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開園再開後、暫く(しばらく)してその命を失ったサツキ。
その余りにも大きな喪失感は、元来明るい性格を顕著(けんちょ)にしていたジローの生活を一変させる事となった。
その日から、食事も碌(ろく)に喉を通らず、日中の殆(ほとん)どをプールに沈み込んで、来園者に背を向け過ごすだけになったのであった。
それほど、彼の中でサツキの存在は大きな物になっていたのである。
しかし、悲しみにくれる彼が失った物は、皮肉にもサツキが命を失う今際の際(いまわのきわ)に、彼に懇願した物であった。
それは、『人気』であった。
先行きの全く見えない中、絶望まではするまいと、一時の安らぎを求めて来園する人間達の目には、ジローの行動は只々、必死に頑張っている自分達に背を向け続ける、否定する者、傍観者のそれに見えてしまっていたのであった。
多くの、信じられないほどの、何の咎(とが)も無い尊い人命が失われてしまった中、ジローがサツキを失った悲しみを、人々に声高に聞かせる事は、全ての関係者には躊躇(ためら)われた事は当然であろう。
結果、来園した人々は、プールから顔も出さない『カバ』を素通りした。
仕方ない事であった。
今ならば思うことが出来た。
あの時の自分は幾つだったであろう?
確か二十八歳だっただろうか?
カバとしては立派な壮年に入って居たと思う。
にも拘らず(かかわらず)、子供染みた我が儘(わがまま)に溺れて、お客さんも、飼育スタッフも、あまつさえ頑張っている他の動物達全ての期待を裏切り続けていた。
そんな自分だけ、我が、我がの薄汚い自分を慰めようと、周囲のスタッフさん達は、新たな同胞をこのカバ舎に迎えるために奔走してくれた。
そうして、やって来た女の子の名はユイ。
まだ若く、『エヒメ』という場所から、何百キロもの旅を経てここ、上野の世界一アーバンでパリシュトゥな場所にやって来たそうだ。
彼女はこのカバ舎に辿り着くと同時に、その若さに似合った好奇心と積極さを惜しみなく発揮して、ジローの心を揺さぶった。
曰く、
『貴方が私のご主人様、所謂(いわゆる)旦那様ですよね♪ 今日から、ヨ・ロ・シ・ク・ね♪』
年齢相応と言えばそうなのかもしれない……
だが、ジローにはこのイマドキッぽい軽快さが思いの外(ほか)、心地よく響いたのであった。
だから、言葉にしたのだ。
『あ、ああ、いずれはそうなるのかもしれないな…… そ、それより見てみろ、ユイ、ユイちゃん、か? 人々の悲しそうな顔を!』
『うん…… 皆、辛そうだよね~ってか『エヒメ』で聞いて来たけど…… 結構ヤバイね? 東日本、ってか、人間? ダイジョブなのかな?』
やはり、イキって見えたユイちゃんも、空気感に気が付いていた様であった。
ジローは我が意を得たりとばかりに鷹揚(おうよう)に答えるのであった。
『それは、分からん!! だが、ヤバイなら、俺たち二人でヤバくナクソ? ダメかな? ユイちゃ!!』
『ユ? ユイちゃ? ……? ま、まぁ、旦那様がそう言うんだったら、……否は無いです、 けど』
『そっか…… ありがと…………』
自分に何が出来るか、漠然としたやる気だけが空回りし続ける中、齎(もたら)されたのは破格の大ニュースであった。
お隣のアカカワイノシシが話しかけて来た内容は、日常を取り戻し始めた、お客さんの会話から又聞きした物で、
『東京でオリパラやるんだってよ』
という桁違い、それこそ世界的な大イベントが僕らの街にやって来るというお知らせだったのだ。
ジローは内心で小躍りした。
長年温めてきた、世の中を元気付けるための秘策を、試す場としてはこれ以上無いほどの格好の舞台だと思った。
『ユイちゃ! チャンス到来だ! 今日から二人で特訓だぞ! 付いて来てくれるか?』
『うん、旦那様! ユイ、しっかり付いていくよ! 粘着しまくるね♪』
『オリンピックに向けて!』
『パラリンピックも忘れて無いよ!』
そんなやり取りを経て、経て、経りまくって辿りついた令和二年の初春、ジロー、ユイ、その他の動物達の期待をトーマス・バッハ(五輪の帝王)が、一言で絶望に変えた……
「一年延期をしま~す~!」
西園のアフリカ系にルーツを持つ、あらゆる『生命』がどよめいていた……
は? 何言ってんの? 復興五輪じゃなかったの?
皆、苦しい中で頑張って来たんじゃないの?
バウバウバウゥ! ウホウホウホホホホォ!
ンバンバンムバァ! クエェックィェェッ! ……
サバンナの声は、人間達には、例に拠って届かなかったようだ……