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「奏多です」
「芽衣です」
男性が注文したコピが運ばれてきて、一口飲んだところで自己紹介。
昨夜のスーツ姿とは違い、細身のパンツにTシャツと薄手のジャケットを着た男性。髪も降ろされていてメガネもなしで、さわやかなイケメン風に変身して現れた。
「もしよかったら、今日一日シンガポール観光に付き合ってくれませんか?」
「え?」
昨日の雰囲気からして旅行客には見えない奏多さんが、なぜシンガポール観光なんて?と、不思議に思えた。
「実はシンガポールに来て一年になるんだけれど、仕事が忙しくてほとんど観光できていないんだ」
「へえー」
でも住んでいればいつでもチャンスはある訳で、なぜ今?それが一番の疑問。
もしかして、時間を稼いでその間に勢いで関係を持ってしまった女の素性を確かめたいとでも思っているんだろうか?
「それに今月いっぱいで帰国することになって、もう時間がないんだ」
「なるほど」
シンガポールを離れる前にってことか。
でも、
「それなら、彼女とか、お友達とか、誘う方は他にいるんじゃありませんか?」
わざわざ偶然知り合った女なんかを誘わなくても。
「あなただからお願いするんです」
「それは・・・」
どういう意味ですかと、顔を見た。
「芽衣さんは観光客だよね?」
「ええ」
「俺も、普通に観光したいんだ」
「普通にですか?」
「うん。誰でもが行くようなベタな観光地を回って、シンガポールを満喫したい」
「はあ」
なんだかわかったようなわからないような。
ただ奏多さんに誘ってもらったのは嫌な気分ではなくて、私は「わかりました」と頷いた。
***
今日一日奏多さんとのシンガポール観光を了承したところで、何か食べようと言われサンドウィッチとパンケーキを注文した。
「すごく日本っぽいですね」
出てきた料理を見ての素直な感想。
「ここはちゃんとしたホテルだからね、日本と変わらないものが出てくるよ」
「へえー」
そうなんだ。
「もしかして気に入らなかった?」
「いいえ、そうではないんです。少し不思議な気がしただけで、こういうフルーツと生クリーㇺたっぷりのパンケーキが食べたかったんです」
「そう、ならいいけれど」
運ばれてきたサンドウィッチに手を伸ばす奏多さんが、じっとパンケーキを見ている。
「もしかして食べたいですか?」
「違うよ。すごい量のクリームだなと思って」
「そうですね、すごいです」
「こういうのが好きなの?」
「うぅーんどうでしょう」
「どうでしょうって?」
私ははぐらかすつもりで言ったわけではない。
本当に、好きなのか嫌いなのかわからなかっただけ。
「実は初めて食べるんです。仲良くしていた友人が甘いものがダメで、一緒にいるときに頼むと嫌がったんです。だから一度食べてみたいと思っていて」
これは嘘じゃない。
蓮斗と付き合っている間、食べに出た時の注文はいつも蓮斗がしてしまっていたから、私は好きなものを頼んだ覚えがない。
それでも、蓮斗のお勧めはたいてい美味しかったし、二人で分け合って食べるのも好きだった。
「随分わがままな彼氏だな」
「えっ、あぁ」
ヤダ、バレている。
***
「元カレです」
今はもう過去の人だ。
「そう。せっかくだからクリームたっぷりのパンケーキを堪能して」
「はい」
パンケーキと格闘する事二十分。
普段食べなれない甘いものに苦戦し、最後の二口の所で私の手が止まった。
「もうギブアップ?」
まったく動かなくなった私に、奏多さんが声をかける。
「いえ、食べます」
残すなんてもったいない。
フー。
大きく息を吐いてフォークを持った時、
パクン。パクン。
奏多さんの口にパンケーキが消えていった。
「はい、ご馳走様」
「・・・すみません」
持て余してしまった私を、見かねた奏多さんに助けてもらった。
蓮斗なら絶対にしないだろうな。
「じゃあ行こうか」
「はい。その前に着替えだけしに帰っていいですか?」
「いいよ。ホテルは近いの?」
「はい、すぐ近くです」
マリーナベイに泊まっている奏多さんに私の泊まっているホテルを見られるのは少し恥ずかしいけれど、着替えはしたい。
仕方ないなと諦めて、私は奏多さんとホテルに向かった。
***
「じゃあどこから行こうか?」
「そうですねぇ・・・」
いざ観光となると、迷ってしまう。
「シンガポールといえばマーライオンかな」
