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転移してカンターヴィレに来てから、気づけば一ヶ月以上が経過していた。
最初は不安ばかりだったが、日々の訓練や仲間たちとの生活に慣れてきたせいか、少しずつこの館での暮らしを楽しめる余裕が出てきた。
そんなある日のことだ。
暇を持て余して、館の中を探検していると、古びた扉の前で足を止めた。何の気なしに取っ手を引くと、扉は意外にも簡単に開いた。
中に広がっていたのは、広大な図書室だった。壁一面を覆う巨大な本棚に収められた無数の本。それぞれが整然と並び、少し甘い紙の匂いが漂っている。
「すごいな……こんな場所があったのか」
思わず息を飲む。普段使っている訓練室や音楽室とは違い、ここにはどこか荘厳な雰囲気が漂っている。
本棚の一部には「カンターヴィレの歴史」と書かれた分厚い本や、「先代アルカノーレの手記」と刻まれた古びたノートが並んでいた。
ページをめくると、そこには楽譜や詩と共に、かつてこの館で暮らしていたアルカノーレたちの生活や、彼らがどんな運命を辿ったのかが記されていた。
「……こんなのがあったなんて」
その場に腰を下ろし、時間を忘れて読みふける。彼らがどんな訓練を積み、どんな思いで力を使ってきたのか。時折、ユーモアのある記述も混じっていて、思わず笑いがこぼれる瞬間もあったが――ふと、背筋に冷たいものが走った。
「この館自体がアルカノーレたちのために建てられた、だと……?」
記録にはこう書かれていた。
『この館は特殊な設計で作られている。アルカノーレたちの力を循環・制御し、その宿命を支えるための“器”である――』
さらにページをめくると、間取り図のようなものが描かれていたが、それはどうにも奇妙だった。見たことのある廊下や部屋もあれば、全く見覚えのない部屋や、地下へ続く隠し階段のようなものまで描かれている。
「……間取り図、こんな構造になってるのか?」
信じられない気持ちで図を凝視する。どうやらこの館には、自分たちが知らない秘密の空間が存在しているらしい。そして、それは館全体がアルカノーレたちの力を支えるための「謎」に満ちていることを示していた。
「ここって、ただの館じゃないんだな……」
図書室に残された本の数々は、まるでその秘密を物語るように静かに佇んでいた。
[newpage]
図書室で見つけた間取り図を手に、俺は不安と好奇心の入り混じった感情を抱えながらページをめくり続けた。知らない部屋や隠された通路が館の中に存在している――その事実を知っただけで、館の見え方がまるで変わったような気がした。
ページをめくるたび、新たな情報が飛び込んでくる。
先代アルカノーレたちがどんな訓練を積み、どんな困難に立ち向かったのか。そして、その中にはどうしても力を制御できず、悲劇的な結末を迎えた者たちの記録も含まれていた。
「……これ、全部本当なのか?」
俺は呟きながら記述に目を通した。読めば読むほど、この館が普通の建物ではないことを思い知らされる。いや、それだけじゃない。
アルカノーレとして生きるということが、どれだけの重責を伴うのかも。
ふと、ページの端に書かれた小さなメモが目に入った。どうやら先代の誰かが残したものらしい。
『この館の真実を知る者よ。その力を正しく使う覚悟があるのなら、真実への道は開かれるだろう』
「真実への道……?」
意味を理解する前に、何かの気配を感じた。館のどこかで微かな音が反響している。誰かが歩いているような音。
「……誰だ?」
反射的に立ち上がり、音のする方向へ目を向ける。が、図書室には俺以外に誰もいない。いや、そもそも扉が閉まっているのに、どうやって音が入ってきた?
