1週間たっても10日たっても、会社を取り巻く状況は好転しなかった。
それどころか、ネットニュースだけではなくテレビや雑誌も取り上げるようになり、とうとう内部告発者と名乗る男性が談合疑惑まで暴露した。
もちろんすべて根も葉もない話で、真実でないことはわかっている。
ただ、こうして取り上げられることで、鈴森商事は窮地に立たされた。
「一華、お父さんたちに着替えを持っていってくれる?」
朝食の用意をしていた母さんに、カバンを2つ渡された。
「はーい」
普段はこんなに素直に返事をすることなんてないのに。
やっぱり、私も弱っているのかもしれない。
父さんも兄さんも、ここ数日は家に帰ってきていない。
これだけ騒がれてしまった以上なにかしらの対策をとらなければならないと、遅くまで会社に残っているようだ。
「一華、少しは食べなさい」
普段から私が朝食を食べないのを知っているくせに、母さんは目の前にオムレツと温かいスープを並べた。
「朝は食べられないって知っているでしょ」
「それでも少しは食べなさい。あなたオムレツ好きだったじゃない」
そんなのいつの話よ。
いつまでもオムレツを喜ぶ子供じゃない。
きっと、母さんの中で私はいつまでも小さな子供なのよね。
「少しでいいから食べなさい。あなたが倒れたんじゃ元も子もないでしょ」
母さんはいつも父さんや兄さんに気をつかう。
自分は裏方で家族のために家事をするのが仕事。そうやって私たちを育てて、家を守ってきた。
どんなに具合が悪くても、母さんは家事の手を抜かないし、自分のことよりもまず私たちのことを考える。
そんな母さんの生き方を私は好きになれない。
「ほら、ひと口でいいから」
「もう」
仕方なく私はオムレツに手をつけた。
うん、おいしい。
悔しいけれど、これが私の好きな味。
卵の中には私の苦手なにんじんやピーマンが入っている。
母さんはいつもこうやって私の苦手な野菜を食べさせていた。
「ねぇ一華、父さんと孝太郎のことをお願いね」
「うん」
母さんだっていてもたってもいられない気持ちは同じ。
わかっているから、いつものように反抗する気にはならない。
「じゃあ行ってきます」
母さんに託された着替えを持って、いつもより少し早く私は家を出た。
***
会社に着くと、自分のオフィスには向かわず最上階の重役フロアへ足を運んだ。
父さんも兄さんも忙しいだろうから、秘書の麗子さんと香山さんに荷物を預けようと思った。
「おはようございます」
「あら、一華ちゃんおはよう。ずいぶん早いわね」
「そうですか?」
そういう麗子さんだって、綺麗にお化粧もしてすっかり働く体制。
「これ、母さんから預かりました」
「ありがとう」
麗子さんは荷物を受け取ると、私にお茶を入れてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。お兄ちゃんはまだなんですね」
「ホテルに帰ったのが夜中だったはずだから。でも、もうすぐ来ると思うわよ」
やっぱり、遅くまで仕事をしているのね。
「一華ちゃんは大丈夫?」
心配そうに私を見ている。
「大丈夫ですよ。麗子さんこそ大丈夫ですか?」
きっと遅くまで残っているはずなのに。
「ふふふ、私は平気。何しろ踏ん張り時だからね」
「確かに」
今は、うちの会社にとっての正念場。
なんとか乗り越えないと何千人にものぼる従業員もその家族も路頭に迷うことになってしまう。
だからこそ、この騒動の原因が私だったら・・・どうしよう。
「顔色が悪いわよ。無理をせずにちゃんと休んでね」
「大丈夫ですよ。私は元気です」
まさか本当のことを言うわけにもいかず、笑ってみせるしかなかった。
「ねえ一華ちゃん、髙田課長とはうまくいってるの?」
「ええ、まあ」
としか答えようがない。
鷹文とは職場でしか会えない日が続いている。
寂しさはもちろんある。でも、それ以上に不安が大きい。
必死に走り回る鷹文の裏に、私の知らない何かがある気がしてしかたがない。
