テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#不倫
#離婚
#ヒトコワ
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
妻異常申告書。
その六文字を見た瞬間、美沙は、体の奥から血の気が引いていくのを感じた。
白すぎる紙だった。
これまでの書類は、どこか古い役所の紙のような質感があった。けれど、この書類だけは違った。新しく、整いすぎていて、汚れがない。
まるで、誰かが最初から美沙を汚れたものとして扱うために、清潔な紙を用意したようだった。
申請者欄には、夫の名前。
藤代航平
宮乃は、窓口の向こうで静かに言った。
「ご主人は、あなたの正気を差し戻そうとしています」
「正気を……?」
美沙の声は、ひどくかすれていた。
宮乃は書類の下部を指した。
「お読みください」
美沙は震える手で、妻異常申告書を持ち上げた。
紙は軽い。
それなのに、腕が下がりそうになるほど重かった。
申告内容
対象者・藤代美沙について、近時、疑念、被害意識、金銭への過敏反応、夜間外出等の不安定行動が見られる。
夫婦関係の継続にあたり、第三者への事前説明を要する。
第三者への事前説明。
美沙の目の前に、母からの電話が浮かんだ。
「航平さんから連絡があったのよ。最近、美沙が少し思いつめているみたいだからって」
義母の声も重なる。
「最近ちょっと不安定なんですって?」
すべて、先に打たれていた。
美沙が声を上げる前に。
証拠をそろえる前に。
離婚を切り出す前に。
航平は、美沙を「おかしい妻」として周囲に提出していた。
書類には、さらに細かな記録が並んでいる。
申告一
妻が夫の業務上の外出を不貞と誤認。
申告二
妻が夫婦共有口座の正常な資金移動を不正と疑う。
申告三
妻が深夜に無断外出。理由不明。
申告四
妻が夫の母に対し、攻撃的発言。
美沙は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
違う。
全部、違う。
夫の業務上の外出ではない。
ホテルに行っていた。
共有口座の正常な資金移動ではない。
説明のない出金だった。
深夜の外出は、夜間窓口へ行っていたから。
義母に対して攻撃したのではない。
初めて、自分の痛みを言葉にしただけだ。
でも、紙の上では全部、別の形に変えられている。
美沙がしたことは、異常。
美沙が感じたことは、過敏。
美沙が求めた説明は、被害妄想。
航平の字ではない。
けれど、航平の声で読める。
宮乃が言った。
「この申告が進むと、あなたの発言は信頼性を失います」
「そんな……」
「ご主人は、ご自身の虚偽申告を守るため、あなたの申告能力を低く見せようとしています」
美沙は書類を窓口に置いた。
手に力が入らなかった。
「私は……おかしいんでしょうか」
言ってから、自分でも驚いた。
そんなこと、聞くつもりはなかった。
でも、一度口に出すと、胸の奥から同じ言葉がいくつも湧いてくる。
私は本当に考えすぎなのかもしれない。
普通の妻なら、もっと上手に流せるのかもしれない。
夫を疑い、通帳を調べ、夜中に市役所へ通う自分は、やはり普通ではないのかもしれない。
宮乃は、少しも表情を変えずに美沙を見た。
「こちらでは、正常か異常かの判定は行いません」
「役所なのに?」
「はい」
その答えに、美沙は一瞬だけ笑いそうになった。
笑える状況ではないのに。
宮乃は続けた。
「ただし、記録は確認できます」
彼女は別の白い紙を取り出した。
そこには、これまで美沙が確認してきた書類の一覧があった。
残業証明願 差戻通知 確認済
家族維持申請書 確認済
共有財産移動届 確認済
妻名義借入申請書 本人不同意
我慢届 保留中
不倫相手未提出証言 確認済
前婚約者未受理記録 確認済
宮乃はその一覧を、美沙の前へ置いた。
「あなたの違和感は、記録と一致しています」
その一言で、美沙の目に涙が浮かんだ。
航平は言った。
お前がおかしい。
義母は言った。
少し不安定なんですって。
航平は母に言った。
美沙が思いつめている。
でも、宮乃は違った。
おかしいとも、正しいとも言わない。
ただ、記録と一致している、と言った。
それだけで、美沙は膝から崩れそうになった。
「私は……夫を壊したいんでしょうか」
ぽつりと、言葉が落ちた。
宮乃は答えなかった。
「最初は、ただ説明してほしかったんです。嘘だったなら、謝ってほしかった。私を悪者にしないでほしかった。でも今は……航平がしたことを、全部返したいと思ってる」
美沙は自分の指を見た。
手は震えていた。
怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。
「それは、復讐ですか」
宮乃は少しだけ目を伏せた。
「復讐という申請名では、こちらでは受理されません」
「じゃあ、何なら受理されるんですか」
「返送です」
宮乃は、静かに言った。
「壊すのではありません。返送するのです」
「返送……」
「ご主人があなたに負わせたものを、ご主人へ。お義母様があなたに押しつけた役割を、お義母様へ。あなたのものではない罪悪感を、正しい宛先へ」
美沙は息を止めた。
復讐は、相手を燃やすことだと思っていた。
相手を傷つけ、同じだけ苦しませることだと思っていた。
けれど、返送という言葉は違った。