その瞬間、微かな風がページをめくった。まるで見ろと言わんばかりに現れたのは、地下室への隠し通路についての記述だった。
「地下……?」
図にはその入り口の場所が細かく描かれていた。それを見て、ある考えが頭をよぎる。この場所はアルカノーレたちの訓練だけでなく、何かを隠すためにも作られたのではないか――と。
「……行ってみるか」
好奇心が抑えられなかった。俺は図書室の本をそっと元の場所に戻し、手に入れた間取り図を持って図書室を後にした。
館内を進み、間取り図に示された場所へと向かう。薄暗い廊下を抜け、誰も使っていなさそうな古びた扉の前に立つ。
「ここ……か?」
扉に手をかけ、そっと押す。すると、驚くほど簡単に開いた。中はひんやりとしていて、かすかに湿気のある空気が鼻を突く。階段が下へと続いている。
一歩踏み出した瞬間、背後から声がかかった。
「アソビ、何してるんだ?」
振り返ると、そこにはバスが立っていた。
「ば、バス……」
「お前、こんなとこで何やってんだよ。まさか……地下に入ろうってんじゃないだろうな?」
鋭い視線に冷や汗が滲む。
「え、いや、その……ちょっと好奇心で……」
「ここは立ち入り禁止だ。余計なことをするなって言われてるだろ」
彼の言葉に反論する余地はなかった。だが、その場を離れると、地下に秘められた何かが頭を離れなかった。
[newpage]
夜が更け、館が静寂に包まれる中、俺は眠れずにベッドで身じろぎしていた。
「……どうしても気になるんだよな」
昼間、あの地下室に足を踏み入れようとしたとき、バスが見せたあの態度。それが頭から離れない。まるで、何かを必死に隠そうとしているようだった。
結局、好奇心が勝った。俺はそっと部屋を抜け出し、廊下を忍び足で進む。目指すは、例の図書室だ。
扉の前に到着し、耳を澄ますと、微かに中から物音が聞こえる。
「誰か……いる?」
慎重に扉を開けると、そこにはバスがいた。彼は図書室の奥の棚に手をかけて動かしている。しばらくすると棚の向こうから小さな扉が現れた。
「……何だ、これ」
息を飲む。昼間には気づかなかった隠し扉。バスは鍵を取り出し、それを開けると、迷うことなく中へ入っていく。
俺は少し躊躇ったが、扉が閉まる直前に飛び込んだ。
狭く冷たい通路をしばらく進むと、やがて広い地下室に出た。石造りの壁に囲まれたその部屋は、薄暗い灯りに照らされ、不気味な雰囲気を漂わせている。
部屋の中心には、大きな魔法陣のような模様が刻まれ、周囲にはロウソクを立てる台や奇妙な道具がいくつも並んでいた。
バスは無言のままその中心へと進み、立ち止まった。その背中からは緊張感が漂い、いつもの無愛想な彼とはまるで違う雰囲気を感じさせる。
「……何をしているんだ?」
問いかけたくなる気持ちを必死で抑え、俺は息を潜めながら、その様子を見守った。
◇◆◇
バスは俺の存在に気づいていない様子で、無言のまま動き続けている。彼の手には一冊の古びた本があり、ページをめくりながら慎重に中身を確認していた。
その様子を息を潜めて見守っていると、やがてバスが特定のページで動きを止めた。何か重要な内容が記されているのだろうか。
バスは手元の移動用ランタンを持ち上げ、その灯を近くにある蝋燭へ移す。一本、また一本と蝋燭に火を灯していくうちに、薄暗い部屋の中が徐々に明るくなり、浮かび上がった模様や道具の輪郭がさらに際立った。
「……何してるんだ……?」
俺の呟きは、心の中だけに留める。足音すら立てないように息を殺しながら隅に身を潜めた。
やがて、バスは部屋の壁に向かい、本を片手に何かを刻み始めた。まるで見えないペンでも使っているかのように、手が滑らかに動いていく。刻まれた模様は複雑で、それぞれが魔法陣の一部のようにも見える。
不規則に描かれた記号や文字が、壁全体を覆い始めた。
「……すごい。これって、魔法陣?」
思わず声を上げそうになり、慌てて口元を押さえる。バスの表情は鋭く、彼がこういった作業を行う姿を見たのは初めてだった。
すべての壁への刻みを終えたバスは、一度深く息をつき、魔法陣の中心へと戻った。蝋燭の灯りに照らされるその背中は、どこか神聖な雰囲気すら漂わせている。
「……この人、いったい何をしようとしているんだ?」
鼓動が速くなる。俺は部屋の隅に身を潜めたまま、次の彼の行動をじっと見守り続けた。
バスは部屋の中心に立ち、両手で古びた本を持ちながら静かに息を整えた。そして、ページを見つめると低く響く歌声が部屋中に満ち始める。その瞬間、空気が重くなり、蝋燭の炎が揺らぎ、魔法陣の輪郭が薄く光り出した。
『満月の夜、私は罪悪感という鎖に繋がれていた。しかし、運命の女神が私を解放し、新たな試練へと導く……』
歌声の中に潜む圧倒的な力に、俺の耳と体が悲鳴を上げ始めた。心臓が重く鼓動し、全身が妙に熱い。まるで身体が歌に蝕まれているようだった。
「このままじゃやられる……!」
俺は気付かれないように扉の方へ後退し始めた。足をゆっくりと動かし、扉にたどり着くまであと数歩――だが、歌声の力はますます強まり、息をするのも苦しい。
なんとかドアにたどり着き、外開きの扉を押し開けた瞬間、意識がぷつりと途切れた。
ドサッ……
俺の身体は外側に開いた扉にもたれかかるように倒れ込んだ。
◇◆◇
扉が閉じたまま、部屋の中に取り残されたバスは眉をひそめる。
「……ん?」
彼は歌い終わった後……一度、手元の本から視線を外し、扉の方へと目を向けた。外の薄明かりが差し込んでいるのを見て、眉間にしわを寄せた。
「扉が開いてる……? 誰か来てたのか……?」
焦りの表情を浮かべたバスは、慌てて本棚の方へ目を向けた。
「まさか、アソビが後をつけてきた?いや、本棚の位置が――」
だが、本棚は手を付けられた形跡もなく、元の位置にあった。それを確認すると、ほっとしたように息をついた。
しかし、外に出ようと扉へ向かおうとした時、扉が外側から障害物で開けなくなっていた。
(地下室の扉は外開き)
「……おい、なんだよこれ。」
扉を押しても動かない。何か外で引っかかっているのか――それとも、誰かが倒れているのかもしれない。
彼の表情が険しくなる。
「くそっ、誰かふざけた真似を……!」
彼は一度深呼吸し、状況を冷静に判断しようとした。だが、閉じ込められたままではどうすることもできない。
[newpage]
[chapter:意識は泥沼の中へと]
(バス視点)
地下室の中は、いつもの薄暗さが妙に重苦しく感じられる。蝋燭を灯し、魔法陣を浮かび上がらせながらも、胸の奥で不安がくすぶっていた。
「……なんか嫌な予感がするな。」
移動式ランタンを足元に置き、手に取った古びた本を開く。歌詞に目を落としながら、心のざわつきを振り払おうと深く息を吸った。
『満月の夜、私は罪悪感という鎖に繋がれていた……』
低く響く声が地下室全体に満ちていく。歌詞を紡ぐたびに、胸に押し寄せる感情が増していくようだった。この歌は、俺自身の呪いだ。歌い終えると、蝋燭を一本ずつ消し、本を閉じる。
「さっさと出るか……」
扉に向かい、ノブを握る。しかし――
「……開かない?」
ノブを何度回しても、扉はびくともしない。外から何かが引っかかっている感触がする。
「おいおい、マジかよ……」
嫌な予感が一気に膨れ上がった。外で俺の歌声を聞いたアソビがぶっ倒れているのか? それとも、何かが扉の前を塞いだのか?