「こういう状況で言うのも何だけれど、彼はいい人だわ。諦めたらダメよ」
「麗子さん」
「たとえ孝太郎が反対しても、私は味方だからね」
「・・・はい」
声が震えてしまった。
とにかく今は、目の前の問題を解決するのが優先。
頑張るしかないんだ。
***
「一華さん帰らないんですか?」
定時を過ぎてまだ帰ろうとしない私に、可憐ちゃんが声をかけた。
「うーん、もう少し」
どうしてもやらなくてはいけない仕事が残っているわけじゃないけれど、まだ帰る気にはならない。
ただの自己満足なのはわかっていても、父さんも兄さんも鷹文だって必死に頑張っているのを知っているから。自分だけ逃出す気にはなれなかった。
「さぁ、みんな今日は早めに帰るぞ」
珍しく部長が声を上げた。
部長も、毎日残業が続いている。
それは部長だけじゃなくて、ここに働くみんなが一緒。
みんなの疲れが顔に出ているのがわかっていて、部長はあえて声をかけたんだ。
「さぁ鈴木、帰るぞ」
「えっ」
名指しで呼ばれた以上、腰を上げないわけにはいかない。
誰かが動き出さないと、いつまでもみんな帰らないから。
「チーフ、帰りましょう」
部長の声を受けて、小熊くんが寄ってきた。
「そうだね、たまには早く帰ろうか」
「一華さん、ご飯でも行きましょうよ」
隣の席で、可憐ちゃんも帰り支度を始めた。
「そうね、行こうか?」
父さんや兄さんのように遅くまで働いている管理職も大勢いる。
鷹文だってまだ会社に戻ってきていない。
きっと、今日も遅くなるんだろう。
自分だけが遊びに行くようで気が引けるけれど、こんな時だからこそ気分転換もいいだろうと可憐ちゃんの誘いに乗ってみた。
「じゃあ、行きましょうか?」
「うん」
「「お疲れ様でした」」
精一杯明るく挨拶をした私は、オフィスを後にした。
***
「突然すみません、鈴木一華さんですよね」
夕食を取るために会社を出た私と可憐ちゃんはビルの前で声をかけられた。
いかにも仕事ができそうな、スーツ姿の女性。
どうやら、私を知っていて声をかけたようだった。
「失礼ですが?」
こんな綺麗な人1度見たら忘れないと思う。
でも、私には覚えがない。
「少しお時間をいただけませんか?鷹文のことでお話がしたいんです」
近くにいる可憐ちゃんを気遣ってか、声のトーンを落として私に聞こえるように話す。
「わかりました」
鷹文のことと言われたら逃げるわけにはいかない。話を聞くしかないだろう。
「可憐ちゃんごめん。食事はこの次にして」
両手を合わせてみせた。
「いいですよ。でも、大丈夫ですか?」
心配そうな顔。
「うん、私は平気」
ごめんね埋め合わせは必ずするからと可憐ちゃんには何度も謝って、私は美女と2人駅の方へと向かった。
***
「お待たせしました」
目の前にワインの入ったグラスとサラダやおしゃれなつまみが並んだ。
ここは駅から少し離れたところにあるビルの地下。
先月できたばかりで、女の子たちの間でもおいしいイタリアンってちょっと話題になっていたお店。
本当なら今日は可憐ちゃんと2人で夕食をとるはずだった。
でも、今私の目の前にいるのは初対面の女性。
健康的な血色と肩を超える位の長さに緩やかなウェーブのかかった茶色い髪、意思の強そうな目と存在感のある唇。絶対にモテること間違いない超美人。
「はじめまして、本郷悠里です」
私の方に視線を向け、にっこりと笑ってみせる。
「鈴木一華です。それで、ご用件は何でしょう?」
彼女の素性がわかった以上、どんなに美味しそうな料理を並べられても話を聞くまでは喉を通りそうにもない。
「私の事、ご存知ですか?」
「ええ。鷹文の彼女だった人。8年前一緒に事故にあった方ですよね?」
私の知っていることを簡潔にまとめてみた。
「ええそうです。当時、私は鷹文と付き合っていました」
知っていた事実なのに、本人の口から聞くとやはり動揺してしまう。
白川さんは悲しい過去だと言ったけれど、本当にそんなものなのだろうか?単純に元カノ?それだけ?
