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心做し 北 信介
春高が近づいても、日常は変わらへん。
体育館の床は冷たくて、朝の空気は静かや。
「ねぇ、もしも」
そんな言葉が浮かぶたび、
すぐに打ち消す。
もしも、なんて考え出したら終わりや。
勝ちたいとか、特別になりたいとか、
そういうもんは最初から持たんと決めてきた。
「全て投げ捨てられたら」
一瞬、楽になる気がして、
それすら良くない考えやと思い直す。
ちゃんとやる。
それだけでええ。
試合は進む。
勝つ。
当たり前のように。
後輩は硬くなり、ミスをする。
そのたびに声を出す。
切り替えろ。
下を向くな。
「君にどれだけ近づいても」
同じコート、同じユニフォーム。
それでも、自分は一歩引いた場所に立っている。
近づいているつもりはない。
ただ、離れないようにしているだけや。
点差が詰まる。
空気が重くなる。
侑と治が笑って、無茶をする。
角名は淡々と決める。
後輩の目が、必死に前を向いている。
「これ以上どうしようもないほど」
胸の奥が、はっきりと痛む。
――勝ちたい。
思ってしまった瞬間、
自分の中で何かが壊れた。
「心があること」
それに、気づいてしまった。
いらんはずやった。
知らんままでおるつもりやった。
「気づいてしまった」
その感情は、消えへん。
抑え込んでも、なかったことにはならない。
「俺の心は」
ちゃんと、ここにあった。
勝ちたい。
繋ぎたい。
この場所で、終わりたくない。
それでも声は乱れへん。
判断も狂わへん。
心があるからといって、
特別なことはせえへん。
ただ、重さを抱えたまま、
いつも通り立つだけや。
試合は続く。
身体はきつい。
気持ちも、静かに削れていく。
「それでもいい」
そう言い聞かせる。
主役やなくていい。
輝かんでもいい。
でも、
「このままじゃ嫌だ」
という声が、
胸の奥で確かに鳴っている。
負けた。
春高は、終わった。
音が遠のく。
泣く後輩、俯く背中。
自分は静かや。
でももう、前と同じやない。
「知らないで」
いられる場所は、
もう過ぎてしまった。
心は、痛い。
でも、それでええ。
ユニフォームを畳む。
靴を揃える。
体育館を出る。
日常に戻る。
それだけや。
「心があること」
知ったまま、
それでも同じ選択をする。
欲しがらず、
比べず、
ちゃんとやる。
静かに、確かに、
ここにあるものを抱えたまま。
――それが、俺の春高や。