ティアの部屋の扉を開けたのは、三十代半ばの男性──この屋敷を取り仕切る執事のルディオンだった。
ルディオンは、暑い季節にもかかわらず、パリッとした執事服を身につけている。
汗一つかいていない綺麗な立ち姿と、濃紺の髪を後ろに撫でつけた髪型は、凛とした気品を感じさせる。
そんな彼は親しみある笑みを浮かべながら、水差しとグラス。そして銅製のコップの入った盆を手にしながら、大股で一歩足を踏み入れた。
「おや、お目覚めですか。良かったです」
ルディオンは、屋敷の主人が独身女性に覆い被さっているのに、取り乱すことなく安堵の息を吐いた。
盆に載った銅製のコップから湯気が、ふわりと揺れる。
「ああ、ついさっき目を覚ましたところだ」
グレンシスも、やましさなど微塵も感じさせない声音で応えながら身を起こした。
もちろんティアが、その期を逃すことはしない。病み上がりとは思えない素早い動きで、半身を起こす。
ベッドの背もたれに寄りかかったと同時に、ルディオンと目が合った。すぐさま、にこりと笑顔を向けられる。
何となく顔は覚えているが、名前が思い出せないティアは、そっとルディオンから視線を逸らした。
「ルディオンとお呼びください。ティアさま」
ティアの気持ちをすぐさま読んだ執事は、嫌な顔などすることもなく、くすりと笑って軽く礼を取る。
「……さま?……あ、いえ。あの……どうも」
自分の名前をさらりと様付けで呼ばれてしまい、妙に居心地が悪い。
ぼそぼそ呟いて小さく頭を下げたティアに、ルディオンは労わりのある眼差しを向けた。
「2日間もずっと意識が戻らなくて心配しておりました。意識が戻られて、本当に良かったです。……お仕事とはいえ、一ヶ月という長旅は相当お疲れになったでしょう」
ルディオンの言葉で、ここでやっとティアは自分が帰路の途中で意識を失ったことを思いだした。
瞬間、ティアの顔から血の気が引いた。
なんていう失態だ!仕事を放棄したあげく、グレンシスに看病をさせてしまうなんて!!
ぎちぎちと音がしそうなほどぎこちなく、ティアがすぐ横にいる人物に目を向ける。少しの猶予もなく、ばっちりとグレンシスと目が合ってしまった。
「申し訳ありませんっ。あのっ、何てお詫びを申し上げれば良いのか……本当に、ご迷惑をお掛けしましたっ」
「いや」
言い訳ゼロ。ただただ土下座せんばかりにティアが謝罪をすれば、グレンシスは食い気味に首を横に振った。
そんな二人のやり取りを微笑ましく見ていたルディオンだが、困った様子で口を開いた。
「グレンシス様。実はまだティア様がお目覚めとは思わず、薬湯をお持ちしたのですが……粉薬に変えましょうか?」
「いや、せっかく用意したんだ。これを飲ます」
「かしこまりました」
そう言いながら、グレンシスはルディオンから薬湯の入った盆を受け取った。そして一旦、それをサイドテーブルに置くと、銅製のコップを手にする。
「ティア、多分、大丈夫だと思うが……気を付けて飲め」
「え?……あ、は、はい」
差し出されたコップをティアが、おどおどしながら受け取る。
そのやり取りをにこやかに見守っていたルディオンは、うっかりこんなことを言ってしまった。
ちなみにこの執事は、グレンシスがプロポーズに失敗したことを知らない。
「やっとティアさまは、一人でこれを飲むことができますね。ご主人さま」
「おいっ」
慌てた様子でグレンシスがルディオンを諌めた。
対してルディオンは、何故に?と言いたげな不可解な表情を見せた。
グレンシスはもう26歳。
そこそこの大人が恋仲となったのなら、手を繋ぐなど当たり前。そしてキスの一つや二つしていても、可笑しくはないのだから。
取り乱すグレンシスと、不可解な顔をするルディオンを交互に見つめていたティアは、一つの可能性を口にした。
「……くちうつし」
ティアからすれば、何を馬鹿なことをと一蹴して欲しかったのだが……グレンシスは片手で顔を覆いながら……でも、しっかりと頷いてしまった。
さわさわと心地よい風が、これまでずっと窓から入り込んでいたのに、ピタリと止んだ。カーテンも動きを止め、陽の光を遮断し部屋を薄暗くする。
まるで、様々な感情を抱えた3人の表情を隠すかのように。
どうやら夏の風は、大変空気を読めるようだった。
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