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年度半ばのこの日、私が所属する管理部は全体が朝からそわそわしていた。なぜなら、今日から新しい仲間が増えるからだ。それが男性だと言うこと以外、私はまだその人の詳しい情報を知らない。
パソコンを立ち上げて、今日の仕事の予定を確認していると、同僚の田苗が隣の席からワクワクした様子で話しかけてきた。
「ねぇ、笹本、今日だよね。いったいどんな人だろうね。イケメンだといいなぁ」
「既婚者のくせに、何言ってるのよ」
田苗はにやりと笑った。
「既婚だからよ。職場でくらいは目の保養をしたいわけよ」
「旦那さん、イケメンでしょ?それで十分目の保養になるじゃない」
「たまには違うタイプのイケメンを見たくなるのよ」
「何、それ。よく分からないんだけど……」
田苗にあきれ顔を向けた時、管理部長の大槻が姿を現した。その後ろに続いて入って来たのは、例の噂の人だろう。大槻の陰になっていて、私の場所からは顔が見えない。
「おはよう。みんな、ちょっといいでしょうか」
大槻は自分のデスクの前に立ち、フロア全体を見渡して声を張った。
その声を合図に、皆が椅子から立ち上がった。大槻の方、正確には彼の隣でかしこまっている男性に対して、控えめな、けれども興味津々の目を向ける。多くはない女性社員たちに至っては、既婚未婚に関わらず色めき立っているようだ。
「早速だけれど、こちらの方を紹介します。今日からここで一緒に働くことになる北川拓真さんです」
聞き覚えがある名前だと思った時、頭の中に突然浮かび上がったのは学生時代の元カレの顔だった。
うそでしょ――。
胸の奥がざわめいた。
大槻が続ける。
「管理部としての業務をひと通り経験してもらう予定ですが、初めは総務に所属してもらいますので、よろしくお願いします。――それでは、北川さんからもひと言お願いします」
大槻に促されて一歩前に出たその人物を、私は課長の田中の背中越しに凝視した。
うそ――。
その顔に見覚えがあると思った瞬間、すでに頭の片隅からさえもすっかり消えていたと思っていた当時の想いが、記憶が、一気に蘇った。
大槻の隣に立っていたのは、元カレだった。そうと分かった瞬間、顔は強張り、どきどきと心音がうるさく響き出した。まずい、と思った。
その昔、私は北川から逃げた。一方的に別れた。彼が当時のことを覚えているとしたら、終わり方が終わり方だっただけに、きっといい思い出ではないはずだ。だけど、あれからすでに七年はたっている。私のことは、さすがにもう覚えていないのではないか。仮に覚えていたとしてもうろ覚えということもあるし、それでなくても今の私が元カノだと気づくだろうか。あの頃とは、洋服の好みもメイクも髪型も変わった。似ている別人かと思いそうなくらいには変わったんじゃないかと思う。それ以前に、この会社に、この部署に、私がいるとは思っていないだろう。そうだ、きっと覚えていないに違いない。だから大丈夫だ――。
根拠が曖昧なのは分かっていたが、私は自分に都合よくそう決めつけた。一方で本当に忘れられていたら寂しいとも思い、すぐさまそんな自分の身勝手さに呆れる。理由はどうあれ、ひと言もなく彼の前から去ったのは私の方だった。今さらそんなことを思う資格はない。
いずれにしても、この再会が今の私にとって喜ばしくないことであるのは確かだ。万が一にも北川が気づき、あるいは思い出してしまう時が来るぎりぎりまでは、知らないふりを貫こう。職場だけでの仕事上の付き合いにとどめ、淡々と接している限りは、そう簡単には気づかれやしないだろう。そして、色々な意味で彼とは必要以上に接触しない方が賢明だ。
私は太田の方へちらと目をやった。女性たちの視線を集めた北川に対して、太田が捻じ曲がったおかしな嫉妬心を起こさないとは言いきれない。
そんなことを考えているうちに、北川の自己紹介は終わってしまっていたようだ。
彼は部内の社員たちの顔をぐるりと見渡した。その様子は非常に落ち着いていて、転職者とは思えないほど堂々として見えた。
「管理部門での仕事は初めてですので、皆さん、ご指導よろしくお願いします」
北川は締めくくりの言葉を口にしてから、丁寧に頭を下げた。
その後、彼はやや緊張したような面持ちで、大槻に伴われて総務課にやってきた。改めて課の面々一人一人と挨拶を交わし合う。
もちろん私も挨拶したが、その時の彼の表情の中に、例えば動揺や驚愕といった感情の揺れは見当たらなかった。やはり気づいてはいないようだと、複雑ながらも改めて安心する。
