テラーノベル
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――あれからどの位経ったのだろう。俺は今、暗闇の中で一人取り残されている。
睡魔が襲って来ようが、それを上回る痛覚が安寧を許さない。
夢現、現世こそ地獄也とはよく云ったものだ。
無間地獄を経て、俺のゴッドハンドレットは禍々しくフォールダウンが完了してしまった。
“サタンネイル”
即ち悪魔の爪。
かつて神が悪魔に堕天した事例は有っただろうか?
否、有史以来一度たりとも無い。魔王ルシファーやベルゼブブと云った、元天使の連中は別としてだ。
『オホホホホ! 最高よぉ!!』
“ゾクリ”
奴の歓喜の唄を思い起こし、身震いが止まらなくなる。
思い出すだけでおぞましい。
“何故だ――”
「ぐうぅ……」
余りの悔しさから視界は歪み、涙が望まぬとも溢れ出していた。
“何故俺がこんな目に?”
それは止められない激情。
「うおぉぉぁあああぁぁぁ!!」
揺さぶられる思いは慟哭となり、行き場の無い咆哮は闇に木霊する。
神よ――
“これが……こんな事が試練なのですか?”
後どれだけ続く? どれだけ耐えればいい?
教えてくれ神よ――
「違うっ!!」
そうだった。
この世に神などいない。
俺が神だからだ。
「ククク……ヒャヒャヒャヒャハァー!」
笑いが止まらなかった。この陳腐な茶番劇に――
“クズめ……”
思い知らせてくれる!
***
――悪魔の胎動と共に開かれる地獄門。それは奴がやって来た合図。
「おはようジョン……」
つかつかと奴が俺の下まで歩み寄って来た瞬間――
『ふざけんなこのアマァァァ!! ぶっ殺してやるぅ!』
と頭の中で何度もシュミレートした罵詈雑言が、よく吟味されて口に乗る瞬間だった。
それは言葉になる事なく、寸でで止まる。
思わず止めてしまったのだ。
何故なら――
「ごめんね……」
奴はこれ迄見せた事もないような悲痛な表情を浮かべ、その瞳には鬼の眼にも涙。
意外としか言い様のない懺悔の言葉を、明らかに俺に向けて投げ掛けてきたからだ。
「私はあれから本当に反省したわ……。ジョンの為とはいえ、私は何て酷い事を……。痛かったでしょう?」
痛いなんてレベルじゃない。煉獄だ。
「あっ……いや」
その地獄をこいつにも思い知らせる筈だったが、その涙が俺を戸惑わせた。
「もうジョンに痛い思いはさせたくない……」
どうやら本当に悪いと思っているようだ。
「私は本当にジョンを愛してるの。それだけは分かって……」
意外な求愛の告発と共に、女は俺の胸へとしがみついて来た。
それは俺に拒絶される怖れ。まるで捨てられた子犬の様にか細い存在に見えた。
「愛してる……愛してるの」
言霊の様に繰り返し嗚咽する姿は、ルシファーでもなく、一人の女性そのものだった。
「俺は……俺は――」
俺は誰も愛さない。
愛され支配する側だ。
幾ら求められても、俺がこいつを愛する事は無いだろう。
ただ、その涙に濡れる姿が美しいと思ってしまった。
俺の不幻の怒りは、何時の間にか溶けた蝋燭の火が消えるよう――鎮火していくのに自分でも気付いていたのだ。
こいつを……許してやろう――と。
「だからね……」
彼女の潤んだ瞳が美しい。
不覚――俺は初めて自分以外の他人を美しいと思ってしまった。
心奪われた、と言ってもよい。
「今日は軽めの“痛み”にするわ」
だがそれはすぐに間違い。幻想であった事に気付く。
「ひぃっ!?」
瞬間――俺が情けない声を上げたのは、女のそれが俺の脳裏に刻まれ離さない、狡猾で醜悪なそれに変わっていたからだ。
悪夢は終わらない――
「いやだぁぁぁ! やめやめやめぇあぁぁぁ!!」
もはや俺はパブロフの犬だ。理性ではどうしようもない。
どうして俺はこうなった?
無敵で至高な筈の俺が……。
「大丈夫よ、そんなに怖がらなくても。今日はホントに余り痛くないから」
こいつの『大丈夫』程、信用出来ない言葉はこの世に存在しないだろう。
「助けてぇぁ! もう嫌だママぁぁぁ!!」
これは俺の言葉ではない。何時の間にか別人格が形成されていたのだ俺の中に。
無様に叫び続ける俺の別人格を見て取ったのか、奴は突然身に纏うトップレスを剥ぎ出しにしていた。
「ほらほらもう大丈夫でちゅよ~。私がジョンのママになったげる」
そして無駄に実るその腐った二つの果実を、俺に圧迫させてきたのだ。
「――ッグ!」
強制的に紅い佐藤錦を口に含まされ、俺は声を上げる事すら出来ない。
本当に腐った果実の味がしたのだそれには。
しかし別人格はそれを受け入れている。俺を否定している。
「うふふふ。赤ちゃんみたいね」
屈辱の極みの二律背反。抗う俺、委ねる俺。
「さあ……まずは食事からよ」
奴の満足した、勝ち誇った声が聴こえた気がした。
それは始まりの終わり――。