、怪訝そうな表情を浮かべた。
「あんた、誰だい?」
労働者はもちろん勇信を知るはずない。
ベースボールキャップとマスクと、安物のスポーツウェア。
その上、東京にいる常務がここにくるなど考えもしないだろう。
「あそこのフェンス近くに血がついていましてね。何かあったのでしょうか」
ジョーの問いかけに労働者の表情が一変した。
「さあ、なんだろうな。俺も知らないよ。野良犬同士が激しくやりあったんじゃねぇの?」
「これを見てください」
ジョーは血のついた頭痛薬を見せた。
「なんだこれ? よくわからねぇな……。あんたもこんなの気にせず、さっさとウチに帰りな」
「わからないと言うわりには、ひどく怯えた表情ですね」
「なんだ!? あんた、誰だ?」
労働者が鋭い目でジョーを睨むと、さらにうしろから別の男が現れた。
「現場責任者の秋山泰泳です。どちら様でしょうか」
30代後半くらいになる男だった。
2本の腕は太く、Tシャツ姿の中に隠れた筋肉が想像できる。
ジョーは思わず、秋山と名乗る男を見つめた。
……秋山さんか。まさかうちの下請けをやっていたとはな。
「どちら様でしょうか」
秋山が再び聞いた。
「私は吾妻建設の社員です」
「社員の方ですか。はじめてお会いするようですが」
「東京本社からきましたので」
「そうですか」
秋山はまじまじとジョーを見つめた。
「血の感じからして、動物のケンカではないようです。ビスタの前で起きているだけに、事情を知っている方を探していたところです」
「……先ほど少し、いざこざがありましてね。明日オフィスに伺いますので、失礼ですが名刺を一枚いただけますか」
「名刺はもっておりません。今ここで説明してください」
秋山は帽子とマスクに守られたジョーの目を見つめた。
「あなたが吾妻建設の社員さんだという証拠はありますか?」
「そうだよ。あんたが社員さんだって証拠を見せてくれ」
最初に対応した労働者が割り込んだ。
「……堀口ミノル課長」
ジョーがその名を口にすると、労働者の表情が一変した。
「ああうわぁ……」
その狼狽ひとつで、路上の血が誰のものなのかうかがい知れた。
瞬時に怒りが込みあげた。
堀口がどのような罪を犯したとしても、処罰は会社や法律が規定するもの。
あれほどの血が流れるなど、度を越した暴行があったに違いない。
「まさか、あなたたちが堀口課長に暴行を加えたのですか」
ジョーはこぶしを握りしめた。
「あ……ああうわ」
労働者のひとりが口ごもりながら後退した。
代わりに正面に立った秋山泰泳の表情は変わらない。
「私が手を出しました。うしろの従業員は預かり知らぬことです」
「暴行を認めるんですね。なぜです?」
「お伝えしたように、明日の朝事務所に伺い具体的に説明したいと思います。申し訳ありませんが、明日までお待ちいただけますか」
秋山が頭を下げた。
「いえ、オフィスにくる必要はありません」
「といいますと?」
「オフィスではなく、私が指定する場所にきてください。明日、そこで待っていますので」
ジョーが指定したのは東京・神宮前にあるグレートコロシアムだった。
2日後、吾妻グループが運営する総合格闘技大会『マーシャルFC』のナンバーシリーズが開かれる会場だ。
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