コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
リビングの静かな空気に
ふいに扉をノックする音が響いた。
ソーレンとレイチェルは
ハッとしたように体を離し
顔を赤らめて互いを見つめ合った。
その時、扉が少しだけ開き
時也がひょっこりと顔を覗かせた。
申し訳なさそうな表情で
軽く頭を下げている。
「あの⋯⋯
そろそろアリアさんが
湯冷めしてしまうので⋯⋯
お邪魔させていただいても
良いですか?」
困ったような声とともに
時也は少しだけ苦笑を浮かべている。
その一言で
ソーレンとレイチェルは
一気に現実に引き戻された。
レイチェルは
慌ててソーレンから身を引き
座り直しながら声を弾ませた。
「あ、あはは!
そ、そうですよね!
湯冷めしちゃったら大変だもんね!」
ソーレンも
照れ隠しに喉を鳴らしながら
ついぶっきらぼうな声を上げた。
「あ、ああ⋯⋯悪かったな、時也」
その様子に
時也は少し困ったように微笑んだまま
小さく溜め息をついた。
「いえ、どうかお気になさらず。
むしろ⋯⋯
二人の時間を邪魔してしまって
すみません」
そう言いながら
背後を振り返ると
青龍が幼子の姿で
じっと見上げていた。
その目には
僅かに呆れが滲んでいる。
「ふむ⋯⋯
全く、青春というのは騒がしいものだ」
青龍は鼻を鳴らしながら
静かに部屋に入ってきた。
時也は
その様子に苦笑しながら
アリアの方を振り返る。
アリアは
薄いストールを肩に掛けたまま
無言で時也の袖を引いた。
それが〝寒い〟と伝えているのだと
時也はすぐに理解した。
「失礼しました。
⋯⋯アリアさんが寒いようなので
暖かいものでも淹れますね」
時也がそう言って
キッチンへ向かおうとすると
ソーレンが気まずそうに声をかけた。
「⋯⋯悪ぃ、俺がやる。
コーヒーで良いだろ?」
レイチェルもすぐに立ち上がり
にこっと笑って言った。
「じゃあ、私も手伝うよ!
時也さん達にも
チーズケーキ用意するね!」
その様子を見た時也は
ようやく肩の力を抜き
穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。
では⋯⋯
お願いしてもよろしいでしょうか」
ソーレンは少し気まずそうに頷き
レイチェルと共にキッチンへ向かった。
その背中を見送りながら
時也はふっと小さく呟く。
「⋯⋯だいぶ、距離が縮まりましたかね」
青龍は苦笑のような
安堵のような顔で肩を竦めた。
「あの不肖の弟子が
ようやく一歩を踏み出したようで⋯⋯
良きことです」
アリアは小さく頷きながら
時也の袖を掴んだまま
静かに寄り添っていた。
時也はその手に気付き
そっと自分の手で
包み込むように握り返す。
リビングには
再び暖かな空気が流れ始めていた。
奥のキッチンからは
レイチェルの明るい声が聞こえ
ソーレンがそれに
ぶっきらぼうに返す声が響いている。
そのやり取りが微笑ましく
時也は少しだけ顔を綻ばせた。
夜の風がリビングを優しく通り過ぎ
月明かりが
窓から静かに差し込んでいる。
愛が芽生え
少しずつ温かさを取り戻すその場所で
二人の時間はゆっくりと流れていた。
時也達の為のケーキを切り分けながら
レイチェルはふと視線を横に流した。
ソーレンが無言で湯を沸かし
ミルで豆を挽いている。
その横顔はどこか真剣で
さっきまでのやり取りとは
打って変わって
少し緊張しているようにも見えた。
レイチェルは
思い切って声をかけた。
「ねぇ、ソーレン?」
その柔らかな呼びかけに
ソーレンは眉をぴくりと動かし
僅かに視線を向ける。
レイチェルは
手を止めることなく
微笑みながら言った。
「お風呂終わったら⋯⋯
私の部屋、来てくれない?」
その一言に
ピシリと
空気が張り詰めたような気がした。
ソーレンの手が止まり
湯が沸く音だけが、小さく響く。
数秒の静寂――
そして、ゴクリと喉が鳴る音が
妙に大きく響いた。
ソーレンは何も言わずに視線を逸らし
努めて無表情を保とうとした。
頬に熱が集まるのを感じながらも
気持ちを落ち着けるように息を吐く。
レイチェルは
そんな彼の様子に気付いていながら
何も言わず
ただ静かに答えを待っていた。
やがてソーレンは
言葉を選ぶことなく
ただ静かに――
けれども確かに頷いた。
「⋯⋯ああ」
その低く短い返事に
レイチェルは嬉しそうに微笑み
ケーキの準備へと手を戻す。
ソーレンも
