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「無も知らぬ人の30日間日記」
その人がどこに住んでいるのか、何歳なのか、誰も知らない。
ただ、ある町の片隅で過ごした三十日間だけが、静かに残っている。
「一日目
朝、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
窓の外では、光が、屋根の上に薄く積もっていた。
二日目
コンビニでおにぎりを二つ買った。
店員は『温めますか』と尋ね、僕は少し考えてから『大丈夫です』と答えた。
三日目
駅までの道に、赤い傘が落ちていた。
拾おうとしたが、持ち主が困るかもしれないと思い、見なかったことにした。
四日目
昼休み、窓際の席で弁当を食べた。
卵焼きが少し甘すぎたが、それは悪いことではなかった。
五日目
帰り道、知らない犬に吠えられた。
その犬の飼い主は何度も頭を下げ、僕も何度も頭を下げた。
六日目
洗濯物を干していると、隣の部屋からピアノの音が聞こえた。
同じ四小節を、何度も何度も繰り返していた。
七日目
日曜日だったので、昼まで眠った。
起きてから三時間、何もしなかった。それだけで、少し遠くへ行ったような気がした。
八日目
古い靴の底が剥がれた。
新しい靴を買うために店へ行ったが、結局、靴ひもだけを買って帰った。
意味はない
九日目
夕方、雨が降った。
傘を持っていなかったので、駅の屋根の下で、雨が止むまで人々の靴を眺めていた。
十日目
郵便受けに、知らない人宛ての手紙が入っていた。
宛名の人はもうここに住んでいないらしい。手紙は、郵便局へ戻された。
十一日目
職場で誰かが小さなチョコレートを配った。
その人は一つ受け取り、引き出しの奥へしまった。すぐに食べるのが惜しかった。
十二日目
夜、電球が切れた。
椅子に乗って交換する間、部屋は月明かりだけになった。
十三日目
スーパーで、見知らぬ子どもが泣いていた。
母親が『大丈夫』と言いながら抱き上げるのを見て、僕は買い物かごの中にあった牛乳を少し強く握った。こぼれちゃった
十四日目
休日の公園で、鳩が一羽だけ群れから離れていた。
その人もベンチに座り、鳩も少し離れた場所に座った。
十五日目
月の半分が過ぎた。
カレンダーには、予定よりも丸印のほうが多くついていた。何の印かは、本人にもよく分からなかった。
十六日目
駅の階段で、落とし物の手袋を見つけた。
片方だけの手袋は、持ち主の手の形を覚えているように見えた。
十七日目
昼食に蕎麦を食べた。
隣の席の老人は、食べ終わってからもしばらく湯気を眺めていた。
十八日目
夜、昔の友人から短いメッセージが届いた。
『元気?』とだけ書かれていた。僕は『そっちは?』と返した。
十九日目
返事が来るまでの間に、部屋の掃除をした。
返事は来なかったが、床は少しきれいになった。
二十日目
朝、空に飛行機雲が伸びていた。
その人は立ち止まり、飛行機の中にいる誰かも、こちらを見ているかもしれないと思った。
二十一日目
近所の八百屋で、傷のあるりんごを買った。
店主は『こっちのほうが甘いよ』と言った。食べてみると、本当に甘かった。
二十二日目
仕事で失敗をした。
誰かに謝り、誰かに『気にしないで』と言われた。帰宅後も失敗は消えなかったが、少し小さくなった。
二十三日目
ベランダに小さな蛾がいた。
しばらく見てから、窓を開けた。蛾は出ていかなかった。
二十四日目
夜中に目が覚めた。
冷蔵庫の音と、遠くを走る車の音が、部屋の中に静かな会話を作っていた。
二十五日目
道端で、誰かが落とした写真を拾った。
知らない家族が笑っていた。裏返して、近くの電柱に立てかけた。
二十六日目
夕焼けがきれいだった。
きれいだと思ったが、それを伝える相手がいなかったので、代わりに窓を少し長く開けておいた。
二十七日目
図書館で本を一冊借りた。
読み終える前に返却期限が来そうだったが、急いで読む気にはなれなかった。
二十八日目
隣の部屋のピアノが、今日は一度も聞こえなかった。
その静けさの中で、僕は初めて、隣人の顔を想像した。
二十九日目
朝、このあいだのりんごの残りを食べた。
果物の芯を見つめながら、明日も何かを食べるだろうと思った。
三十日目
月の最後の日、僕はいつもより少し早く家を出た。
駅へ向かう途中、赤い傘を差した誰かとすれ違った。
相手は知らない人だった。
その人もまた、相手にとっては知らない人だった。」
そんな日記を拾った。さてこの日記は誰が書いたのだろうか。
ゲスト
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#恋愛
コメント
1件
わあ…なんだろう、これすごい……😭✨ 「無も知らぬ人の30日間日記」、読み終わったあとしばらく動けなかったよ。 たった一行ずつなのに、一人の人の生活がじわじわと浮かび上がってきて、最後の「知らない人だった」で全部が切なく響いた…。赤い傘が三度目でようやく繋がったのもエモすぎる。 何気ない毎日がこんなに宝物みたいに感じられるの、作者さんの腕前だよ…ゆろさん、天才すぎる🌸💕