「……くそっ、何でこうなるんだよ!」
焦りと苛立ちが混ざり合い、頭を抱えたくなる。移動式ランタンを置いて、もう一度扉を力いっぱい押してみるが、やはり無駄だった。
空気が少しずつ重たくなっていくのを感じる。地下室の狭い空間では、新しい空気が入り込む余地はほとんどない。
「……まさか、本当にあのバカ陰キャもやしが扉の前に倒れてるってのか?それとも本当に不慮の事故で本とかが塞いで……?」
ぶつぶつと呟きながら、額にじっとりと汗が滲むのを感じた。胸が締め付けられるようで、呼吸が浅くなっていく。
「ちくしょう、もし倒れてるのがあいつだったら……ただじゃおかねぇ……」
俺は膝をつき、壁に寄りかかる。移動式ランタンの灯りが揺らめき、視界が少しずつ霞んでいく。
「……クソ……陰キャもやしが……」
最後に吐き出した言葉が、地下室の静寂に溶けた。目の前が暗くなり、俺の意識はそこで途切れた。
◇◆◇
翌朝。
朝の光が差し込んでも、館はどこか重たい空気に包まれていた。いつもなら賑やかな声が響く時間帯にも関わらず、何も聞こえない静寂。
いつも通り、アソビは朝食に来ない。テナーとバリトンは心配になり、バスの部屋を訪れた。
「バス、いないじゃないか。」
ベッドは無人。まるで誰かが急に出て行ったかのように、部屋は静まり返っている。あれほど肌身離さず持ち歩いている銃も、棚の上にきれいに置かれていた。
「バリ……これ……」
「銃まで置きっぱなしだって……?」
テナーが疑念の眼差しを向ける。いつもなら絶対にあり得ないことだ。何かがおかしい。そんな予感が、二人の胸に膨らんでいく。
「不安だな……。」
バリトンがつぶやくと、二人は別々に館を探し始める。テナーは上階を、バリトンは下階を。バスを見つけるために必死に捜索を続けるが、彼の姿は一向に見当たらない。
その間、アソビは――
地下室の扉の前に倒れ込んでいた。
意識を失ったアソビの体は、ひどくしんどそうに見える。目を閉じたまま、呼吸は浅く、動かない。倒れ込んでいる場所が地下室の扉の前だという事実が、どこか不自然なものを感じさせる。
だが、アソビが意識を取り戻すことなく、そのまま時間だけが過ぎていった。
そして、地下室の中では――
バスの意識は完全に朦朧としていた。
ランタンの灯りがかすかに揺れる中、バスは身動きが取れず、空気がどんどん薄くなっていく感覚を味わっていた。呼吸がうまくできない。喉が乾き、肺が重くなり、彼はただひたすら耐えている。
「クソ……」
バスの頭の中で思うことは、ただ一つ――
「ここで死ぬわけにはいかない。」
けれど、体は思うように動かず、意識はどんどん遠のいていく。自分がどんどん弱っていくのを感じながら、ただ一つ、思い出すのはアソビのことだ。
「……あの陰キャ、まさかこんなところで倒れてるんじゃないだろうな。」
その言葉と共に、彼の目の前がますます暗くなり、意識がふわりと消えかける。
[newpage]
一方、テナーとバリトンは館内を捜し続けていた。
二人は息を切らしながら、バスを探し回る。しかし、館内のどこを探しても、バスの姿は見つからない。
「おい、バス……いったいどこに行ったんだ?」
「銃を置いていくなんて、ありえないよ。」
テナーが急かすように言うと、バリトンも同じように不安を隠せずに続ける。
「ここまで何もわからないって、やっぱり……おかしいよな。」
二人の心には、次第に焦りが広がっていく。時間が経つにつれて、その不安がどんどんと大きくなっていく。
だが、その時――
テナーが足を止める。
「……待って、地下室は……?」
「……っ!?」
バリトンもその声に反応し、二人は無意識のうちに地下室のある図書室へと向かう。その足取りは確実で、まるで運命に引き寄せられるように。
その瞬間、二人は地下室の扉を見つめる。扉の前には、倒れたアソビの姿があった。
「アソビ!? 何で倒れて……!?」
テナーは駆け寄り、アソビの体を揺さぶる。しかし、アソビは全く反応しない。
「くそ……こんなところで倒れて……!」
その時、二人の頭に一つの不安がよぎる。それが、次第に確信に変わる。
「バス、もしかして……」
◇◆◇
「アソビ!? おい、しっかりしろ!」