各々の簡単な自己紹介が終わり、田中が私に言った。
「笹本さん、北川さんの歓迎会の段取り、お願いできる?管理部全体でということで、部長の都合も聞いておいて」
「分かりました」
そう言えば、彼の苦手な食べ物はなんだったかしら。それは今も変わらないのかな――。
彼の食の好みを思い出そうとしている自分に気づき、私は慌てて頭の中からそれを追い払う。
私の心の内など知らない田中がさらに続けた。
「それから、今は特に急ぎの仕事はなかったね?」
嫌な予感を覚えつつ私は身構えた。
「はい、特には……」
「それならさ、北川さんに社内を案内してあげてくれる?その後は早速OJTに入ってもらうということで。北川さんには、斉藤さんについてもらおうと思う」
「それなら、案内は斉藤さんにお願いした方がいいんじゃ……」
「悪い、笹本。ちょっと急ぎの仕事入っててさ。戻って来るまでは終わると思うから、それまで頼むよ」
斉藤がすまなさそうに謝った。
急ぎの仕事があるのなら仕方がない。ちなみに田苗と今野、鈴木はどうなのかと他の同僚たちを見ると、それぞれに真剣な顔でパソコンに向かっている。
今のこの時、手が空いているのは私だけらしい。
「分かりました。――それじゃあ、早速案内してきます。北川さん、このまま行っても大丈夫ですか?」
北川はやや固い笑みを浮かべて頷いた。
「はい、お願いします」
「では、行きましょう」
私は対外用の作り笑顔で彼を促し、廊下に向かって歩き出した。
それなりに大きい社屋だが、ざっと案内するには一時間もあれば十分だ。
北川の少し前を歩きながら、私は終始緊張していた。私が元カノだと気づいてはいないようだし、気づかないはずという勝手な結論に達してはいたが、それでも不安は皆無ではない。
一方の北川は多少緊張が解けてきたのか、時折私に質問を投げかける声は穏やかで、表情も和らいでいる。
「最後は資料室です」
ここが終われば後は斉藤にバトンタッチだ――。
北川に気づかれないように小さくため息をつき、私は資料室の前に立った。
ここには各部署ごとの過去の資料などが保管されている。中には個人情報も含まれた書類もあるから、入退室者の管理目的で一応のセキュリティシステムが導入されている。入室の際には社員証をかざしてロックを解除する方式になっていた。
そのことを説明してから、私は自分の社員証でドアを開け部屋の中に入った。
「どうぞ」
促す私の声に北川も足を踏み入れる。
「ざっと中を見たら、席に戻りましょう」
「はい」
私は北川の前を歩きながら、保管している資料について簡単に説明する。ひと通り説明が終わり、出入り口に向かいながら私は彼に訊ねた。
「何か質問はありますか?」
すると、ドアの手前で足を止めて北川は言った。
「一つだけ確認したいことが」
「何でしょう?」
振り返った私の前に、北川がずいっと足を踏み出した。
「あの……?」
困惑して後ずさる私を見下ろして、彼は落ち着いた声で言った。
「碧ちゃんだよね」
途端に私の表情は固まった。なぜ分かったのかと思う気持ちと、やっぱり分かったかと思う気持ちとが入り乱れた。けれど本当は、彼が気づくのは時間の問題だろうと、心のどこかで分かってはいた。知らないふりを貫こうという決心は崩れかけ、動揺が顔に出そうになったが、どうにか持ちこたえた。
ここで認めてしまったらきっと責められる――。
そんな展開は避けたい。私はあくまで北川とは初対面だという態度を取り続けようとし、上辺だけの笑顔を貼り付けた。
「私と似ているお知り合いでもいるんですか?さ、戻りましょう」
私は北川から目を逸らした。しかし、背を向けようとした私を彼の声が引き留める。
「待ってくれ」
北川は言葉を続けた。
「確かにあの頃と見た目や雰囲気は変わったかもしれないけど、俺に分からないはずがない。君は、俺の彼女だった碧ちゃんだろう?」
その声はかすれて聞こえ、そこに今どんな感情が込められているのか判断がつけられなかった。
「違います」
なおも言い張る私に、北川は悲しそうな顔をした。
「俺のこと、覚えていないの?」
「覚えていないも何も……」
あなたの勘違いだから――。
そう続けようとした時、彼は手を伸ばして私の頬にそっと触れた。
「なっ……」
私は驚いて顔を背けた。鼓動がうるさいくらいに鳴り出した。一瞬目に入った彼の目があまりにも優しく見えて、頭の中が混乱する。
あの時のことを怒っているのではないの――?
