テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
56
意識が沈んでいく。
もう何も聞こえなくなる。
そう思った。
その直前。
どこか遠くで、魔王の声がしたような気がした。
「……あ」
「魔法、間違えちゃった」
阿部は。
聞き返すこともできなかった。
そのまま。
完全に意識が途切れた。
次に目を開けた時。
最初に感じたのは。
手の温かさだった。
阿部は、ゆっくり指を動かす。
誰かの手。
大きくて。
知っている手。
「……めめ」
掠れた声が出る。
隣にいた目黒が、勢いよく顔を上げた。
「あべちゃん?」
目が合う。
その瞬間。
目黒が阿部の手を強く握った。
阿部も。
握り返す。
約束通り。
現実で。
ちゃんと。
「……握った」
阿部が言う。
目黒の目が揺れる。
「うん」
それだけ言って。
目黒は泣きそうに笑った。
でも。
阿部はすぐに違和感に気づいた。
白い天井ではない。
病院でもない。
見慣れた部屋。
会議室。
阿部は身体を起こした。
「……ここ」
「事務所」
岩本の声がした。
周りを見る。
深澤。
渡辺。
宮舘。
佐久間。
康二。
ラウール。
全員いる。
九人。
阿部は、自分の身体を見る。
服もそのまま。
包帯がない。
点滴もない。
腹部に手を当てる。
痛くない。
何度触っても。
何もない。
「……刺されたところ」
目黒の表情が変わった。
阿部は服の上から確かめる。
「ない」
全員が黙る。
佐久間が立ち上がった。
「あべちゃん、痛くない?」
「うん」
「傷は?」
「ない」
渡辺が眉を寄せる。
「どういうこと?」
阿部の頭に。
あの声が蘇った。
――魔法、間違えちゃった。
「……魔王」
「何?」
深澤が聞く。
阿部は顔を上げた。
「最後、言ってた気がする」
「何を?」
「魔法間違えたって」
沈黙。
渡辺がゆっくり言う。
「……あいつ」
深澤も額を押さえる。
「最後の最後で?」
「魔王らしいっちゃらしいけど」
「笑えないよ」
ラウールが言う。
その時。
阿部の胸に。
嫌な予感が走った。
傷がない。
病院でもない。
事務所。
全員がいる。
そして。
なぜか。
この部屋に覚えがある。
阿部は急いでスマホを探した。
ポケットに入っている。
画面をつける。
日付を見る。
阿部の動きが止まった。
「……嘘」
目黒が覗き込む。
そして。
同じように固まった。
「これ……」
刺された日。
その日付だった。
時刻を見る。
さらに。
阿部の顔から血の気が引く。
「この時間」
全員が阿部を見る。
「俺が」
喉が詰まる。
でも。
言わなければいけない。
「みんなに、一人にしてほしいって言った頃」
空気が。
一瞬で変わった。
目黒が自分のスマホを確認する。
他のみんなも。
日付。
時刻。
全部同じ。
岩本が低い声で言った。
「時間が戻ってる?」
「多分」
阿部は答えた。
「刺される前まで」
佐久間の顔が強張る。
「じゃあ」
阿部は頷く。
「今日」
もう一度。
言葉にする。
「あの人が来る」
目黒の手に力が入る。
阿部もすぐに分かった。
目黒が何を考えたのか。
「めめ」
「帰らせない」
低い声だった。
「今日は絶対、一人にしない」
「うん」
阿部は頷く。
今度は。
そうしてほしい。
でも。
それだけでは足りない。
「あの人が来るの、止めるだけじゃ駄目だと思う」
岩本が阿部を見る。
「どういうこと?」
「今日来なかったら」
阿部はゆっくり考える。
「また別の日に来るかもしれない」
誰も否定しなかった。
女優は。
もう限界を越えていた。
写真。
暴言。
付きまとい。
無理やりのキス。
そして最後は。
刃物を持って、自宅まで来た。
この時間に戻ったなら。
刺されないだけでは駄目だ。
同じことが繰り返されないようにしなければいけない。
「野放しにしたくない」
阿部が言う。
目黒が頷く。
「俺も」
「でも」
阿部はすぐ続ける。
「俺らが直接捕まえたりするのは危ない」
「当たり前」
渡辺が言う。
「絶対やめて」