自分の胸に押し込まれてきたものを、一つずつ封筒に入れ、差出人へ戻すこと。
それなら、できるかもしれない。
「私は、航平を許せません」
「許可は不要です」
宮乃は即答した。
「許さなければ前に進めない、という規定はありません」
その言葉に、美沙は泣いた。
涙は静かに落ちた。
大きく声を上げることもなく、ただ頬を伝った。
許さなくていい。
我慢しなくていい。
正しい妻でいなくていい。
そんな簡単なことを、誰にも言ってもらえなかった。
宮乃は、妻異常申告書に小さな赤い印を押した。
確認済
その印が押された瞬間、書類の中央にあった「異常」という文字が、じわりと滲んだ。
赤いインクがにじみ、形を失い、やがて薄く消えていく。
かわりに、別の文字が浮かび上がった。
異議申立可
宮乃は、窓口の下から小さな用紙を取り出した。
妻異常申告 異議申立書
美沙はそれを見た。
「これを出せば、どうなりますか」
「ご主人の申告に対し、あなたの記録が添付されます」
「記録……」
「これまで確認済みとなった書類、現実側で保存した証拠、証言、通帳、メッセージ。すべてです」
美沙の胸が、どくんと鳴った。
航平が美沙をおかしい妻にしようとするなら、こちらは記録で返す。
泣き声ではなく、証拠で。
怒鳴り声ではなく、日付で。
感情だけではなく、紙で。
千尋の言葉がよみがえる。
証拠は、怒りながら集めると失敗する。冷静に、紙で残して。
美沙は、異議申立書を受け取った。
「書きます」
宮乃はうなずいた。
「ただし、最終受付まで保管してください」
「最終受付?」
その言葉は、前にも聞いた。
我慢届を取り下げる時。
離婚届を受理する時。
「すべての返送書類がそろった時、最後の受付となります」
「まだ、あるんですか」
「はい」
宮乃は、赤い受理印を窓口の上に置いた。
これまで、宮乃が手にしても押さなかった印。
美沙の離婚届を、まだ受理できないと言った印。
その赤が、今夜はひどく近く見えた。
「次で、最終受付です」
宮乃は言った。
美沙は、受理印を見つめた。
それは終わりの印ではなく、始まりの印に見えた。
家に帰ると、航平は起きていた。
リビングの電気がついている。
航平はソファに座り、腕を組んでいた。
「どこ行ってた」
低い声だった。
美沙は玄関で靴を脱いだ。
「少し、外に」
「少しって時間じゃないだろ」
時計は午前二時半を過ぎていた。
航平は立ち上がった。
「最近、本当におかしいよ。夜中に出ていって、何してるんだよ」
美沙はコートを脱ぎ、ハンガーに掛けた。
手は震えていない。
「あなたには関係ない」
「夫に関係ないわけないだろ」
「夫だからって、私の全部を管理できるわけじゃない」
航平の顔が歪んだ。
「何その言い方」
「あなたこそ、私の母に何を言ったの」
「心配して連絡しただけだろ」
「義母にも?」
「母さんは家族だ」
「里緒さんには?」
その名前を出した瞬間、航平の表情が止まった。
空気が変わった。
「……誰?」
「瀬名里緒さん」
航平の目に、明らかな動揺が走った。
その一瞬で、美沙は確信した。
もう、逃げない。
「会ったのか」
航平の声は低かった。
「会った」
「何勝手なことしてるんだよ」
「勝手なこと?」
美沙は笑った。
乾いた笑いだった。
「私の名前で借入の申請を進めようとした人に、勝手なことって言われるんだ」
航平の顔が、さらに硬くなった。
「何の話だよ」
「通帳も見た。申込書の下書きも見た。里緒さんからメッセージも受け取った」
航平は一歩、美沙に近づいた。
「お前、俺のもの漁ったのか」
「私の名前が使われていたから」
「夫婦だろ」
その言葉に、美沙は心の中で線を引いた。
夫婦。
その言葉で、どれだけのことを曖昧にされてきただろう。
「夫婦でも、私の名前は私のもの」
航平の目が細くなる。
「誰に入れ知恵された?」
「私が考えた」
「無理だろ」
「そうやって、ずっと私を馬鹿にしてきたんだね」
航平は舌打ちした。
「被害妄想だよ、それ」
美沙は、テーブルの上にスマホを置いた。
録音画面が動いている。
航平がそれに気づき、顔色を変えた。
「録ってるのか」
「うん」
「ふざけるな!」
航平がテーブルを叩いた。
大きな音がリビングに響く。
以前なら、美沙はここで謝っていた。
ごめん、録るつもりじゃなかった。
怒らないで。
でも、今は違う。
「怒鳴ったことも、記録する」
美沙は言った。
航平が息を荒くする。
「お前、本当におかしいぞ」
「その言葉も、記録する」
航平は口を閉じた。
その沈黙の中で、美沙は初めて、夫が怯えているように見えた。
自分が支配していたはずの妻が、紙と記録を持ち始めたことに。
美沙はスマホを手に取り、寝室ではなく客間へ向かった。
「今日は、別の部屋で寝る」
「逃げるのか」
「違う」
美沙は振り返った。
「戻らない練習をするの」
航平は何も言わなかった。
客間に入ると、美沙は鍵をかけた。
小さな鍵だった。頼りない音だった。
それでも、その音は美沙の中で何かを守る音に聞こえた。
布団に座り、夜間窓口でもらった異議申立書を広げる。
その下に、小さな追記が浮かんでいた。
次回返送予定
最後の嘘
美沙は、その文字を見つめた。
最後の嘘。
航平がまだ隠しているもの。
あるいは、美沙が最後に見なければならないもの。
受理印は、もう近くにある。
でも、それを押す前に、美沙は最後の嘘と向き合わなければならない。