「鷹文、今はあなたと付き合っているんですね?」
やっぱり、知っていてここに来たんだ。
***
「悠里さんは本郷商事のお嬢さんなんですよね?」
今度は私が聞いてみた。
どちらかと言えば、今の私にはそのことの方が気になる。
「ええそうです。一華さんは鈴森商事のお嬢さんですよね?」
なんだか挑んでくるような口調。
「悠里さん、私回りくどいのは苦手なのではっきりと申し上げます。今日はなぜ私に会いにいらしたんですか?」
正直言うと、悠里さんあなたは一体何をしたんですか?そう聞いてしまいたかった。
でもさすがに、証拠もないのに問い詰めることはできない。
「今回の騒動を解決したいと思いませんか?」
悠里さんは、まっすぐど真ん中に直球を投げてきた。
えっ。
思わず手が止まり、ゴクリとワインを飲み込んだ。
「それは、どういう意味でしょう?」
知らないふりをする私に、
「わかってるくせに」
意地悪な笑顔を向ける。
「わからないから、お尋ねしています」
再度聞いててみた。
「今回の騒動は一華さんがその気になればすぐにでも解決しますよ」
「それは・・・」
言葉が続かない。
私だって、うすうすは気づいている。
でも、認めたくない。
「鷹文を自由にしていただけませんか?」
少し身を乗り出すように、私を見ている。
「やめてください。そもそも鷹文は誰のものでもありませんし、私は彼の自由を奪ったつもりはありません」
アルコールも手伝って、私の口調も強くなった。
きっと、悠里さんは私の知らない鷹文をたくさん知っている。
どんなに頑張っても私に勝ち目はない。
それから、私たちの会話はどことなくぎこちなくなってしまった。
***
「せっかくの料理だからまずは食べましょう。ね?」
同性の私が見てもキュンとしてしまうような顔で、料理に手を伸ばす悠里さん。
悠里さんは本郷商事の一人娘。兄さんがいる私と違って将来は会社を継ぐことになるという。
そのせいかな、ほとんど同じ環境に育ったはずなのに随分大人だなぁと感じた。
「鷹文は8年前の話をしましたか?」
「ええ、聞きました。白川さんからも」
「そうですか。悲しい思いをしたのはみんな一緒だけれど、鷹文にとっては人生観が変わる出来事だったんです」
その悲しそうな表情が、どれだけ苦しかったかを物語っている。
白川さんが言っていた「地獄を見た」って言葉が蘇った。
「でもね、鷹文も苦しかったと思うけれど、突然彼氏に消えられた私も辛かったんです」
「悠里さん」
「ずいぶん鷹文を恨んだわ。8年も音信不通だったんですから」
彼女が泣いているように見えた。
8年・・・長いな。
私が鷹文と一緒にいた間、悠里さんはずっと鷹文を心配していたのね。
「でもね、苦しんだのは私や鷹文だけじゃない。わかっていただけますか?」
「ええ」
この8年は鷹文にとって必要な時間だった。
でも、待っている人たちにはそれ以上に長く感じる時間だったことだろう。
***
「一華さん。鷹文の為にも、一華さんのためにも、1度鷹文を元の場所に戻していただけませんか?」
「はあぁ?」
間抜けな声を上げてしまった。
「一華さんにとっても鷹文にとっても周りの人たちにとっても、何が1番幸せなのかもう一度考えてみてください」
お願いしますと、悠里さんは頭を下げた。
私は今、悠里さんに鷹文との別れを迫られている。
やっと気持ちが通じたばかりなのに初対面の人から別れを迫られるだなんて、理不尽な話だ。
でも、こうして話している悠里さんが悪い人には思えない。
同じような環境に生まれながら、こういう生き方もあったんだなぁと冷静に見ている自分がいる。
それだけ悠里さんは魅力的な女性だった。
私は返事をしなかった。
悠里さんも、それ以上何も言わなかった。
結局2時間ほど店に滞在しワインを2本空け、しっかりとデザートまでいただいた。
就職してから同僚や後輩と飲みに出る事はあっても、いつも鈴木一華の素性は隠したまま。こうやって嘘のない自分でいられるのは久しぶり。
きっとこんな出会い方でなければ、悠里さんと私は良い友達になれただろう。
そう思わせるような清々しい人だった。
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