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第162話 箱の中のレア
【異世界・転移した学園/校舎前・未明】
学園へ戻る道は、静かだった。
静かすぎる、とハレルは思った。
王都イルダでは、北西区画で影獣が暴れ、術師や兵士たちが走っている。
それなのに、学園へ続く道だけが妙に静かだ。
静かな場所ほど、嫌なものが潜む。
サキがイヤーカフへ触れた。
耳の奥で、小さくノイズが鳴る。
『聞こえる?』
ノノの声だった。
「聞こえる」
サキが小さく返す。
『ハレル、リオも?』
「聞こえてる」
リオが短く答える。
ハレルも頷いた。
「大丈夫だ」
イヤーカフは小さい。
だが、今はそれが頼もしかった。
王都と切れていない。
ノノがいる。
セラもいる。
それだけで、学園まで戻る足取りが少しだけ現実に近づく。
校舎の影が見えてきた。
体育館の方には、ダミエの張った結界の淡い光がまだ残っている。
夜が明けきる前の、青黒い空気の中で、その結界だけが細く脈を打っていた。
リオが低く言う。
「……持ってるな」
『ギリギリね』
ノノが返す。
『ダミエ、無理してる』
ハレルはその言葉に、足を速めた。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・未明】
体育館の空気は重かった。
生徒たちの寝息。
押し殺した話し声。
毛布の擦れる音。
疲労で眠っている者も多いが、完全に安らいでいる空気ではない。
その一角。
体育館の中央より少し奥で、ダミエが立っていた。
床には幾重もの結界線。
光の細い輪が重なり、その中心にレアが座らされている。
結界の箱。
まさに箱の中だ。
ダミエの顔色は良くない。
額には汗が浮き、呼吸も浅い。
だが視線だけは鋭く、箱の中のレアから逸れていない。
「遅かったな」
ダミエが言う。
その声には疲労がある。
だが、崩れてはいない。
「ごめん」
ハレルが言う。
「謝るな。
持ってるだけだ」
ダミエは短く返した。
それから、リオへ目を向ける。
「来たか」
「ああ」
リオが頷く。
「まだ喋る余裕はありそうか」
ダミエは、結界の中へ視線を戻した。
「余裕はある」
「……あるのが厄介だ」
ハレルも、ようやくレアを見た。
以前と同じではない。
けれど、まるで別物というわけでもない。
身体の中を、細い数列が絶えず走っている。
肌の下というより、皮膚そのものに浮いては消える感じだ。
片目は完全に黒く沈み、その奥から時おり影が滲む。
もう片方の目だけが、まだ人間の目の形を保っている。
その姿は不安定だった。
だが、不安定なまま壊れない。
そこが一番気味が悪い。
レアは、ハレルたちを見て笑った。
「……来た」
声はかすれている。
けれど意識ははっきりしていた。
「箱、狭いんだけど」
「黙って座ってろ」
ダミエが即座に言う。
レアは、そこで小さく肩を揺らした。
笑っているのか、ただ震えているのか分からない。
サキがハレルの少し後ろで、スマホを抱きしめるように持った。
怖い。
でも、目を逸らさない。
『聞こえてる』
イヤーカフの向こうでノノが言う。
『そのまま始めて。
セラも一緒に聞いてる』
セラの声はそのすぐ後に続いた。
『挑発されても、急がないでください』
『答えたことより、答え方を見て』
ハレルは頷いた。
今は、感情で押す場面じゃない。
リオが一歩前へ出た。
「単刀直入に聞く」
「観測の穴は何だ」
レアは、少しだけ首を傾けた。
「いきなりそこ?」
「そうだ」
リオの声は冷たい。
「お前はあそこを通った。
戻ってきた。
何を見た」
レアは、黒い方の目を細めるようにして笑う。
「穴は、穴だよ」
「見た目のまんま」
「ふざけるな」
ダミエが言う。
「ふざけてない」
レアは淡々と返した。
「ただ、そっちが“穴”って言葉で安心してるだけ」
「本当は、穴じゃない」
ハレルが、そこで初めて口を開いた。
「じゃあ何だ」
レアの残った人間の目が、ゆっくりハレルへ向いた。
「役割の捨て場」
「失敗した観測の溜まり場」
「戻れなかったものの沈む場所」
「好きに呼べばいいよ」
体育館の空気が、少しだけ冷えた気がした。
サキが小さく息を呑む。
ノノの声がすぐ入る。
『続けて。
今のはたぶん本当』
リオが畳みかける。
「戻れなかったもの、って何だ」
「決まってるでしょ」
レアが言う。
「人」
「役割」
「途中でねじれたもの」
「こっちにも向こうにも、きれいに着けなかったもの」
ダミエの結界が、そこで一瞬だけ強く明滅した。
レアの身体の中を走る数列が、光に反応して暴れたからだ。
ダミエが舌打ちする。
「長く喋らせると揺れる」
『でも切らないで』
ノノが即座に言う。
『今かなり大事なとこ』
ハレルはレアを見たまま、次の問いを選んだ。
「中枢の向きは」
レアはそこで、初めて少しだけ黙った。
その沈黙に、ハレルは答えを感じた。
ここは知っている。
そして話したくない。
「……知ってるんだな」
ハレルが言う。
「そりゃ、少しは」
レアが答える。
「だって、あそこは全部“向き”で決まるから」
「どっちだ」
リオが言う。
「どう捻ってる」
レアは笑った。
「それ、今ここで聞く?」
「聞いたら戻せると思ってる?」
その時、サキが前へ半歩出た。
「全部じゃなくていい」
サキの声は少し震えている。
でも、目は逸らしていない。