私は恐る恐る北川を見上げた。
「やっと目が合った」
彼がほっとしたように微笑んだ。
「俺のこと、知らないふりをしようとしていたことには気づいていたよ。そんなに俺に会いたくなかった?もしもその理由が、俺の思っている通りのものだという前提で、今ここで言っておこうと思う。俺はあの時のことを怒ってはいないし、碧ちゃんを責めようとも思っていない。むしろ、できることならもう一度会いたいと思っていた」
北川の目は穏やかだった。
「あの時急に会ってくれなくなったのは、俺が何か、君を傷つけるようなことをしてしまったからなんだろう?君にとっては過去のことで今さらな話だと思うけど、できることならその理由を聞かせてほしいんだ。そうすれば、俺も前に進める」
知らないふりをすると決めたはずだったのに、私は北川の言葉に反応してしまった。
「前に……?」
私だと知られたくなかったのは、会ったら絶対に責められると思っていたからだ。しかし今の話から、彼もまた私との別れを引きずっていたらしいことを知る。それがしこりとなって心に残っていたのは、北川も同じだったのだ。しかも、私が離れた原因が北川自身にあったと思っていたとは……。
あの時逃げたのは、そんなに深刻に捉えなくてもいいんじゃないかと、今だったら思える理由からだったが、当時の私は軽く流せなかった。だが、感じたこと、思ったことを、言葉にして伝えるべきだったと遅すぎる反省をする。あの時の私は自分のことしか考えておらず、彼の気持ちを想像できていなかったし、想像しようともしなかった。
北川から昔と変わらない優しい微笑みを向けられて、罪悪感と切なさに胸が苦しくなった。次の瞬間には、ポロリと言葉が口をついて出ていた。
「拓真君、ごめんなさい……。あの時の私は……」
昔そう呼んでいたように、私は自然に彼の名前を口にしていた。自分が彼の恋人だったことを認めた瞬間だった。
あれほど頑なに気づかれたくないと思っていたのに、なんとも呆気ない。時間の問題だったのは自分の方だった。
続ける言葉が見つからずうつむく私に、北川はしみじみとした口調で言う。
「会えて良かった……」
その言葉が本心かどうか確かめたくなって、私はそっと北川を見上げた。
そこにあった温かいまなざしを受けて胸が詰まる。嬉しい、と思った。
北川は私の顔を覗き込む。
「二人で会う時間を作ってもらえないか?あの時は作れなかった互いに向き合う時間がほしい。君と話をすることで、今まで引きずってきた気持ちに区切りをつけたい」
「でも、私……」
私は口ごもりながら目を泳がせた。
その様子を見て察したのか、北川は残念そうに言った。
「もしかして、付き合ってる人がいる?いや、いない方がおかしいか」
付き合っている人は確かにいる。けれど、別れたいと思っている人だ。そのことを正直に言うべきかどうか迷う。
「それなら、二人きりで食事とかはまずいよね。俺の勝手を押しつけるようなことばかり言ってしまって悪かった。これからは同僚の一人として、よろしく頼むよ。戻ろうか」
北川は作ったような笑顔を作り、くるりと背を向けた。
そのままドアに手を伸ばそうとする彼を、私は止めた。
「待って」
北川は手を降ろし、振り返らないまま平坦な口調で言う。
「どうして引き留めるの?」
私は一歩北川に近づいて、彼の背中に向かって言った。
「私の話、怒らないで聞いてくれるんだよね……?」
北川がゆっくりと振り返った。
「怒ったりなんかしない。責めたりもしないよ」
「それなら今度、拓真君の都合のいい時に誘ってください」
私は手元に持っていたメモに自分の連絡先を走り書きして、彼に渡した。
「私の番号、もう消しちゃってると思うから……」