テナーが倒れているアソビに駆け寄り、肩を揺さぶる。冷たい床に倒れ込んでいる彼は、目を閉じたまま微動だにしない。
「これ、完全に気絶してるな……」
バリトンが険しい表情を浮かべ、テナーは急いで脈を確認した。
「生きてる……でも、なんでこんなところで倒れてるんだ?」
二人が周囲を見渡すと、すぐ目の前には地下室の扉があった。その瞬間、バリトンの頭に嫌な記憶がよぎる。
「ここは立ち入り禁止だ。」
以前、バスが厳しい顔でそう告げた場所だ。
「まさか……バス、中にいるのか?」
バリトンは慌てて地下室の扉に駆け寄り、ノックをした。
「バス! いるなら返事をしろ!」
返事はない。ただ、冷たく静まり返った扉だけが二人の前に立ちはだかる。
「おかしい……。まさか中で何かあったんじゃないか?」
焦るバリトンはすぐに扉の取っ手をつかみ、思い切りドアを押した――
「……開かない!?」
扉はびくともしない。鍵がかかっているのか、それとも何かが引っかかっているのか分からない。
「ちょっと待て、どうなってるんだ……」
バリトンはさらに力を込めて押したが、それでも扉は開かなかった。
「中にいるのかもしれないのに……どうするんだよ!」
焦りと混乱で、冷静さを失いかけているバリトン。テナーが少し落ち着いた声で提案する。
「もしかして、鍵じゃなくて……これ、外開きなんじゃないか?」
「……え?」
その言葉に一瞬固まったバリトンは、改めて扉の取っ手を見つめた。
「外開き……!」
冷静になれば分かるはずの構造が、焦りのあまり見えていなかった。
「チッ……落ち着けよ俺……!」
バリトンは自分に言い聞かせるように息を吐き、改めて扉を引く動作に切り替えた。扉は、重々しい音を立てて少しだけ開く。
「開いた……!」
だが、その瞬間、地下室から漂ってくる空気が異様に重く、冷たく感じられた。
「中にいるのか……バス!」
バリトンは中に入ろうとするが、異様な静けさと扉の奥から漂う不吉な雰囲気に、一瞬足が止まる。
「急ごう……中の空気が明らかにおかしい。」
テナーの声に押されるように、バリトンは一歩足を踏み入れる。
[newpage]
地下室――
「……バス!」
扉を開けた瞬間、バリトンは異様な空気に包まれた。地下室の中は冷え切り、蝋燭の灯りだけが薄暗く揺れている。その中心に倒れている人影――バスの姿が目に飛び込んだ。
「おい、嘘だろ……!」
バリトンは駆け寄り、意識を失ったバスの身体を揺さぶった。
「おい、起きろ……バス! 目を開けろよ!」
だが、バスの顔は蒼白を通り越して青みがかっている。唇はチアノーゼで紫色になり、呼吸も浅く途切れがちだった。
「くそっ……死にかけてる……!」
バリトンは焦りながらも、バスの腕を肩に回して抱え上げる。
「重い……けど、死なせるわけにはいかねぇ!」
全身の力を使って、バスの身体を支えながら地下室の階段を上がる。冷たい汗が背中を伝い、足が震えそうになるのを必死に堪えた。
◇◆◇
図書室――
バリトンが図書室に辿り着くと、そこにはテナーと数人の使用人たちが待機していた。アソビはソファに寝かされ、既に応急処置を受けているようだった。
「バリ! バスは……!」
「ここにいる!」
バリトンはバスの身体を抱えたまま、使用人たちの前に運び込む。
「急いで! このままだと危ない!」
テナーが鋭い声で指示を飛ばし、使用人たちは即座に動き出した。バスの身体を横たえると、温めるための布や応急処置の道具を次々と用意する。
「……間に合うのか?」
息を切らしながらバリトンが問いかけると、テナーは真剣な眼差しで頷いた。
「まだ呼吸はある。ここで手を打てば大丈夫なはずだ。」
テナーの冷静な言葉に、バリトンはようやく肩の力を抜いた。そして、ぐったりしたバスと眠るアソビの姿を見比べながら呟く。
「……本当に無茶しやがって、二人とも。」
その言葉は、怒りとも安堵ともつかない複雑な響きを帯びていた。
(バス視点)
ぼんやりとした意識が、ゆっくりと現実へ引き戻される。最初に感じたのは、肌を撫でる冷たい湿布の感触だった。次に、どこか遠くから聞こえるざわめき。
それが自分の部屋で起きていることだと気づくまで、しばらく時間がかかった。
「……ここは……?」
