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62
その日の夜。
夕食を終え、それぞれが自分たちの部屋へ戻ったあと。
阿部は目黒と二人で温泉に入っていた。
大浴場ではない。
部屋についている、小さな露天風呂。
外は暗く、聞こえるのはお湯の流れる音くらいだった。
阿部は肩まで浸かりながら、ぼんやり空を見上げる。
「……気持ちいい」
「ね」
目黒も隣で息を吐いた。
昼間は。
事件が公になった。
スマホには今も通知がたくさん来ている。
でも。
二人とも部屋に置いてきた。
今は見ない。
そう決めた。
しばらく何も話さずにいると。
阿部がふと思い出した。
「昨日車で寝た時、天使と魔王に会ったって言ったじゃん」
「プリン食べてたやつ?」
「そう」
目黒が少し笑う。
「期限が昨日までだったんだっけ」
「そこ覚えてるんだ」
「意味分かんなかったから」
「俺も分かんない」
阿部も笑った。
それから。
少しだけ真面目な顔になる。
「天使にね、早く引っ越した方がいいって言われた」
目黒は驚かなかった。
少し考えるように、お湯を見る。
「……やっぱり?」
「うん」
「俺も考えてた」
阿部が目黒を見る。
「いつから?」
「昨日」
目黒は正直に答えた。
「あの人が家に来た時から」
「そっか」
「でも」
目黒は阿部を見る。
「俺だけで決めることじゃないから」
阿部は頷いた。
あの家は。
目黒だけの家ではない。
阿部だけの家でもない。
二人の家だった。
だから。
どうするかも。
二人で決める。
阿部は膝を抱えるようにして、少し身体を丸めた。
「俺、あの家嫌いじゃないんだよ」
「うん」
「むしろ好き」
二人で暮らし始めた家。
一緒に選んだ家具。
#❤️💙
みら

19,807
207
阿部の本が増えて。
目黒の服も増えて。
冷蔵庫には二人のメモ。
仕事から帰って。
ただいまと言う場所。
夢の中で。
何度も帰りたいと思った場所。
「昨日もさ」
阿部は続ける。
「家に入った時、帰ってきたって思った」
「うん」
「だから」
少し言葉を探す。
「怖くなったから捨てる、みたいなのは嫌だなって思ってた」
目黒は黙って聞いている。
「でも」
阿部は自分の手を見る。
「インターホン鳴っただけで、たぶんしばらく怖い」
「うん」
「玄関見ると思い出すし」
「うん」
「場所も知られてる」
女優が捕まった。
それでも。
一度知られた住所は消せない。
これから事件が公になることで。
別の誰かが家を探そうとする可能性だってある。
阿部はそこまで考えて。
ゆっくり目黒を見る。
「引っ越そっか」
目黒が少しだけ目を見開いた。
「いいの?」
「うん」
「無理してない?」
阿部は考える。
それから首を振った。
「してない」
少し笑う。
「逃げるためじゃなくて」
目黒を見る。
「二人で次の家に行きたい」
目黒の表情が。
ゆっくり柔らかくなる。
「そっか」
「うん」
「じゃあ探そう」
「一緒にね」
「もちろん」
阿部は少し考えて。
「条件いっぱいあるよ」
「例えば?」
「セキュリティちゃんとしてるところ」
「それは絶対」
「本棚いっぱい置ける」
「それも」
「キッチン広い」
目黒が笑う。
「それ、俺用?」
「めめ料理するじゃん」
「するけど」
「俺食べる」
「じゃあ広い方がいいね」
「あと」
阿部は指を折る。
「できればリビング広め」
「なんで?」
「九人来ると狭いから」
目黒が吹き出した。
「そこも基準に入れるの?」
「入れる」
「俺ら二人で住む家だよ?」
「どうせ来るじゃん」
否定できないらしく。
目黒は笑った。
「まあ、来るね」
「魔王ソファ置けるくらい」
「それはやめよう」
「俺も嫌」
二人で笑う。
阿部は、湯気の向こうの目黒を見る。
昨日まで。
自分の未来があることすら。
どこか不思議だった。
今は。
次に住む家の話をしている。
どんなキッチンにするか。
本をどこに置くか。
みんなが来た時どこに座るか。
そんな先のことを。
普通に考えている。
「めめ」
「ん?」
「楽しみかも」
「家探し?」
「うん」
目黒が笑う。
「俺も」
阿部は。
もう一度肩までお湯に浸かった。
住んでいた場所を失うのではない。
そこで過ごした時間まで消えるわけでもない。
二人で。
次へ行く。
そう思えば。
少しだけ楽しみだった。
それから。
旅館での生活は、数日続いた。
最初の二日ほどは。
本当に誰も何もしなかった。
朝になれば。
九人で使う部屋に集まる。
ご飯を食べる。
それが終われば。
誰かが温泉へ行く。
誰かは寝る。
誰かはテレビを見る。
それだけ。
仕事の連絡は。
基本的にマネージャーが止めてくれていた。