「ああ、なるほど」
泊まっているホテルによって着替えを済まし、私たちはもう一度マリーナベイの前に立っていた。
「タクシーで行こうか?それとも」
「歩きたいです」
久しぶりに甘いものをたくさん食べて、朝からお腹いっぱい。
それに天気も晴天、こんな日は歩きたい。
「20分ぐらいかかるけれど大丈夫?」
「大丈夫です。そのために歩きやすい靴を選びましたから」
日本から持ってきたスニーカーを見せた。
「すごい、やる気だね」
せっかく訪れたシンガポール。
どうせなら満喫したい思いは私も一緒。
奏多さんに便乗して私も今日1日楽しむことにしよう。
「さあ、行こうか」
「はい」
がんばって歩いたせいか20分かからずにマーライオンに到着した。
「どう?」
きっとマーライオンの感想を聞かれたんだと思う。
それに対して私は
「なんか、ちっちゃ」
失礼な言葉を返してしまった。
だって、マーライオンはシンガポールのシンボル。
テレビにも旅行雑誌にも必ず写っているし、もっと大きくて壮大なものを想像していた。
「現実なんてそんなもんだよ」
奏多さんはクスクスと私の反応を楽しんでいる。
「写真撮る?」
「いいえ」
想像とあまりにも違って、写真を撮ろうって気にはなれない。
それに、たまたま知り合った奏多さんとの写真なんて残すわけにはいかない。
***
その後初めてシンガポールの地下鉄に乗り訪れたのはチャイナタウン。
まず向かったのはスリ・マリアマン寺院。
ここはヒンドゥー教の寺院。
とても細かい作り物がたくさん飾られた建物に目を奪われた。
「すごく、かわいい」
寺院全体を見渡せる場所で、私は足を止めた。
ここは商業施設でも観光客のために作ったものでもない。
ここに住む人たちの祈りの場。
そう思うからこそ神秘的で、美しい。
「おいで」
完全に足の止まった私の手を引き、奏多さんが寺院の中へと入って行く。
靴を脱ぎ、熱くなった床に驚きながら
「見てごらん」
そう言って顔を上げた奏多さんと同じようにアーチ状になった天井を見上げる。
「うわあぁ」
今度こそ息を飲んだ。
手の込んだ装飾を施した天井は、本当に美しい。
「マーライオンの時とは反応が違うな」
「それは・・・」
マーライオンをけなすつもりはない。
シンガポールらしくて、見ただけでシンガポールに来たのを実感できた。
でも、私はここが好き。
この場所になら一日いられる。
差し込むお日様の日を受けてキラキラと輝く寺院を見ながら、シンガポールに来てよかったと思えた。
***
「せっかくだから、パゴダストリートへ行ってみようか」
パゴダストリートはスリ・マリアマン寺院から続く参道沿いに広がる露店の通り。
そこにはチープでかわいい土産物屋さんがたくさんあり、見ているだけでとっても楽しい。
「こういうの日本の女の子は好きだよね」
店先に並んだ小物を手に奏多さんが微妙な表情をした。
「好きですよ。だってかわいいじゃないですか」
「でも、実際使わないだろ?」
「それは・・・」
こうやって店先に並んだ小物を見ているとかわいくてつい買いたくなるけれど、日本に帰ってから使うことは少ないだろう。
今だけだとわかってはいる。
それでもかわいいものを見れば、テンションは上がってしまう。
「お土産買わないの?」
店先の品物を見ながら、購入する様子のない私に奏多さんは不思議そうな顔をした。
「私、誰にも言わずにシンガポールに来たんです」
「へえ。でも会社の友達には?」
「会社も先月末で辞めたので」
今の私はお土産を買う相手もいない。
「一人旅か、すごいな」
「そんなことありません」
私はただ逃げてきただけだ。
「写真を撮ってあげるよ」
私から数歩離れた奏多さんが、携帯を構える。
色鮮やかな雑貨と、頭上にぶら下がる赤と黄色の提灯をバックに私はピースをして見せた。
***
大分歩いたところでおなかも空いてきて、ちょうどランチタイム。
メニューは迷うことなくチキンライスに決まった。
向かったのは「マックスウェルフードセンター」。
とっても景色のいい屋台で、たまたまマリーナベイも見えて、いい気分でランチをいただくことができた。
「今度は食べ切ったね」
朝のことを思い出してか、奏多さんに笑われた。
「すみません。でも、あれはクリームが多すぎて」
「頼んだのは芽衣」
「あぁ、そうですね」
芽衣って呼ばれたことに動揺している私。
バカだな、私の顔は今真っ赤だ。
「どうしたの?」