乾いた声が喉を通る。視界はぼやけていて、薄目を開けても部屋の明るさに目が慣れない。かすかに見えるのは、見慣れた天井の装飾。
そして、視界の端で忙しなく動く影がちらつく。
使用人たちだ。俺が目覚めたことに気づいた一人が、驚いたように立ち止まり、ほっとした表情を浮かべた。
「バス様、気がつかれましたか?よかった……!」
その声を聞いて、ようやく自分がここにいる理由を思い出そうとする。だが、頭の中は靄がかかったように曖昧で、まともに考えがまとまらない。
ただ、地下室で扉が開かず、空気が薄くなっていった記憶だけが生々しく蘇る。
「テナー様をお呼びします!」
使用人の一人がそう告げて部屋を飛び出していく。俺はぼんやりとその後ろ姿を目で追ったが、すぐに疲れが押し寄せ、目を閉じた。喉が焼けるように渇いているが、身体は重く動かせない。
(……俺、助かったのか?どうやって……)
答えの出ない問いを繰り返していると、今度は部屋の扉が勢いよく開く音がした。
「バス!……目が覚めたんだね!」
聞き慣れた声が耳に届く。視線を上げると、駆け込んできたテナーの顔が見えた。普段の穏やかな表情はそこにはなく、目の下にクマを作り、髪も乱れたままだ。
「おい、そんな顔するなよ。俺、大丈夫だ。」
かすれた声でそう言ったが、思った以上に声は弱々しかった。喉の痛みが酷く、言葉を続ける気力もない。
テナーは俺のそばに膝をつくと、慌てた手つきで額や首筋に触れて体温を確認し始めた。その手は震えていて、彼の緊張が伝わってくる。
「顔はまだ白いし、唇も紫色っぽい……けど、呼吸は安定してる。ほんとに……無事でよかった……」
安堵の声を漏らした次の瞬間、テナーはその場に崩れるように座り込んだ。そして、俺の胸に顔を埋めると、声を震わせながら泣き出した。
「ごめん……本当にごめん……!どうしようもなくて……でも、無事でよかった……本当に……!」
肩を震わせるテナーの声が耳に痛いほど響く。その姿を見ていると、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
「……おい、泣くなよ。」
自分でも驚くほどのぎこちなさで手を伸ばし、彼の肩に触れた。動くたびに身体が軋むが、それでも彼を抱きしめるために腕を回した。
「俺はこうして生きてるだろ。お前のせいじゃない……だから、もう泣くな。」
震える彼の背中をそっと撫でる。テナーは返事をすることもなく、ただ俺の胸に顔を埋めたまま嗚咽を漏らし続けた。その小さな身体が震えなくなるまで、俺は何も言わずに寄り添うことしかできなかった。
テナーが泣き疲れて落ち着きを取り戻したのは、それから少し経ってからのことだった。俺の腕の中で、ようやく嗚咽を止めた彼は顔を上げると、腫れた目でじっとこちらを見つめた。
「……ありがとう、バス。無事でいてくれて、本当に良かった……」
「ああ。悪かったな、心配かけた。」
声を絞り出すように答えると、テナーはほんの少しだけ笑みを浮かべた。その表情に少し安堵しながら、俺は頭を切り替える。
「ところで……俺が見つかった時、何が起きてたんだ?俺がどうやって助けられたのか、詳しく教えてくれ。」
テナーは少し困ったように眉を寄せたが、すぐに口を開いた。
「実は、最初は朝食に来ないバスを探して、バリトンと手分けしてたんだ。でも、部屋にもいなくて、銃も置きっぱなしになってて……何かあったんじゃないかって思った。」
俺は眉をひそめた。銃を置きっぱなしにしていたのか。そんなミスをする自分が信じられなかった。
「それで、バリトンが地下室の前で倒れているアソビを見つけたの。そこで初めて、地下室にバスがいるんじゃないかって気づいたみたいで……」
「……アソビが、地下室の前で?」
胸の中で何かがざわめく。あいつが、あんな場所に?妙な嫌な予感が一瞬で沸き上がった。
「どうやらアソビは、バスの歌声を聞いて……その場で意識を失っちゃったみたい。もしかして地下室に入ろうとしたのかも……」
その言葉を聞いた瞬間、腹の奥から怒りが湧き上がるのを感じた。
(あのバカ陰キャもやし……何でわざわざあそこに来たんだ?歌を聞いた?何のつもりで俺に探りを入れてた?)
