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1937年秋、ベルリンの空はすでに灰色に沈み始めていた。まるでこの先のことを暗示しているように──────。
街のいたるところに
「一つの民族、一つの帝国、一つの指導者」の
旗がはためき、ドイツの少女たちはドイツ少女同盟の制服に身を包み、将来の「母」としてふさわしい振る舞いを叩き込まれていた。
エマ・シュミットは16歳。
長い金髪を三つ編みにし、青い瞳はラピスラズリのようであった。
父は中規模の印刷所の経営者で、
母は家事を完璧にこなす典型的な「アーリア人の妻」。エマの家は暖かく、食事はいつも十分にあり、他の家庭なら滅多に買えない冬のコートも新品だった。
なのに、彼女の胸の中にはいつも名前のない空洞があった。
誰にも言えない、言葉にできない欠落。言葉に言い合わせないナニカ。ナニカが足りなかった。
その日、エマは学校帰りにいつもの道を外れ、裏通りを歩いていた。 理由は自分でもよくわからなかった。ただ、制服の襟が息苦しくて、人の多い大通りを避けたかっただけだ。細い路地に入ると、ゴミ箱の横にしゃがんでいる人影が見えた。短く切った金髪。男物の古いジャケット。
膝を抱えて震えている。
少女だった。いや、少女の姿をした、どこか少年のような存在。エマは足を止めた。少女——アレは、ゴミ箱の中から半分かじられたパンを取り出し、埃を払うこともなく口に運ぼうとしていた。指先は冷たく赤く腫れ、唇は乾いてひび割れていた。
「……そんなもの、食べちゃだめ!!!」
エマの声は思ったより大きく出てしまった。アレはびくりと肩を震わせ、顔を上げた。
鋭い目つきだったが、その奥に怯えがちらりと見えた。まるで子猫の威嚇のようだった。自分を強く見せようとするが怯えも見え隠れしておりそれをごまかすように、すぐに目を逸らし、パンを隠すように背中に回した。
「…き、君には…関係ないだろ」
声は低く、かすれていた。少年の声に近い。
エマは鞄を開け、母が朝入れてくれた小さな魔法瓶を取り出した。中にはまだ温かいジャガイモとベーコンのスープが入っていた。蓋を開けると、湯気と香りが路地に広がった。
「これ、飲んで」
アレは一瞬、信じられないという顔をした。
だが、匂いに耐えきれなかったようで、震える手で魔法瓶を受け取り、ゆっくりと口をつけた。一気に飲み干した。
喉がごくりと鳴り、最後の一滴まで舌で舐め取るようにして飲み込んだ。
空になった魔法瓶を両手で抱えたまま、アレは小さく息を吐いた。
「……美味かった」
その一言が、なぜかエマの胸を強く打った。
アレの声は、さっきより少し柔らかくなっていた。目も、ほんの少しだけ穏やかだった。
「名前は?」
エマが聞くと、アレはしばらく黙ってから答えた。
「アレ。……アレクサンダーって呼ぶやつもいるけど」
「男の子の名前みたい」
「その方が楽だから」
アレはそう言って、薄く笑った。
その笑顔が、エマの心に小さな火を灯した。
「私はエマ」
「……覚えとく」
二人はしばらく無言で立っていた。
路地の奥から冷たい風が吹き、枯れ葉が舞った。エマは自分のマフラーを外し、アレの首にそっと巻いた。
「寒いから」
アレは驚いたように目を見開いたが、すぐに俯いてしまった。照れているように。
「……ありがとう」
その小さな「ありがとう」が、エマには宝物のように聞こえた。その日から、二人は密かに会うようになった。
学校の裏の物置、
廃墟となった工場の影、
誰も来ない川辺。
アレはいつも男物の服を着て、エマはそれを不思議と愛おしく思った。
アレの荒々しい仕草、短い髪から覗く耳、細いのに力強い手。
すべてが、エマの知らない世界を教えてくれるようだった。ある夕暮れ、二人は川沿いの古いベンチに並んで座っていた。
アレがぽつりと言った。
「オレみたいなやつ、嫌いじゃない?」
エマは首を振った。
「大好きだよ」
「……バーカ」
アレは照れたように笑ったが、すぐに真剣な顔になった。
「この国じゃそんなの……許されないよ」
エマはアレの手を握った。
冷たい指先を、自分の両手で包み込んだ。
「知ってる。でも、私にはアレクサしかいない」アレは黙って、エマの肩に頭を預けた。
二人の吐息が白く混じり合い、夕陽に溶けていった。そのとき、二人はまだ信じていた。
どんなに厳しい目があっても、この気持ちだけは守れると。
けれど、ナチスのドイツは、そんな小さな秘密さえ許さないことを、
二人はまだ、本当には知らなかった。
この先のことも、わかる由もなかった。
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