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2014年。私は仕事道具を一旦ポケットに入れることになる。その後、身軽になるわけでもなく、その仕事道具を見たり、見なかったり。そのために新しい事をやって見たり。
でも、そんな日々が続き、2019年にとうとうその仕事道具を仕舞うことに。
どこかに行ったわけではなく、まさしく仕舞う感じになった。
学校の休み時間、長期休暇はどんだけ長くなってくれ。と思っても決して長くはならないのに、今回の休みは12年間になってしまったのを考えると、やっぱり思うわけです。
自分がとまって、世間をみていることの多くなった時間。
まさしくエネルギーが集まって、明らかに外ではなく家というか内へ。今までは自分の部屋に帰っていたのが、自分の家に帰ることになる。
何も便りのなくなった私に、唯一の頼みは自分の手しかない。
よく言うのが、明かりを求めて歩き、ようやくたどり着いた。とまさに要約されることが多いのだけれど、それは何と言うか、事からかなり時間が経ったあとの話方。
もっと現実的に考えるとそんな風には見えてこない。
ただ唯一、本当に頼りになるのはここまでいろんなことをやってきたであろう、自分の手。もちろん、本物の手じゃない。それが自分の意向とか、意思とか、重いもの。
自分の手を輝かせるとそこが今度はきっと誰かが目指す明かりになる。手をかざす為に必要なのは自分の思考、考え、観察、見る。ということ。
誰も教えてくれないけれど、かつて私は誰かがそれをやっているのを目にしたことがある。
過去の事は綺麗に切り貼りされてアルバムへ仕舞われることではなく、そんなものは思い出でしかなくて、あとから見た時に懐かしめばいい。
過去に何をしてきたのか。というのは現状のその人の形になっている。ということは現状の仕草を見れば何となくかんじることができるのだろう。
なぜ、あの言葉を私にくれたのか。
もちろん、くれたわけではない。その人はみんなに話をしていた。けれど、私もそこにいた。ということはその人はきっと知っていたんだろう。
その言葉がありありと今日まで私の中にあり続ける。
毎日、よくわからないことをして、それでその結果、貰った言葉は、
「まっつん、よかったよ」
だけだけれど、それでも今までの事を肯定してくれている。とは思わなかった。肯定は常にしている。常にやっている。のであれば、そのまま行け。ということを多分先生は言いたかったのではないだろうか?そう思うわけです。
自分の内側を表に出すということは、言い方的にはかっこいいかもしれないけれど、内側がなければ外には出せない。ということにもなるわけで。そうなってくると、美しさとは何だろうか。とも思うわけで。
自分の内側を自ら開示するものが美しいと、ある人物はのこしていて、その言葉をそのまま使用すると、美しさとは見た目の話ではなく、もっとエネルギー的な話になるわけで。
エネルギーのありようを有体に語る日々から、なくても語られる未来へ。
そうあれるように私は考えています。
コメント
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読了しました……「まっつん、よかったよ」って言葉、すごく響きました。たった一言かもしれないけど、その人がその場にいたからこそ届いたんだなって思うと、胸がじんわり熱くなります。休み時間ってタイトルなのに中身はずっと深いところを泳いでて、自分の内側ってやっぱり大事だなって思わせてくれる話でした。また読みたいです。