「何を間違えると危ないのか、それだけでもいい」
レアの視線が、ゆっくりサキへ向く。
しばらく見たあと、レアは少しだけ表情を変えた。
嘲るような笑いではない。
もっと別の、冷たい実感に近い顔だった。
「急いで出口を作ると、ズレる」
「先に広げると、戻る場所が死ぬ」
「静かな層を選ぶと、帰れなくなる」
サキの指が、スマホを握る手に力を込める。
それは、ノノたちが推測していたことと一部重なる。
つまり、レアは本当にそこを通っている。
『今のも拾えた』
ノノが言う。
『急いで出口を作るな、先に広げるな、静かな層を選ぶな――記録してる』
セラも静かに続けた。
『“静かな層”は危険です』
『以前の昇降環の時と一致します』
ハレルは胸の奥で、少しだけ息をついた。
完全な答えじゃない。
でも断片は出てきている。
ダミエが低く言った。
「もう一つ聞け」
「こいつが一番嫌がってるところを」
ハレルは頷く。
「……プログラム層の中で、お前は何を見た」
その瞬間だった。
レアの表情が、初めてはっきり変わった。
黒い目の奥の影がざわつく。
体中の数列が一気に乱れ、肌の下を走り始める。
ダミエの結界線が強く明滅した。
「っ……!」
ダミエが歯を食いしばる。
「来る!」
レアは笑っていなかった。
むしろ苦しんでいるようにも見える。
だがそれでも、口だけは開く。
「……見たよ」
「白い、白い部屋」
「落ちた役割」
「戻れなかった声」
「それと――」
そこで、レアの声が止まった。
喉が詰まったわけではない。
何かを言いかけて、別の何かに押し戻された感じだった。
「それと何だ」
リオが言う。
レアの残った人間の目が、大きく見開かれる。
「……鍵の、ない人」
「でも……あそこを歩いてた」
ハレルの背中が冷たくなる。
「誰だ」
レアは首を振る。
乱れた数列が、首筋から頬へ這い上がる。
「知らない」
「顔、見えない」
「でも、あっち側を知ってる動きだった」
「こっちの人間じゃないみたいに、でも……」
そこまで言った瞬間、レアの全身を黒い影が走った。
ダミエが叫ぶ。
「下がれ!」
結界の箱が、ばちん、と大きく鳴る。
レアの身体から噴き出しかけた影が、箱の内側へ叩き戻される。
体育館の中で眠っていた生徒たちの何人かが、小さく悲鳴を上げた。
ハレルたちはすぐに一歩下がる。
サキも息を呑みながら、スマホを守るように抱えた。
レアは箱の中で肩を上下させていた。
数列はまだ肌の上を走っている。
だが、さっきまでみたいに余裕はない。
ダミエが低く言う。
「今日はここまでだ」
「これ以上は、こっちが持たない」
『十分だよ』
ノノの声がすぐ返る。
『かなり取れた』
セラも続ける。
『“静かな層”が危険であること』
『出口を急いで広げるとズレること』
『そして、プログラム層の中に“鍵のない誰か”がいたこと』
『全部大きいです』
リオが、結界の中のレアを見たまま言う。
「まだ喋れるな」
「喋れる」
ダミエが荒い息のまま答える。
「でも次は、もっと崩れるかもしれない」
ハレルは、レアから目を離さなかった。
鍵のない誰か。
あっち側を知っている動き。
こっちの人間じゃないみたいに。
分からない。
でも、引っかかる。
サキが小さく言った。
「……お父さん、じゃないよね」
その言葉に、ハレルの胸が一瞬だけ強く鳴った。
だが、すぐに首を振る。
「……まだ分からない」
本当は、その可能性をすぐに否定できなかった。
だからこそ、否定しきらない方が怖かった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館の外・未明】
体育館を出ると、外の空気は少しだけ冷たくて軽かった。
けれど、軽いのは空気だけだ。
中身はむしろ重くなっている。
リオが先に口を開いた。
「使える情報は出た」
「でも気持ち悪いな」
「うん」
サキが頷く。
「鍵のない誰かって、何」
『まだ絞れない』
ノノがイヤーカフの向こうで言う。
『でも今の情報だけでもかなり大きい。
レアは、観測の穴の向こうとプログラム層の一部をちゃんと見てる』
セラの声も続く。
『急いで出口を広げるな、静かな層へ逃げるな――この二つは特に重要です』
『中枢ログの読みと合わせれば、戻し方の精度が上がります』
ハレルは主鍵へ触れた。
熱はまだ残っている。
だが今は、答えをくれる熱ではない。
むしろ、もっと聞け、もっと掘れと急かす熱だった。
その時、イヤーカフへ別の声が割り込んだ。
アデルだ。
『学園班、聞こえるか』
「聞こえてる」
リオが答える。
『北西区画はまだ持たせている。
だが長くはない』
『そっちの尋問が終わったなら、情報をまとめてすぐ回せ』
「分かった」
リオが返す。
ノノがすぐ続ける。
『ハレル、サキ、リオ。
いったん校舎の静かな場所へ移って。
今の内容を整理する』
『そのあと、次にどこまで聞くか決める』
「うん」
サキが答える。
ハレルは体育館を振り返った。
箱の中のレア。
学園にいる生徒たち。
王都で持ちこたえているアデルたち。
現実側でログを読んでいる木崎たち。
全部が一本の細い光路で繋がっている。
切れたら終わる。
でも、まだ切れていない。
「……整理しよう」
ハレルが言う。
「今わかったこと、全部」
リオが短く頷く。
サキも、イヤーカフに触れながらその横に並ぶ。
学園の夜は、まだ終わらない。
だが、箱の中のレアから引き出した断片は確かに、次の道へ繋がり始めていた。