事件について必要な話だけ。
それ以外は。
考えなくていいことになっている。
阿部は最初。
何もしない時間が長くなると、少し落ち着かなかった。
「……ほんとに何もしなくていいの?」
畳に寝転びながら聞く。
深澤も隣で寝転んでいる。
「いいんじゃない?」
「仕事ないよ」
「休止してるからね」
「勉強もしてない」
「しなくていいでしょ」
「何か」
阿部は天井を見る。
「暇」
深澤が笑う。
「それが休みなんじゃない?」
夢の中でも。
似たことを言われた気がする。
阿部は少し考えて。
「……そっか」
そのまま。
深澤の隣で何もしなかった。
十分ほどして。
阿部がもう一度言う。
「暇」
「慣れな」
「難しい」
深澤が笑う。
三人部屋は。
初日から相変わらずだった。
三日目の朝。
佐久間、康二、ラウールが朝食の時間になっても来ない。
渡辺が時計を見る。
「また寝てんじゃない?」
岩本が。
「ラウは起きてそうだけど」
と言ったところで。
襖が開いた。
ラウールだけが入ってきた。
「おはよう」
「二人は?」
深澤が聞く。
ラウールは無表情で答える。
「寝てる」
「また?」
「昨日、俺が寝たあとも喋ってたみたい」
渡辺が呆れる。
「子ども?」
「佐久間くんが康二くんに写真見せ始めて」
「なんの?」
「昔のメンバーの写真」
康二のスマホには。
現実で撮った写真が大量に入っている。
夢の中のものとは違う。
でも。
九人で過ごしてきた時間は。
こっちにもたくさん残っていた。
「起こしてきた?」
目黒が聞く。
「起こした」
「起きた?」
「佐久間くんが『あと五分』って」
渡辺が立ち上がる。
「俺行く」
宮舘が袖を引く。
「放っといていいんじゃない?」
「朝飯なくなるよ」
「その時はその時」
渡辺は少し考えて。
また座った。
「……じゃあ放っとく」
阿部が笑う。
「翔太、優しいね」
「どこが」
「起こしに行こうとした」
「うるさい」
結局。
十五分後。
髪が跳ねた佐久間と康二が慌てて走ってきた。
「朝ご飯!」
「残っとる!?」
ラウールが静かに味噌汁を飲みながら。
「だから寝ろって言ったじゃん」
と言った。
渡辺は。
旅館に来てから。
二人部屋にいる時間が長かった。
というより。
ほとんど出てこない。
昼頃。
佐久間が二人部屋の前まで行って。
扉をノックする。
「翔太ー!」
返事がない。
もう一度。
「翔太ー!」
中から。
「何!」
声だけ返ってくる。
「遊ぼー!」
「嫌!」
「暇ー!」
「知らない!」
康二が後ろから。
「しょっぴー!」
と呼ぶ。
「来んな!」
二人で笑っていると。
扉が少しだけ開いた。
出てきたのは宮舘だった。
「翔太、寝てるから」
「今返事したよ?」
佐久間が言う。
奥から。
「寝るんだよ!」
と聞こえた。
宮舘は微笑む。
「だって」
「館さん甘い!」
「休みだからいいでしょ」
そう言って。
また部屋へ戻っていく。
佐久間と康二は。
閉まった扉を見つめた。
「……仲良しやな」
「ね」
そこへラウールが通りかかる。
「邪魔しないの」
二人は。
「はーい」
と素直に引き下がった。
深澤も。
よく寝ていた。
九人の部屋で。
岩本にもたれたまま。
テレビを見ながら寝る。
最初の頃なら。
誰かが退屈していないか。
何かしなければいけないか。
そんなことばかり気にしていた。
今は。
寝ている。
佐久間が。
「ふっか寝た?」
と小声で聞く。
岩本が頷く。
「寝た」
「写真撮ろ」
康二がカメラ代わりのスマホを構えようとする。
岩本が。
「やめとけ」
と言う。
康二は止める。
「怒る?」
「いや」
岩本は。
眠る深澤を見て。
少し笑った。
「寝かせといて」
誰も起こさなかった。
深澤が目を覚ましたのは。
一時間以上経ってからだった。
「……寝てた?」
阿部が。
「めちゃくちゃ」
と答える。
深澤は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「何かやることあった?」
阿部はすぐに言う。
「ないよ」
「ほんと?」
「何もしない日でしょ」
深澤は。
一瞬黙って。
「そっか」
と笑った。
また少し。
岩本にもたれ直した。
阿部の食事も。
少しずつ変わっていった。
最初は。
お粥。
柔らかい煮物。
少量の魚。
それだけだった。
でも。
三日目。
朝食を見ながら。
阿部が宮舘に聞く。
「館さん」
「何?」
「卵焼き一個もらっていい?」
宮舘が見る。
「食べられそう?」
「うん」
「じゃあどうぞ」
宮舘の皿からではなく。
阿部の前にもちゃんと用意されている。
阿部は一つ取って。
ゆっくり食べる。
「美味しい」
宮舘は。
「よかった」
とだけ答えた。
それ以上。