「うん」
阿部はスマホを握った。
考える。
今日。
彼女が家に来る時間も。
最初に何を言ったかも。
大体覚えている。
そして。
今度は。
一人ではない。
「……ドアホン」
「何?」
佐久間が聞く。
阿部は顔を上げた。
「俺、あの時モニター見なかった」
目黒が一瞬、苦しそうな顔をする。
でも。
阿部は続けた。
「今度は見る」
「家には入れない」
「絶対」
「ドアホン越しに話して、時間稼ぐ」
岩本がすぐに意図を理解する。
「その間に警察?」
「うん」
阿部は頷いた。
「来たの確認したら、すぐ呼ぶ」
宮舘が静かに言う。
「刃物を持っていることも伝えられる」
「うん。前は持ってた」
深澤が少し考える。
「でも今回も持ってる保証は?」
「ない」
阿部は答える。
「だから嘘は言わない。前……じゃなくて」
言葉に詰まる。
この世界では。
まだ起きていない。
「今までの付きまといとか、脅されてることとか、家まで来たことをちゃんと話す」
目黒が言う。
「加工写真のことも、事務所に残ってる証拠全部出せる」
岩本も頷いた。
「マネージャーにもすぐ話そう」
ラウールが。
「家の中には誰かいる?」
と聞く。
阿部は少し考える。
「全員は多すぎるかも」
「でも一人にはしない」
目黒が即答する。
「それは絶対」
阿部は目黒を見る。
「うん」
今度は。
その言葉を拒まなかった。
「一人にならない」
佐久間が。
少しだけ息を吐く。
それだけで。
安心したような顔をした。
深澤が腕を組んだ。
「じゃあ整理しよ」
全員が見る。
「まず事務所に事情を話す」
岩本が続ける。
「警察にも事前に相談できるならする」
「家に帰るなら絶対複数人」
渡辺。
「玄関は開けない」
宮舘。
「ドアホンで相手を確認」
ラウール。
「来たら警察」
康二。
「録音とか映像も残せる?」
阿部が頷く。
「ドアホンの履歴は残ると思う」
目黒も言う。
「スマホでも録音しよう」
一つずつ。
決まっていく。
阿部は。
それを聞きながら。
胸の奥が不思議な感覚になる。
同じ日。
同じ時間。
同じ出来事が。
これから起きようとしている。
でも。
あの日とは。
何もかも違う。
あの時の自分は。
全部忘れたかった。
誰にも会いたくなかった。
もうどうなってもいいと思っていた。
だから。
ドアホンすら見なかった。
今は。
怖い。
ものすごく怖い。
それでも。
生きたい。
みんなと。
この先へ行きたい。
だから。
考える。
逃げる方法を。
助けを求める方法を。
九人で。
「阿部」
岩本に呼ばれる。
阿部は顔を上げた。
「本当に家に行ける?」
少し。
考えた。
怖い。
玄関を見るだけでも。
思い出すかもしれない。
声を聞けば。
身体が動かなくなるかもしれない。
それでも。
阿部は頷いた。
「行く」
目黒が隣で何か言おうとする。
阿部は先に手を握った。
「でも」
「うん」
「一人じゃ行かない」
目黒が。
ゆっくり頷く。
「うん」
阿部は。
九人を見る。
「今度は、ちゃんと助けてもらう」
誰も。
大げさなことは言わなかった。
ただ。
全員が頷いた。
それだけで十分だった。
阿部はもう一度スマホを見る。
あの女優が来るまで。
まだ少し時間がある。
今度は。
扉を開けない。
一人で抱え込まない。
そして。
刺されない。
阿部は息を吐いた。
「じゃあ」
目黒の手を握ったまま言う。
「帰ろう」
今度は。
あの日の続きを。
変えるために。
コメント
1件
56話、読み終わりました……。 もう、最初から最後まで胸がいっぱいでした。 「魔法、間違えちゃった」って、魔王らしい抜け感なのに、そのおかげで阿部くんが戻ってきて、しかも時間まで巻き戻った。その偶然が、あまりにも救いで。 何より、一人で抱え込もうとしたあの日の阿部くんが、「今度はちゃんと助けてもらう」って言えたこと。それが本当に嬉しかったです。目黒くんがずっと手を握っている描写にも、じんと来ました。 次はみんなで、あの日の続きを変えていくんですね。応援しています。
#BL