湯の沸き具合を見ながら
再び動き出した。
会話はそれきりだったが
二人の間には言葉以上に
確かな何かが通じ合っていた。
鍋の底で
湯がコポコポと音を立て始める。
その音が
次の時間の訪れを予感させるように
静かにキッチンに響いていた。
レイチェルが切り分けたケーキを
時也達へと運んで行く。
「じゃ、私もお風呂
いただいてきまーす!」
そう言ってレイチェルは
バスルームへと去っていった。
ソーレンはカップにコーヒーを注ぎ
湯気が立ち上るのを
じっと見つめていた。
キッチンでのやり取りから
心臓の鼓動が収まらない。
レイチェルの何気ない言葉が
頭の中で何度も繰り返される。
『お風呂終わったら⋯⋯
私の部屋、来てくれない?』
あの一言が
まるで耳にこびりついたかのように
離れない。
ソーレンは無意識に額を手で覆い
深く息を吐き出した。
(⋯⋯ああ、落ち着け、俺
なんでこんなに緊張してんだよ⋯⋯)
頭の中がぐるぐると回る。
冷静になろうとすればするほど
余計に意識してしまう。
胸がじんわりと熱くなり
掌に汗が滲むのがわかる。
その時
レイチェルがパタパタと
足音を立てながら
キッチンに戻ってきた。
さっきまでの服ではなく
淡い水色のルームウェアに
着替えている。
髪は少し湿っていて
肌もほんのり赤みを帯びていた。
その姿に、一瞬で喉がカラカラに渇く。
「お風呂、使えるよ!」
レイチェルは笑顔で報告し
タオルで髪を拭きながら
頬を紅潮させている。
その姿があまりにも無防備で
ソーレンは視線を逸らしながら
短く返事をした。
「⋯⋯ああ、わかった」
その返事が
少しだけ掠れていた事に気付いたのか
レイチェルは不思議そうに首を傾げる。
だが
その疑問を口にすることなく
また部屋へと向かった。
その背中を見送る間も
ソーレンの心臓は落ち着く気配がない。
しばらくその場に立ち尽くしていたが
意を決してバスルームへと足を向けた。
廊下を歩きながら
考えがぐるぐると頭を巡る。
(部屋に来いって⋯⋯誘われてんのか? )
(⋯⋯いや、待て。
キスも拒むくらいだぞ?
だが⋯わざわざ風呂入って来いって⋯⋯)
思考が混乱し、まとまらない。
手早くシャワーを浴びようと
服を脱いで浴室に入ったが
湯の温かさが逆に体の熱を上げてしまう。
冷水で顔を洗ってみても
心のざわつきは収まらない。
(確かに⋯⋯⋯
恋人になったん だよな⋯⋯なら?)
(いやいやいや。
レイチェルはそんな⋯軽くねぇだろ)
自分でも
自分がどうしたいのか分からない。
普段なら
考えないようなことばかりが頭を巡り
どうにかして
平常心を取り戻そうとするが
逆効果だった。
湯気に包まれながら
ソーレンは壁に手をつき、俯いた。
(情けねぇ⋯⋯
俺、こんなにビビってんのかよ⋯⋯)
だけど、ふっと浮かんだのは
レイチェルの笑顔だった。
優しくて、無邪気で
誰にも遠慮しない
まっすぐなその笑顔が
胸を締め付ける。
(⋯⋯レイチェルが俺を信じて
誘ってくれたんだろ。
だったら⋯⋯)
ソーレンは、拳を握りしめ
自分に言い聞かせるように呟いた。
「⋯⋯情けねぇこと
考えんじゃねぇよ⋯⋯
ちゃんと、向き合え⋯⋯俺」
シャワーを浴び終え
濡れた髪をタオルで拭きながら
深く息を吐き出す。
何度か深呼吸を繰り返し
鏡の中の自分を見つめた。
やや険しい表情の中にも
少しだけ覚悟が宿っている。
(俺が逃げてどうする。
レイチェルを
愛するって決めたんだ⋯⋯)
再び自分に言い聞かせるように
ソーレンはバスルームを出た。
手の震えが少し残っているが
心を落ち着けているつもりだった。
(よし⋯⋯行くか⋯⋯)
静かに廊下を進み
レイチェルの部屋の前で足を止めた。
一呼吸置き
手をゆっくりとドアに伸ばす。
ノックしようとしたその時
ドアがすっと開き
レイチェルが顔を覗かせた。
「あ⋯⋯ソーレン、待ってたよ」
穏やかな笑顔と
その瞳に宿る微かな期待。
ソーレンは
照れ隠しに頭を掻きながら
低く呟いた。
「⋯⋯お前
そんな顔で待ってんじゃねぇよ⋯⋯
余計に緊張するだろ」
レイチェルはクスクスと笑い
手を差し出した。
「大丈夫。
私も緊張してるから⋯⋯
一緒に、慣れていこうね」
その言葉に
ソーレンは少しだけ表情を和らげた。
その手をしっかりと握り
レイチェルの部屋へと足を踏み入れた。
二人の距離が少しずつ近付き
夜はまだ長く続いていく。
お互いの心が少しずつ触れ合いながら
ぎこちなくも
確かな一歩を踏み出していた。