怒りがじわじわと胸に広がり、拳を握りしめる。しかし、テナーの次の言葉で一瞬冷静さを取り戻す。
「でも……入っちゃいけないって言われてたけど、バリトンがバスを助けるために扉を開けて、必死で地下室から運び出してくれたんだ。すごく苦しそうな状態だったから、僕も本当に焦ったけど……本当によかった。」
テナーはそう言いながら、改めて俺に向かって頭を下げた。
「バリトン、バスを助けるために動いてくれた。彼には感謝しなきゃね。」
俺は何か言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。確かに、バリトンは俺を救うために動いた。だが、その影でアソビが何をしていたのかは分からない。
「……で、あいつはどうしてる?」
自然とアソビのことを聞いてしまった。テナーは少し表情を曇らせる。
「アソビはまだ意識が戻ってない。メゾ先生が診察してくれてるけど、顔色も悪くて、相当消耗してるみたい。でも、命に別状はないって言ってたから……少しは安心していいんじゃないかな。」
そう言われても、俺の中の苛立ちは収まらなかった。あいつが何を考えて俺に近づこうとしたのか、そして俺をこんな目に遭わせたのか――直接問い詰めたい気持ちがふつふつと湧いてくる。
しかし、それを口にする気力はまだなかった。ただ、テナーの言葉に小さく頷き、視線を天井に向けるだけで精一杯だった。
[newpage]
テナーが椅子に腰掛け、ためらいがちに口を開いたのは、俺が再びベッドに身を横たえた直後のことだった。
「バス……ずっと気になってたんだけど、あの地下室には一体何があるの?どうして立ち入り禁止なの?」
その問いに、俺は一瞬言葉を飲み込んだ。テナーは真剣な目で俺を見つめている。その表情から逃れるわけにもいかず、俺は小さく息を吐いた。
「……あそこは、先代のアルカノーレ達がこの館を守るために作り上げた部屋の一部だ。簡単に言えば、このカンターヴィレ全体を支える力の源みたいなものだな。」
テナーは首をかしげる。
「力の源……?」
「詳しく説明すると、アルカノーレの歌声には、単なる音楽の枠を超えた“力”がある。その力を取り込んで、館全体に張り巡らせている結界の維持に使ったり、アルカノーレ自身の力を一時的に吸収して、必要に応じて戻すことができる仕組みだ。」
「じゃあ……バスもその歌声の力を、地下室で……?」
俺は頷いた。
「ああ。俺の歌は普通より力が強い代わりに、歌うたびに消耗が激しい。だから、無闇に使うわけにはいかないんだ。あそこでは、力を館に馴染ませるための“調律”みたいな作業を定期的にやってる。」
「昨日はその“調律”の日だったってこと?」
「そういうことだ。たまたま昨日がそのタイミングだった。ただ……こんなことになったのは初めてだ。」
俺の口調が自然と硬くなるのを、自分でも感じた。どう考えても、あの状況は普通じゃない。
「アソビがどうしてあんなところにいたのか、それが妙に引っかかる。地下室は俺以外立ち入り禁止のはずだし、あいつがあそこで倒れてたなんて、どう考えてもおかしい。」
テナーは黙り込んだ。表情には困惑が浮かんでいるが、言葉を選んでいる様子だった。そして、少し間を置いてからこう言った。
「確かに……アソビがあの場所にいた理由は謎だよね。でも、バス。今はまず休んで、体を回復させることを優先して。それから、アソビのことをどうするか考えればいい。」
俺は何も言わず、再び天井を見上げた。テナーの言葉は正しい。だが、頭の中ではアソビがどうしてあそこにいたのかという疑問が消えない。
(あいつ……何を企んでいたんだ?俺の力に何か気づいて、近づいてきたのか?それとも……)
胸の中にわだかまる不安と苛立ちを押し込めながら、俺は目を閉じた。
(アソビ視点)
目が覚めた――いや、これは目が覚めたというのだろうか。
ぼんやりと浮かぶ意識の中で、自分がどこにいるのか全く分からない。視界は暗闇一色。手を伸ばしてみても、何かに触れる感覚はなく、ただ自分の身体の重さだけがのしかかっている。
「ここは……どこだ……?」
声に出したつもりだったが、音はどこにも響かない。空気の流れも、風の気配も感じられず、ただ全身が冷たい泥に包まれているような感覚だけがあった。
足元が、ぐにゃり、と沈んだ。
「な、なんだ……これ?」
次の瞬間、全身が何かに引っ張られるような感覚に襲われた。足元が沼地に吸い込まれるように沈んでいく。慌てて足を動かそうとするが、ぬめりのある感触が動きを封じる。
力を込めるほどに深く沈んでいく。
「動け……! 動けよ!」
焦りと恐怖が胸を締め付ける。全身の感覚が鈍くなり、寒気が背筋を駆け上がった。
そのとき、不意に耳元で微かな音がした。
――歌声。
低く、重く、そしてどこか温かみを感じる響き。聴き覚えのあるその声が、暗闇の中に静かに流れ込んでくる。
「……バス?」
確かに彼の声だ。それなのに、どこか違う。まるで俺を誘うように、響くたびに心臓が締め付けられるような痛みが広がる。
「やめてくれ……苦しい……!」
叫びたくても声が出ない。全身が硬直し、呼吸さえもままならない。息を吸おうとするたびに、胸が押しつぶされるような感覚が襲う。
歌声が徐々に強まる。響きが身体を貫き、泥の中に深く沈むたびに、苦しみと奇妙な快感が交互に押し寄せてきた。
「これ、何なんだよ……?」
自分の感覚がどんどん狂っていく。痛みは確かに存在している。それなのに、そこに潜む心地よさが徐々に俺の中で広がっていく。
黒い液体が身体にまとわりつき、全身を支配していく。手足は完全に動かなくなり、視界はますます暗闇に覆われていった。意識だけが冴えわたり、自分の無力さが際立つ。
「こんなところで……俺は終わるのか?」
誰にともなく問いかける。それに答えはなかった。ただ、遠くから聞こえる歌声が、ますます深く俺を泥沼の底へ引きずり込む。
――沈む。
意識は途切れそうになるたびに引き戻され、また沈む。その繰り返しの中で、最後に一つの疑念が頭をよぎる。
(俺……なんで、こんな場所にいるんだ……?)
