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片町裏通りの用水沿いに、「文豪の道」と呼ばれる石畳の歩道があった。
一般車両のみ通行可能な一方通行で、20時を過ぎれば車通りも人通りもほとんどない。
サラサラと流れる用水路に、暖かな色合いの街灯がポツポツと灯り、柳の枝の影を水面に映していた。
黒木の車は先のコインパーキングに停めてあると言い、二人は並んでその道を歩いた。
(やだ、寿があんなこと言うから緊張しちゃうじゃない……)
一台のタクシーが通り沿いの料亭に客を迎えに来た。
見送る女将に上機嫌で手を振る客と、やれやれといった表情で店内へ戻るサラリーマン。
少し賑やかになって、瑠璃は内心ホッとした。
左側の黒木の横顔は、職場で書類にハンコを押すときとは違い、少し硬い表情をしていた。
その顔をぼんやり見上げていると、不意に黒木が瑠璃を見下ろした。
「なにかな。視線が痛いんだけど」
「あ、すみません。係長、いつもと雰囲気が違うなって」
「それはそうですよ。プライベートですから」
(プライベート……)
「る、いや、満島さんも制服のときとは違いますね」
「そうですか? 村瀬さんが気合いを入れて来いって……」
「気合い入ってますね」
「は、恥ずかしいです。そんなに見ないでください」
「見ておきたい」
(ぎゃー……! これって大人の余裕? それとも素なの?)
「あ、これってセクハラになるのかな」
「あ、プライベートなので気にしないでください。大丈夫、です」
(また……プライベート)
ピッ。
コインパーキングの看板の陰で、オレンジ色のハザードランプが点滅した。
黒木の黒いトヨタ・クラウン、最新モデルだ。
「あ、車出すから、満島さん、そこで待っていて」
「分かりました」
低いエンジン音が響く。
建は「普段乗らないから」と軽自動車を所有していたが、比べるのも失礼だと思いながらも、つい黒木と建を比較してしまう。
(……やはり大人)
ガコンと車止めが降り、車体よりも幅広のタイヤがズルズルと前進した。
運転席から降りた黒木が、助手席のドアを開けてくれる。
全ての動きがそつなくスマートだった。
「どうぞ。散らかっているけど」
「あ、ありがとうございます。お邪魔します」
バタン。
助手席のドアは重厚な音を立てて閉まった。
車内は散らかるどころか新車のように整然としていて、黒木のワークデスクの上と同じだった。
「新車みたいですね」
「暗いからだよ。埃だらけだよ」
「えぇ、嘘」
「嘘じゃないよ」
瑠璃はふと気づいた。
黒木とは気負いなく話せる。
直属の上司ということもあって慣れているのか、それともこの夜の雰囲気がそうさせるのかはわからないが、隣にいても苦ではなかった。
「自宅はどこだっけ?」
「あ、西都です」
「県庁側?」
「はい、8号線の近くです」
「会社から近いね」
「はい、バスで停留所四個かな」
「バス通勤なんだ」
黒い革のハンドルを握り直した黒木が、自然な栗色のオールバックの髪を軽く掻き上げた。
その瞬間、瑠璃の心臓が波打った。
(……この匂い)
柑橘系の整髪料の香り。
建が愛用していたグルーミングシトラスと同じものだった。
思わず大きく息を吸い込んでしまった。
「どうしたの?」
「あ、柑橘系の匂いがします」
「満島さん、この匂い、苦手かな」
「好き、です」
「もしかして、奈良くんも同じ整髪料だった?」
赤信号で停車した運転席の黒木が、瑠璃の横顔を窺うように見た。
瑠璃の顔が強張った。
歩行者信号が点滅し、一般信号が青に変わる。
緩やかにスタートするエンジン音は心地よかったが、その言葉は瑠璃の耳に痛く響いた。
「え、と……」
「ごめん、意地悪が過ぎたね」
「え」
金沢駅「もてなしドーム」の煌々とした明かりが、黒木の横顔を逆光で照らした。
表情はよく見えなかった。
ウインカーを左に上げる。
横断歩道を急ぐサラリーマンやキャリーバッグを引く外国人観光客がゾロゾロと渡っていく。
その人の流れが止まり、車列が動き出した。
「気になっていて」
「はい?」
「満島さんの薬指に指輪がない。そのことが気になっていて」
「指輪……」
「うん。奈良から貰ったって、二年前に話していただろう?」
「はい」
「なんで指輪、嵌めてないの?」
