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桜空

1,893
18
「失礼しまーす。」放課後の静かな図書室に、聞き慣れた低い声が響いた。
私は本を整理していた手を止める。
入口には、制服のネクタイを少し緩めた星谷先輩が立っていた。
「あ……。」
「来ちゃった。」
先輩は悪びれもなく笑う。
たった二日ぶりなのに、なぜか胸がどきっとした。
「今日は寝ないんですか?」
思い切って聞くと、先輩が目を丸くする。
「なにそれ。俺、そんなに寝てるイメージ?」
「……この前は寝てました。」
「確かに。」
ふっと笑った先輩は、私の向かいの席に座った。
窓の外では、夕日がゆっくりと校舎をオレンジ色に染めている。
しばらく静かな時間が流れた。
私は本を読むふりをしながら、ちらりと先輩を見る。
……やっぱり、かっこいい。
テレビで見るよりずっと。
鼻筋が通っていて、長いまつ毛が夕日に照らされている。
そのとき。
「さっきから、何回見てるの?」
「えっ!?」
思わず本を落としそうになる。
先輩が楽しそうに笑った。
「顔、真っ赤。」
「み、見てません!」
「見てた。」
「……。」
否定できない。
私が黙ると、先輩はくすっと笑った。
「そんなに緊張しなくていいのに。」
「だって……先輩、有名人ですし。」
その言葉に、先輩の表情が少しだけ曇った。
「ここでは、ただの先輩でいたいな。」
「……。」
「七瀬さんの前では。」
心臓が跳ねる。
どうしてそんなこと、さらっと言えるんだろう。
先輩は少し考えるように私を見つめたあと、ふいに口を開いた。
「ねえ。」
「は、はい。」
「彩って呼んでもいい?」
……え。
一瞬、時間が止まった気がした。
「な、名前……ですか?」
「うん。」
「ど、どうして……?」
先輩は頬杖をついて、小さく笑う。
「そのほうが近くなれそうだから。」
近く。
その言葉だけで、胸が苦しくなる。
私はぎゅっと本の端を握った。
「……嫌?」
「い、嫌じゃないです。」
「よかった。」
先輩は嬉しそうに目を細める。
そして。
「じゃあ、これからよろしくね。彩。」
自分の名前が、先輩の口から呼ばれる。
それだけなのに、顔が熱くなる。
私は小さな声で返事をした。
「……はい。」
そのときだった。
ガラッ。
突然、図書室の扉が開いた。
「星谷先輩、ここにいた!」
女子生徒たちの声が響く。
私はびくっと肩を震わせた。
先輩は小さくため息をつく。
「……見つかった。」
「え……?」
すると先輩が立ち上がり、私の手首をそっと掴んだ。
「こっち。」
「え、えっ?」
連れて行かれたのは、本棚の陰。
二人が隠れるには少し狭い場所だった。
近い。
近すぎる。
制服の袖が触れそうな距離。
「しー。」
先輩が唇の前に指を立てる。
私は息を止めた。
ドクン、ドクン――。
心臓の音が、自分でも聞こえそうなくらいうるさい。
そのとき、先輩が小さく笑った。
「……彩。」
「は、はい……。」
「顔、真っ赤。」
からかわれているのに、何も言い返せない。
だって今――。
私の世界で一番遠い人が、こんなに近くにいるのだから。
その距離に、私はまだ気づいていなかった。
この日から、私たちの『秘密』が少しずつ増えていくことを。
コメント
1件
第2話、読み終わりました…! 先輩が「彩って呼んでもいい?」って言うシーン、心臓が止まるかと思いました……。名字じゃなくて名前で呼ぶって、それだけで特別な感じがして。しかも「近くなれそうだから」って、そんなのズルいですよね、先輩…っ。 あと最後の本棚の陰に隠れる展開、近くてドキドキが止まらなかったです。まだ2話なのに、この距離感、naeさん本当に上手すぎます…。次の話、待ちきれないです🌙