その問いが虚空に消えた瞬間、俺の意識は完全に暗闇に飲み込まれた。
―――――
目の前の暗闇が揺らめき、遠くから歌声が聞こえてきた。低く、深い声。空気を震わせるようなその響きに、俺は自然と耳を傾けていた。
「……バス?」
瞬間的に名前が浮かぶ。そうだ、この声は彼のものだ。アルカノーレとしての力を秘めた彼の歌声。俺たちには耐えがたいほどの圧力を伴う。なのに、どうしてだろう――その圧が不思議と心地よい。
歌声が徐々に強まる。その重厚で強烈な音の一つ一つが、俺の中に突き刺さるように響いてくる。心の奥底をえぐるように、鋭く、針のように深く届く。
「痛い……」
本能的にそう感じる。だが、その「痛み」は奇妙な形で俺を包み込むように変わっていった。息苦しいのに、逃げられない圧迫感があるのに、どこか安心感すら覚えてしまう。
この矛盾した感覚が、俺をどんどん縛りつけていく。
(目を覚まさないと……)
頭の中でその言葉を繰り返す。けれど、身体は微動だにしない。意識は沈む一方で、俺の心はどんどん歌声に囚われていく。
彼の歌声はただ美しいだけじゃない。鋭さと力があって、それが俺の心を掴む。痛みと快感が混ざり合い、俺の思考を曖昧にしていく。
「これが……バスの声の力……?」
意識の中で自分に問いかける。彼の歌声がこれほどまでに俺を動けなくさせるなんて想像もしなかった。テノールとして俺もアルカノーレの力を持っている。それなのに、この瞬間だけは、俺は完全に彼の支配下にある。
目の前の暗闇がさらに濃くなっていく中で、彼の声がさらに強く、深く響く。俺の心臓を掴み、締め付け、身体を重くするようなその音の圧。苦しい――でも、その苦しさの中に奇妙な安らぎが混ざり込んでいる。
(なんでこんなに……心地いいんだ……?)
そう考えるたびに、自分が自分でなくなるような感覚が広がっていく。俺の中の意志は弱くなり、ただ歌声の響きに身を委ねたくなる。
でも、頭の片隅では分かっている。このままじゃいけない。このままじゃ――。
「目を覚ませ……」
自分自身にそう言い聞かせる。けれど、深い沼のような意識の中で、俺は抗う力を失っていた。歌声はさらに強く響き、俺の意識はその音に完全に飲み込まれる。
――そのままでいたい。
頭では分かっているはずなのに、心の奥底がそれを拒む。歌声に包まれている間だけ、俺は安心していられる。苦しくても、辛くても、そこに心地よさがあるなら、逃げる必要なんてない。
(でも……そんなはず……ない……)
最後の意識の糸を手繰り寄せようとするも、身体は動かず、思考も断ち切られるように音の中に溶け込んでいく。
――俺は目を覚ますことができるのだろうか?
その問いが意識の底に沈む瞬間、俺は再び暗闇の中へと落ちていった。
意識を失ったアソビが寝台に横たわってから、すでに三日が経っていた。俺の体調も少しずつ回復してきたものの、まだ完全に動けるわけではない。
部屋で寝ている時間が長い分、頭の中はクリアで、考えが巡る。
「……アソビ、お前、何を聞いたんだ……?」
隣室の寝台に横たわるアソビの姿を想像するたび、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。俺の歌声が彼を縛り付けている――そう、アルカノーレとしての本能が教えてくれる。
主人格であるテノールは音楽への感受性が特別に高い。だから、俺の歌声が彼の意識を支配してしまったのだ。通常の人間ならば感じることのない“重さ”や“圧”が、アソビには直に響いてしまった。それが彼を意識の奥深くへと閉じ込めた原因だ。
「……俺のせいだな」
独り言が、部屋の静寂に沈む。アソビを救うにはどうすればいいのか、そればかりを考えていた。そして、ようやく一つの答えに行きついた。
「テナーの力を借りるしかない」
テナーの歌声には癒しの力がある。それなら、俺の歌声がもたらした傷を癒し、彼を意識の深淵から引き戻せるかもしれない。そう考えた俺は、テナーに協力を頼んだ。
◇◆◇
その夜――
テナーが穏やかな歌声を響かせる中、俺はアソビの枕元に座って彼の顔を見下ろしていた。普段は自信に満ちた表情の彼が、今は静かで、まるで眠っているだけのように見える。しかし、わずかに動く指先や眉間の微かな震えが、彼の中で何かが起こっていることを物語っている。
「テナー、歌を続けろ。彼を引き戻すんだ」
俺がそう言うと、テナーは目を閉じ、さらに深く歌声を響かせた。その声は柔らかく、包み込むようで、俺の心にも穏やかな波をもたらす。
しかし――アソビの反応は薄いままだった。
「……どうしてだ」
テナーの歌声が確かに届いているはずなのに、アソビは微動だにしない。むしろ、彼の顔はさらに白く、唇の色も悪くなっているように見える。
「バス、歌の力が足りないのかもしれない」
テナーがそう呟いた。俺は唇を噛む。力が足りない? それとも、俺の歌声が想像以上に彼を縛り付けているのか?
