テラーノベル
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気がつくと、橋の中ほどに達していた。
次第に朝霧の晴れゆく頃合に、山向こうから薄っすらと差し始めた陽光が、川の流れを淡く照らしていた。
ふと足を止めた友人が、欄干に身体を預け、澄んだ川面に目をやった。
これに倣い、眼下を見やる。
上流に住まうという斎女が手向けたものか。
若々しい葵の葉が、藟の花びらともども、すべるように流れていった。
その模様に、何を思ったのかは知れない。
「遠くまで来ちゃったなって、思うことある?」
「え?」
友人が、そのように切り出した。
どことなく、浮かないものを感じさせる口振りだ。
らしくない。
「遠くまで………」
「うん……。 なんか最近ね、いろいろ考えちゃって。 燃え尽き症候群?みたいなのも、あるかも知んないけど」
行き先がどこであれ、前を向いて突っ走るのが、彼女の性分のはずた。
その背中をずっと見てきたし、追いつきたいと願ったこともある。
追いつけないまでも、置いていかれないように。
そこで、はたと思い当たった。
私たちが今いる場所は、言わば到達点だ。
山で言えば頂上で、旅程で言えばゴールに他ならない。
ここより上には行きようがなく、自然と目線は後ろ向きに。
己の過去、延いては出発点を振り返ってしまうのは、仕方がない事なのかも知れない。
彼女が生を受けたのは、深い深い地の底だった。
かの地を統べる権門の息女として、彼女は産声を上げた。
本来なら、蝶よ花よと育てられて然るべき箱入り娘だ。 たとえ、場所柄がどうであれ。
けれど、彼女の出自は少しばかり特殊だった。
父親は名にし負う天の大神。母親は一代で彼の地を平定した鬼神、抜山蓋世の女帝である。
“純血”を尊ぶ精神が、かの地にどれほど根付いていたのかは知れない。
そもそも、六界の何物よりも荒事に長けた鬼が、そういった上等な価値観を持ちうるものか。
ただ、当人をして、たしかな悪意を感じたという。
それはひょっとすると、貴人に対する羨望だったのかも知れない。
あるいは、天の神に対する純粋な敵愾心か。
それら、自分に向けられる夥しい悪意に対し、彼女は同じもので応じたという。来る日も来る日も。
「……地獄をひっくり返した御伽噺の化物」
「うん…………。 うん!? いや止め……っ、やめてぇ………!」
黒歴史なんて、誰にでもある。
消したい過去も、消せない過去も。
ただ、そんなものが………。
そんな場所が、この旅の始まりだなんて、決して言わせない。
「とわ……っ!?」
彼女の手を引いて、走り出す。
橋を渡り、鄙びた街道筋を抜けて、近代的な建物がならぶ都市部のほうへ向かう。
空飛ぶ列車が発着する駅を横目に、閑散とした市街地を突き進む。
伝統的なものから瀟洒なものまで、様々な建築様式で設えられた、神々の御宮が連なる目抜き通りを駆け抜ける。
彼女の妹が、手ずから下界に突き込んだ天の槍、今や人々を導く橋立と化した巨大な円柱。
それに併設する仮構の庁舎には、“閻魔庁”との看板が仰々しく張り出されている。
「ちょっと!? 行き過ぎちゃった……!」
構わず走る。
走って走って、ようやく辿りついた場所は、この辺りで一番の高台。
下界を一望できる見晴らし台だ。
巨大な神木を軸にして、幹の周囲にぐるりと張り巡らせる形で設置されている。
まるでアスレチックか、ツリーハウスのような趣きだが、規模が違う。
この場所は元々、“忘れ物”をしていないか、下界をのぞんで確認するための設備だという。
それは人によって、物であったり、思いであったり。
ならば、これは本来の用途に適うものか。
目を凝らすと、あの町が見える。
あの町のすべてが見える。
見慣れた町だ。 住み慣れた町だ。
「あの町が、始まりだよね? ほのっちの故郷は、あそこだよ」
私が言うと、彼女はわずかに目を丸くした後、こちらの心中を悟ったように、小さく微笑んだ。
「そう……。 そうですよね」
裾野に林立する煙突からモクモクと吐き出された雲の波が、東の空にたくましく聳えている。
その表面に、ぼんやりと刷き掛けたように薄日が当たる様は、ちょっと言葉では表しづらいほどの美しさだった。
こういう光景を見ると、たしかに遠くまで来ちゃったなと思うことはある。
でも、ここには変わらない眺めがあって、友人がいて、みんながいる。
忘れてはいけないものを、きちんと胸に書き留めている。
ふと、懐かしい風が吹いた。
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