うつ向いてしまった私を奏多さんがのぞき込む。
「別にどうもしませんけれど・・・奏多さんっていくつですか?」
「27歳だけど、どうしたの突然」
「だって、私なんだか子ども扱いされているようで・・・」
「そんなことないよ。子供相手に寝ないだろ」
「あ、あぁ」
それは口に出さないでほしい。
その後も会話は奏多さんペースで進み、楽しく笑いあいながらランチをいただいた。
***
午後からはガーデンズバイザベイへ。
ここはシンガポールが誇る巨大植物園。
人工木スーパーツリーグローブの上に架けられた橋を渡ったり、世界最大のガラス温室施設を巡ったり、その中でも35mの人口滝が絶景で時間を忘れて楽しんだ。
高山植物や食虫植物、カラフルな花の展示を見ながら私はとても穏やかな気持ちになっていた。
「大丈夫、疲れてない?」
「平気です。とっても楽しい」
これは正直な気持ち。
私は今幸せだ。
この幸せに慣れてはいけないと分かっているのに、欲望に負けそうな自分がいる。
奏多さんはきっとエリートでお金持ちで私なんかとは住む世界が違う人。たまたま出会ってしまったから今こうしているだけの関係。
わかっているはずなのに・・・
「どうしたの、元気がないよ」
二歩ほど前を歩いていた奏多さんが足を止めて振り向いた。
「あんまり楽しすぎて、今日が終わるのがもったいない」
感情が溢れそうになってつい口にしてしまった。
自分で言っておいて恥ずかしくなり足元に視線を落とした私に、奏多さんはゆっくりと近づいてきて、クシャッと私の頭を撫でた。
***
この人はもしかしてすごく遊びなれているのか、それとも天然なのか、どちらにしても心臓に悪い。
ただでさえかなり外見がいいのに、こんなに優しくされたら世の中の女子のほとんどは誤解するだろう。罪な男だわ。
「どうする?夕食はホテルに帰ってレストランで食べる?」
「そうですねえぇ」
マリーナベイのレストランで夜景を見ながらおいしい料理。
普段の私から思えば夢みたいなディナーだけれど、これ以上夢を見たら現実に戻れない気がする。
それに、
「あの・・・実はもう1つ食べたいものがあるんです」
「なに?」
首を傾げながら、奏多さんの顔が近ずく。
だから、近い。
無意識なのか意図的なのか、奏多さんとの距離がどんどん近くなっている。
「チリクラブが食べたいんです」
「チリクラブかあ」
チリクラブは、カニをチリソースで炒めたシンガポール料理で、いわばエビチリのカニバージョン。シンガポールにいる間に一度食べたいと思っていた。
でも、何しろカニがどんって出てくるから一人分っていうのが頼みにくい。
もちろん探せば一人前のチリクラブもあるんだろうけれど、豪快にお皿に乗ったソースたっぷりのチリクラブとは違う。
「チリクラブなら『ジャンボシーフード』かな」
「ええ」
そこはチリクラブの有名店。高級店ではないけれど、人気の店。
「ずいぶん安上がりなデートだけれど、いいの?」
「はい」
それに、これはデートじゃない。
ただ、
「今からじゃ予約は無理ですかね」
ネットの情報ではかなり人気があって予約しないといい席は取れないらしい。
「それは何とかするよ。だてに地元に住んでいるわけじゃない」
「ありがとうございます」
***
「うぅーん、美味しい」
チリクラブを頬張りながら身もだえしてしまった。
ほど良い辛さのソースがジューシーなカニと相まって食べ応え抜群。
「幸せそうだな」
「はい」
無心にカニを食べるを私を、奏多さんはニコニコ見ている。
夕食はチリクラブにと決めて、奏多さんがどこかに電話をして、店についたら川沿いの眺めの良い席が用意されていた。
手際がいいというか、顔が利くというか、外見以上に奏多さんはできる男らしい。
きっと、相当もてるんだろうな。
「どうしたの、手が止まってるよ」
「あぁ、すみません」
つい奏多さんに見とれてしまった。
「そうだ、ここはチャーハンもうまいんだ。特におすすめは、」
言いながら運ばれてきたチャーハンを手元に置いた奏多さん。
大皿に乗ったチリクラブの甲羅の部分を一つとり、そこにチャーハンを入れて混ぜ混ぜ。
カニ味噌とソースとチャーハンが混ざったところでスプーンにすくうと、
「はい」
私の目の前に差し出した。
「え、あぁ」
まずい動揺している。
「美味しいから、どうぞ」
「でも・・・」
自分で食べられますの言葉が口から出ない。
なぜこの人はこんなことをするんだろうか?