右折し、暗いJR高架橋をくぐり、数棟のマンションと住宅の谷間を抜けて大通りへ向かった。
赤信号で停車すると、再び黒木が瑠璃の顔を見た。
「別れた?」
「え」
「違ってたら謝る。でも、そんな気がする」
金沢駅西口の交差点を左折し、片側三車線の広い道路を西に向かって走る。
流れる景色の中、運転席側に暗い三共保険の社屋ビルが見えた。
黒木は真剣な表情でフロントガラスを見つめていた。
「え、と……」
返答に困る瑠璃の言葉に、黒木が大きく息を吸って深く吐いた。
「満島さん、県庁の駐車場に寄っても良いかな」
石川県庁の第一駐車場は、19階展望ロビー開放のため夜間も駐車可能だった。
駐車場の脇には青々とした芝生と緑地公園が広がっている。
黒木は瑠璃の返事も待たずにウィンカーを右に下ろし、一番端に車を停めた。
低いエンジン音が止まり、「アイドリングはしないんだ」と黒木はエンジンを切った。
周囲には車も人気もなく、静けさが車内に満ちた。
瑠璃の胸は高鳴り、耳の中が充血して、唾を飲み込む音さえも憚られた。
指先を動かすことも、ワンピースの衣擦れをさせることすら躊躇われた。
「満島さん」
「……はい」
「奈良くんと別れた?」
「……」
「答えたく無いならいいけど、別れた?」
「……は、い」
すると黒木は黒い革のハンドルに上半身を預け、前のめりになって小さく呟いた。
「いつ」
「金曜日です」
「やっぱり」
「やっぱり?」
黒木は少し含み笑いをして、瑠璃に向き直った。
「先週の水曜日に有給の申請に来たでしょ。あの時、思い詰めた顔をしていたから」
「そ、そうでしたか?」
「うん」
「係長、あの……」
「なに?」
「なんで申請書にハンコを押す時、笑ってたんですか?」
「ん、深刻そうな満島さんを和まそうと思って」
「そうなんですか」
「……嘘」
「え?」
ハンドルから身を離した黒木は、シートベルトのタングプレートに手を掛けた。
シュルシュルと音を立ててベルトが収まり、左手を運転席の座席の端に置いた。
寿の洞察力は凄い。確かに黒木は、いつもとは違う目の色をしていた。
上司と部下ではなく、男と女――そう直感した。
「嘘だよ。喜んだ」
「喜んだ?」
「満島さんと奈良くんが別れるんじゃないかと思って、喜んだ」
「ひ、酷っ」
「酷くないよ」
「え」
「私は二年間、待った」
「待った?」
次に来る言葉に、大凡の見当がついた。
「満島さんが好きだ」
「え」
「好きだったんだ。ずっと」
瑠璃は、寿の情報が正しかったのだと、その収集能力に改めて驚いた。
「す、好き、ですか」
「そうだ」
「好き……です、か?」
黒木はフレームレスの眼鏡を外し、ダッシュボードの上に置いた。
アーチ型の眉、二重の瞼、焦茶の瞳が近づき、ゆっくりと閉じられた。
(係長、まつ毛、長い……)
鼻先が触れた。
瑠璃も自然と瞼を閉じ、しっとりとした感触が唇に触れた瞬間、身体の芯が火照るのを感じた。
柔らかな唇の皮膚が名残惜しそうに離れ、薄い吐息が熱く漏れた。
「好きだ。付き合って欲しい」
「係長」
「え」
「係長、煙草、吸われるんですね」
自分でもなぜそんなことを呟いたのか分からなかった。
突然の口付けへの驚きは一瞬で消え、瑠璃は初めて味わう唇に残った煙草のほろ苦さを、嗅覚と味覚でそっと反芻していた。
「怒らないの?」
「ビックリしました。でも、大丈夫でした」
「大丈夫って、何、それ」
「煙草の匂い、初めてです」
「そう」
「はい」
黒木は眼鏡を掛け、シートベルトを着けると「家はどこだ」と尋ねた。
瑠璃はあまり家の近くまで行くと家族が驚くからと、自宅から程近いコンビニエンスストアの駐車場まででいいと答えた。
「満島さん」
「はい」
「来週の月曜日、18:30にこの駐車場で待ってる」
「え?」
「私と付き合っても良いと思ったら、その時間にここに来て」
「は、はい」
「待ってる」
「はい」
「おやすみ」
「お疲れ様でした」
今しがた口付けをした相手に「お疲れ様でした」も何もないだろうと思いながらも、瑠璃の口からはその言葉が自然にこぼれた。
黒木は直属の上司であることに変わりはない。
けれどこれからは、彼の違う表情を見るのかもしれない。
走り去る黒い車のテールランプの赤い帯を見送りながら、瑠璃はピンク色の唇にそっと指を重ねた。
夏は、終わりを迎えようとしていた。