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第19話「ユキコの本棚」
その部屋には、時計がなかった。
窓も、外の音も、風の通り道すらなかった。
ただ、空気だけが何かを忘れているようなにおいをしていた。
「ここ、わたしの書斎だよ」
ユキコが言って、ふすまを開けた。
その奥にあったのは──床から天井までの本棚だった。
ぎっしりと並ぶ背表紙、色あせた表紙、タイトルのない冊子。
ところどころ、本と本のすき間に、野の草がひそかに咲いていた。
ユキコは、今日も白に近い水色のワンピース。
足元には薄手のレースのくつ下。
どこか“儀式用”の服のようで、ナギはなぜか胸がすこしだけざわついた。
ナギは、入り口で立ち止まっていた。
ミント色のTシャツは肩に少し泥の跡。
手には、昨日の自由帳。
何かを書いた記憶はあるけれど、もう開くのがこわかった。
「ここにある本、全部、読んでいいの?」
「うん。でも、全部“書いた人がいない”の」
「それって……」
「たぶん、誰かが“読みたいって思った”からできた本」
ナギはそっと棚に指をのばす。
一本の背表紙に触れた瞬間、ざりっ、とした紙の質感といっしょに、
遠くで誰かが名前を呼ぶ声が、かすかに耳にひっかかった。
開いた本の最初のページに、ナギは見覚えがあった。
《8月14日、あの子が鳥居をくぐった日。》
「これ……わたしのこと?」
ユキコは首をふった。
「“それがナギちゃん”かどうかは、ナギちゃんが決めること」
部屋のなかには、椅子も机もなかった。
でも、読んでいると立っていることを忘れてしまう。
ナギは、ひとつの本に読み入った。
そこには、ユキコとよく似た少女の物語が書かれていた。
・日記のようで
・でも、誰に向けて書いたのかわからず
・その子の名前も、毎ページで違っていて
・でも、声だけはずっと同じだった
読み終えたとき、ナギはそっとその本を閉じた。
手に残った紙の感触が、少しだけ湿っていた。
「この子……ユキコ、なの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないよ」
ユキコは笑った。
その目元が、ほんのわずかにかすんでいて、
見つめるほど、まつげが紙でできてるように見えた。
「でもね、ナギちゃん」
「うん?」
「この中に、ナギちゃんのこと書いた本もあるよ」
ナギははっとして振り向いた。
本棚のすみっこ、古ぼけた革表紙に、鉛筆で「なぎ」とだけ書かれていた。
そっと手をのばす。
開くと、1ページ目だけがやぶれていた。
それ以降のページは、まっしろ。
ユキコが言った。
「続きを書くか、やめるか、今日きめていいよ」
ナギはしばらく考え、そして本を棚に戻した。
「もう少し、見ていたいから。読まないで、歩いてみる」
棚の外に出たとき、
ふすまの向こうには、もう本棚はなかった。
代わりに置かれていたのは、ひとつの箱。
そこにだけ、まだ誰にも読まれていない文字がつまっていた。