「彼氏は大丈夫なの?」
「大丈夫よ、たぶん……」
言葉尻がしぼむ。もしも太田にバレたらと思うと身がすくみそうになる。だけどこの機会に、北川と向き合って話をしたいと思ってしまった。そうすることで、私が原因となっている傷のようなものを、彼の心の中から取り除いてあげられたらいいと思う。
「無理、させてない?」
私は首を横に振った。
「無理なんかしてないから」
「そう……。それなら」
メモに目を落とした北川の顔が綻んだ。
「ありがとう。嬉しいよ」
彼の笑顔が大きくなった。
「変わってないんだね」
「もしかして残っているの?私の番号」
彼はばつが悪そうな顔をした。
「気持ち悪い男だと思うだろうね。君と連絡が途絶えた時、心機一転と思って番号を変えたんだ。でも結局、何度も見て、何度もかけた君の番号は忘れられなくてね。もうかけることもかかってくることもないと思いながら登録して、今に至ってる」
彼はメモを大事そうに胸ポケットに仕舞いこんだ。
「あとで改めて連絡するよ」
北川はそう言いながら私の手を取ろうとした。
私はその手から逃げるように、一歩分ほど急いで後ろに下がって彼から離れた。
「今いるこの辺りはたぶん死角になっているかもしれないけど、部屋の角二か所には監視カメラがあるの。最初に伝えるのを忘れていたわ。ごめんなさい」
「えっ」
彼は伸ばしかけていた手を急いで戻し、苦々しい声で文句を言った。
「もっと早く教えてよ」
「ごめんなさい」
彼の慌てる様子につい笑い声がもれた。しかしすぐにそれを飲み込んで表情を取り繕い、私はドアに手をかける。
「戻りましょう」
北川を促して歩き出したが、すぐに立ち止まる。言い忘れていたことがあった。
「お願いがあるの。会社では必ず名字で呼んでほしい。もちろん私も名字で呼びます。それから、職場では私たちが知り合いだと分かるような素振りは、絶対に見せないで」
「碧ちゃんがそうしてほしいんなら、もちろんそうするけど……。何か理由があるの?」
「それは……」
北川の登場は、女性たちをざわつかせた。そんな彼と私が同じ課になったことを、きっと太田は快く思っていない。だからこそ、間違っても彼には、北川が元カレであることを知られてはいけない。
北川はしばらく考え込むような顔をしていたが、納得したように頷いた。
「分かった。でも」
彼は悪戯っぽい顔で続ける。
「二人きりの時には昔のように呼ぶよ」
私は苦笑を浮かべるだけにとどめた。
「今度こそ戻らなきゃ。斉藤さんの仕事、そろそろ区切りがついた頃でしょうから」
部屋を出てオフィスに足を向けながら、私はちらりと隣を歩く北川に目をやった。滑らかな顎のラインが目に入り、どきりとする。同時に、葬り去ったはずの甘酸っぱい想いがこみ上げてきた。そして気づいてしまった。私はやっぱりまだこの人が好きなんだ、と。二人で話す時間を作ってほしいと言われた時、戸惑いながらも本心では嬉しいと思ってしまっていた。
このことは、絶対に太田に悟られてはいけない。別れを告げるつもりではいるが、だからこそ北川を太田と私の問題に巻き込みたくはない。そのためには、北川本人にもこの想いは隠しておいた方がいい。
それに、と力なく思う。
北川が引きずっていたのは私との別れ方であって、私への気持ちではない。言葉の端々に彼の想いがちらついたような気がしたことを思い出すと、もしかして彼も、などと期待してしまいそうになるが、それは私の思い違いだ。彼はただ当時を懐かしんでいただけ。それを私の願望がそう感じさせただけなのだ。
私は自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えるために拳をぎゅっと握り込んだ。