私は騙されているんだろうか?
奏多さんの行動は意味不明すぎる。
「いいから口を開けて、持っている方も恥ずかしいからさ」
じゃあやらなければいいのに、って言葉はしまっておいた。
「さあ」
・・・パクン。
これ以上時間が持たなくて口を開けた。
次の瞬間、
「うぅーん、美味しい」
叫んでいた。
本当に、私はバカで単純な女だ。
美味しい物に一つで完全に警戒心をなくしてしまっているんだから。
***
日も暮れて美しい夕焼けを見ながら、奏多さんオススメのメニューを堪能した。
音楽の趣味や休日の過ごし方、お勧めの本など意外なほどに好みが一緒でこの人が同性だったら良いお友達になれたのにと思えたのは私だけじゃないはず。
ただ残念なことに、彼は男性でイケメンできっとお金持ちだ。
お互いに素性のわかるような質問はせず、当たり障りのない話をしながらそれでも会話は楽しかった。
その時、
プププ。
奏多さんの携帯に着信。
ごめんねと断って電話に出た奏多さんは少し困った表情で、短く相槌をうちながら時々天井に視線を走らせる。
「分りました。では明日」
5分ほどで電話は終了。
「どうしたの?」
聞いてはいけないのかなと思いながら、気になって尋ねてしまった。
「断ったはずのパーティーに呼ばれたんだ。普段だったら行かないけれど、もうすぐ帰国するのがわかっているからむげに断れなくてね」
なるほど。
「行けばいいじゃないですか」
「人事だと思って」
「だって」
そういう場所がとても似合いそうなのに。
「じゃあ、芽衣が同伴してくれる?」
「ええぇ」
つい声が大きくなって周囲の視線を浴びた。
メッと奏多さんににらまれて、私は一瞬肩をすくめる。
「からかわないでください」
「からかってないよ」
「じゃあ」
「本気だ。明日の昼間に、もう一度時間がもらえないかなあ」
「・・・」
奏多さんの本心がつかめなくて、私は黙って見返した。
***
「仕事上付き合いのある現地の友人に誘われてね、断れないんだ」
「でも、どうして私を?」
「たまたま目の前にいたのが一番の理由」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
奏多さんは言葉を止めた。
「奏多さんのことを何も知らず昨日出会ったばかりの私なら、あとくされなくていいかなって、思ってますか?」
私が思ったことをはっきりと口にしてみた。
「ずいぶん言葉が悪いな」
「そうですか?」
どんな言い方をしても結論は同じ。
これだけ見た目がよくてお金持ちの奏多さんなら近づいてくる女性も多いはず。
下手にパーティーなんか同伴すれば、必要以上に期待を持たせることになりかねない。
だからこそ、何の接点もない旅行客と関係を持ったんだろうと思う。
「どうかな?お礼に服でもバックでも好きなものをプレゼントするからさ」
「うぅーん」
シンガポールのセレブパーティー。
覗いてみたい気はするけれど、
「ねえ、頼むよ」
お願いと手を合わせる奏多さん。
「わかりましたから、やめてください」
「じゃあ」
「はい、お供します」
こうなったらとことんシンガポールを楽しもう。
いつものようにあまり先のことは考えず、私はパーティーへの参加を了承してしまった。