「なら、俺も歌う」
俺は立ち上がり、テナーの横に並んだ。そして、二人の声が重なり、部屋いっぱいに響き渡った。
低音の響きと、優しい高音の調和。二つの声がアソビの意識へ届くことを願いながら歌い続けた。だが――
「……起きねえ」
どれだけ歌っても、アソビの意識は戻らない。俺の中で不安が大きくなり、やがてその不安は苛立ちへと変わった。
「……やっぱり、俺の歌が……」
俺は拳を握りしめる。自分の歌声が強すぎたのだ。彼を救おうとして歌ったあの声が、彼を傷つけた。その事実が俺の心に重くのしかかる。
「バス、大丈夫。まだ時間がある。諦めないで」
テナーが肩に手を置き、そう言った。だが、俺の中にある焦りは消えなかった。
「……このままじゃ、あいつ……」
言葉が途切れる。視線の先には、眠り続けるアソビの姿。歌声も祈りも届かない彼の姿が、俺をさらに苦しめた。
アソビが意識を失ってから、一週間が経過していた。
その間、俺たちはできる限りの手を尽くしてきたが、彼はまるで魂を抜かれたように昏睡し続けている。どれだけ呼びかけても、どれだけ歌声を届けても、反応は皆無だった。
「……どうすりゃいいんだよ」
俺は苛立ちを隠せず、図書室の机に拳を打ち付けた。こんなに長く意識を失ったままでいるなんて、尋常じゃない。
「バス、少し休んだら?」
背後からテナーの声がした。彼はここ数日、ほとんど付きっきりでアソビの看病をしている。だがその表情は疲れ切っていて、明らかに限界に近い。それでも彼は一度も弱音を吐かず、アソビの傍を離れようとはしなかった。
「……お前こそ休めよ。俺よりもお前が先に倒れちまう」
「僕は大丈夫。彼が目を覚ますまでは……」
テナーの声はかすかに震えていた。その姿を見ていると、俺も焦りばかりが募る。
◇◆◇
一方、図書室では、バリトンが片っ端から古い書物を漁っていた。アルカノーレに関する手記や、過去の記録が詰まった分厚い本が山積みになっている。
「……目覚める手がかり……目覚める手がかり……」
彼は呟きながら、紙をめくる手を止めることなく、何か手がかりを探していた。
「おい、何か見つかったか?」
俺が図書室に足を踏み入れると、バリトンは険しい顔をこちらに向けた。
「いや……何も……。でも、あきらめるわけにはいかない」
その言葉に俺は何も返せなかった。バリトンはアソビを救うために懸命だったし、俺たち全員が彼を失うわけにはいかないと必死になっていた。
―――数日後。
時間は無情にも流れていった。俺も、テナーも、バリトンも、それぞれの方法でアソビを目覚めさせようと動いていたが、何の成果も得られないままだった。
そんなある夜、事件が起こった。
アソビの部屋から突然、鈍い音が響いた。俺たちは一斉に駆けつけた。
「アソビ!?」
部屋に飛び込むと、彼の寝台の周りで妙な現象が起こっていた。部屋全体が微かに音を立て、空気がざわめいているような感覚がする。そして、アソビの身体がかすかに動いていた。
「動いてる……!」
テナーが小さく息を飲む。アソビの手がわずかに拳を握り、次に唇が微かに動いた。
「……俺……」
低く掠れた声が彼の口から漏れる。それは確かに、アソビの声だった。
「アソビ! 目が覚めたのか!?」
俺は彼の顔を覗き込んだ。瞼がゆっくりと開き、彼の目がこちらを捉えた瞬間、俺の胸の奥にあった重しが一気に崩れ落ちた気がした。
「…バ……ス……?」
彼が俺の名前を呟く。それだけで俺は安堵し、全身の力が抜けた。
「やっと目が覚めたか……」
テナーも、安堵の涙を浮かべながら、アソビの手を優しく握りしめた。
「無理するな。ゆっくりでいいから、話してくれ」
俺がそう言うと、アソビは小さく頷き、ゆっくりと口を開いた。
「……俺……夢の中で……バスの歌声が……」
そこから先の言葉は掠れていたが、俺には十分だった。彼が無事に戻ってきた、それだけでよかった。