何口食べた。
どれくらい残した。
そんなことは聞かない。
渡辺も。
一瞬阿部の皿を見たけれど。
何も言わなかった。
阿部が気づく。
「今日聞かないの?」
「何を?」
「食べた?って」
渡辺が少し眉を上げる。
「見れば分かるし」
「そっか」
「それに」
渡辺は味噌汁を飲みながら。
「食べられなかったら言うでしょ」
阿部は。
少しだけ驚いた。
「うん」
夢の中で約束した。
大丈夫じゃない時は。
ちゃんと言う。
一人で隠さない。
渡辺は。
もうそれを信じようとしている。
阿部は笑った。
「言う」
「ならいい」
その日の昼。
旅館の人から食事の希望を聞かれた時。
阿部は。
自分から言った。
「うどん食べたい」
宮舘が振り返る。
「うどん?」
「うん」
「食べられそう?」
「食べたい」
少しだけ違う。
食べられるか。
ではなく。
食べたい。
宮舘は。
その違いに気づいたようだった。
でも。
何も言わずに笑う。
「じゃあお願いしよう」
阿部も頷いた。
その日の午後。
九人は広い部屋に集まっていた。
テレビはついているけれど。
誰もまともに見ていない。
佐久間は漫画。
康二は昔撮った写真。
ラウールはスマホ。
渡辺は宮舘の隣で横になっている。
深澤はまた岩本にもたれている。
目黒は阿部の隣。
阿部も。
ノートすら開いていない。
ただ座っているだけ。
誰かが話せば。
適当に返す。
静かになれば。
そのまま。
しばらくして。
阿部が部屋を見回した。
「あ」
目黒が聞く。
「何?」
阿部は少し笑う。
「これ」
「これ?」
「欲しかったやつだ」
何人かが阿部を見る。
深澤が眠そうに聞く。
「何が?」
「夢の最後の方でさ」
阿部は部屋を見る。
「みんなで何もしない日あったじゃん」
佐久間が。
「あった!」
と顔を上げる。
「魔王ソファで!」
渡辺が。
「あのソファはもういい」
と言う。
阿部は笑う。
「あの時、俺こういうのが一番欲しかったのかもって言った」
目黒が頷く。
「言ってたね」
「今も同じだ」
特別な場所へ行かなくても。
何かを達成しなくても。
全員が同じ部屋にいる。
誰かが寝て。
誰かがスマホを見て。
たまに笑う。
何でもない時間。
「現実でもできた」
阿部が言う。
佐久間が笑う。
「じゃあまたやろ!」
「仕事戻ったらこんな何日も無理だよ」
ラウールが言う。
「一日なら作れるんじゃない?」
深澤が。
「年一でもいいじゃん」
と夢の中と同じことを言った。
岩本も。
「事務所に九人休みの日作ってもらうか」
渡辺が。
「絶対スケジュール合わせるの大変」
と笑う。
康二も。
「でもやろうや」
宮舘が頷く。
「何もしない日」
阿部は。
みんなの顔を見る。
「うん」
目黒の肩に。
少しだけ頭を預ける。
何もしない。
何も解決しない。
ただ。
九人で休む。
そんな時間を。
これからも作ればいい。
夢の中だけのものにしなくていい。
夜。
二人部屋へ戻った阿部は。
夢から持ち帰ったノートを開いた。
少しずつ増えている。
現実の文字。
『九人で本当の温泉に来た。』
『思ってたより早かった。』
『今日は何もしない。』
その下へ。
新しく書く。
『引っ越すことにした。』
少し考えて。
続けた。
『あの家が嫌いだからじゃない。』
『逃げるためでもない。』
そして。
最後。
『めめと二人で、次の家を探す。』
後ろから。
目黒が覗く。
「見えてるよ」
阿部が言う。
「見ちゃった」
「勝手に読まないでよ」
「魔王も読んでたじゃん」
「魔王と一緒にしないで」
目黒が笑う。
阿部はノートを閉じた。
「明日から物件見る?」
「まだ外出られないでしょ」
「ネットで」
「ああ」
目黒が隣へ座る。
「見る?」
「見る」
「本棚置けるところ?」
「絶対」
「広いキッチン」
「絶対」
「九人入れるリビング」
「できれば」
「魔王ソファ」
「いらない」
即答すると。
目黒が笑った。
阿部も笑う。
次の家。
次の生活。
まだ。
事件は終わっていない。
活動も止まっている。
外にも出られない。
それでも。
その先のことを。
二人で話せる。
阿部は。
それが嬉しかった。
コメント
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いやあ……読んでてじんわり来ましたね。特に阿部があの家を嫌いだからじゃなくて「二人で次の家に行きたい」って言ったところが本当に良かった。逃げじゃなくて前を向く選択なんだなって。それと九人でだらだら過ごす時間が「現実でもできた」って阿部が言う場面、夢の中からここに繋がったんだなって感動しました。「何もしない日」を年一でもいいから続けていこうってのも、とても暖かい約束だなって思います。