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「兄さん?」
夜11時。
玄関のモニターに、兄・勇太の姿が現れた。
「少し話せるか」
……!
兄の突然の訪問に、部屋にいるすべての勇信が視線を合わせた。
「やばい、隠れろ!」
まるで火事の通報を受けた消防士のように、全員が隠れた。
「……あとでそっちの家に行くから、ちょっと待っててくれないか」
モニターの受話器をとった沈思熟考が、時間稼ぎのために言った。
「なぜそんな無駄なことをする? さっさと扉を開けるんだ」
「……わかった」
いつ誰がやってくるかわからない、敷地内の自宅。
だからこそそれなりの準備は整えておいた。
家を訪ねてくるものは多い。
母の吾妻恵。
義姉の吾妻美優と、その娘・さくら。
彼女の菊田星花。
秘書の魚井玲奈をはじめとする社員たち。
兄の勇太。
そのため、事前にマニュアルは作っておいた。
すでに実践訓練も終えていて、その成果を発揮するように勇信たちは最速でトレーニング室に隠れた。
「ようやく話す機会がきたな」
兄が入ってくるなり、沈思熟考が言った。
「用件だけ伝えにきた」
「わかった」
リビングルームに置かれたノートパソコンが、ふたりの声を他の勇信に送っている。
トレーニングルームに隠れた4人の勇信(キャプテン、ポジティブマン、あまのじゃく、シェフ)は、息を殺して携帯電話に耳を傾けている。
リビングルームに立ち入った勇太は、部屋全体を眺めたあと、ソファに座った。
「兄さん。酒でも飲むかい?」
「いや」
沈思熟考は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ひとり飲みはじめた。
「料理をしたのか? 匂いがするな」
30分ほど前まで、シェフが和え物の特訓をしていた。
もし料理中に誰かが訪れたなら、そのままシェフが対応すると、マニュアルには書かれている。
「酒のつまみを作っただけさ」
「そうか」
勇太はそれ以上何も聞かなかった。
「どうしてずっと家に帰ってこなかったんだ。みんなどれだけ心配したか」
沈思熟考がソファの反対側に座った。
「無益な質問を。おまえも常務ならわかるだろう、滞った仕事がどれほどの数にのぼるのか」
「すでに滞ってるんだったら、あと1日くらい延ばしてもよくないか? 心配する家族をそのままにして、2日も会社で寝泊まりするなんて、兄さんらしくない」
「らしくない? おまえに何がわかる」
勇太が鋭い視線を送った。
これまで一度として見たことのない、険しい視線だった。
「……」
沈思熟考は何も答えず、少しの間考え込んだ。
沈思熟考は物事を深く考える属性をもつ。
しかし悩んだ末に吐き出す言葉は、何ひとつ特別なものでも、また画期的なものでもない。
言うならば、単に反応が遅いだけである。
しかし勇信たちにとって、大きな意味をもっていた。
長く考えることは欠点であるにせよ、それでも彼が最後に放つ言葉は、本来の勇信の発言に極めて近い。
それがわかってからというもの、沈思熟考は「とろいヤツ」から、「個性のないヤツ」へと昇格した。
それぞれの勇信が、属性に左右されている。
そんななかで、「個性のないヤツ」というのは、非常に重要だった。
全員がその価値を認め、沈思熟考は晴れて対人関係の担当になった。
「兄さんらしいってのが何か、もちろん俺にもわからない。ただ俺だって、他の家族と同じくらい兄さんの死を悲しんだし、こうして戻ってきたことを喜んでることだけはわかってほしい」
「過去について話し合うつもりはない。俺には時間がないんでな」
「時間がない?」
不吉な予感がした。
「俺は多くの時間を失ったし、それらを取り戻すために懸命に生きなければならない。だから過去に振り回される時間なんてないんだ。ただ前だけを見て進むことが、俺に与えられた義務だ」
――この幸せが永遠に続けばいいんだけどな。
いつだったろうか。
家族と過ごす勇太が、不意にそうつぶやいた。
今目の前にいる兄とは、同一人物には思えなかった。
ひどく痩せてしまったことや、頬から耳にかけてできた裂傷。
そして鋭い目つき。
さらには突然の会社の方針転換や、ここでの発言。
どれをとっても、記憶の中の兄とはまるで違っていた。
「記者会見で聞いたけど、どこかの療養施設にいたんだろ? 記憶もはっきりしないようだし……。わかる範囲でいいから、何があったか教えてくれないか」
「過去にこだわる時間はないと言ったはずだ」
「状況を知ってこそ、協力でも何でもきるだろ? もし部分的な記憶障害でも起こっているなら、俺を通じて記憶を取り戻すってのもありえるだろうし」
「おまえの協力など必要ない。今日訪ねてきたのは、ひとつ忠告しておきたいことがあってだ」
「忠告?」
兄弟の間で容易に行き交うような単語ではなかった。
「いくら兄弟だといっても、今後は副会長である俺の指示に従ってもらう。今回のビスタ建設中止の件や、今後グループが進むべき道について、おまえはただ黙っていればいい。
おまえにも言い分はあるだろうが、掲げた方針を撤回するつもりはない。吾妻グループの未来がこの肩にかかっているだけに、おまえも一介の社員に過ぎない。弟だからといって、副会長である俺に意見しようなどと思うな」
「……」
沈思熟考は勇太の言葉をひとつずつ噛みしめながら考えた。
「今まで兄さんに強く反発したこともないし、何がしたいのかは理解しているつもりだ。だけど、ひとつ……」
「言ってみろ」
「ビスタの件について、再検討する時間を設けてくれないか」
沈思熟考は、堀口ミノルに関する話を打ち明けた。
彼がスポーツ振興事業を掲げ地域再生を進めようとしていたことや、また彼が不正による裏金を手にするような男ではないことを伝えた。
「で、証拠は? 身の潔白を証明できる証拠だ」
「それはない。あくまでも直接会った印象で言っただけだ。あの誠実そうな男が、裏で不正を行うとは思えない」
「すばらしい根拠だな」
「……極めて個人的な主観にすぎない。父さんや兄さんが経営において重視していた、『霊感』ってやつと同じだよ」
「父さんは自分を信じすぎたせいで、植物状態になった。今の俺にとって、霊感や第六感などは、排斥すべきもの以外の何ものでもない。今の俺こそが吾妻勇太であって、過去は関係ない」
「変わったな、兄さん」
「おまえもさっさと変われ。常務という地位にあぐらをかくんじゃなくてな。今後の業務を完璧にこなさないなら、たとえ弟だとしても、躊躇なく解雇してやるからな」
「……」
沈思熟考は何も言わなかった。
それは属性が作る沈黙ではなく、驚きを抑えるための沈黙だった。
時間が経てばきっと元に戻るはず。
兄に何があったかはわからないが、行方不明の間に価値観が変わるほどの出来事があったのだろう。
痩せこけた顔と、頬の大きな裂傷がそれを物語っていた。
……少しずつ取り戻せばいい。
普通の生活を続けならが、ひとつずつ昔に戻っていけばいいんだ。
家を出る兄の背中を見ながら、沈思熟考は深く長い思考の海を泳いだ。