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#ヒトコワ
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拓也の影が街灯の下に溶けていった後、私たちは静かに車を走らせて倉橋のマンションへと向かった。
夜明け前の薄闇が徐々に淡いピンクに変わる頃、フロントガラスに朝の光が柔らかく反射し、私の首にかけたルビーのペンダントが、胸元で小さく、けれど確かに輝きながら揺れた。
スマホの画面に映るニュースは、拓也の父親が再建したはずの会社が、巨額の負債を残して倒産したことを冷たく報じていた。私は無表情のままスクロールを止め、ただ静かに息を吐いた。――永遠の沈黙は、もう終わった。
これからは、私が選ぶ朝が始まる。途中、顔見知りの小さなベーカリーに立ち寄った。
焼きたてのパンの甘い香りが店内に満ち、黄金色に輝くクロワッサンを慎重に摘み上げる私の指先を、倉橋がくすっと優しく笑って見つめていた。
「瑞穂の手、いつも丁寧だね。宝石を扱うときと同じように、大切に触れてる」
「あなたが隣にいてくれるから……かな」
倉橋の耳がほんのり赤らむのが見えて、私の頰も熱くなった。
店主のおばさんが、目を細めてにこにこしながら言った。
「おや、瑞穂ちゃん。今日は素敵な彼氏さんと一緒かい?」
私たちは思わず顔を見合わせ、照れくさそうに微笑んだ。
倉橋が自然に私の肩に手を置き、その温もりが薄手のコート越しにじんわり伝わってくる。パンを丁寧に紙袋に詰めてもらい、外へ出ると、朝の柔らかな陽射しが私たちを優しく包み込んだ。倉橋が私の手をそっと握り、指と指が絡み合う。
その感触は、まるで約束のように温かく、確かだった。車に戻り、シートに座ってクロワッサンを分け合う。サクッという軽やかな音と共に、バターの豊かな香りが車内に広がった。
「君と一緒に食べると、こんな普通のパンでも、もっとおいしく感じるよ」
彼の声は低く、甘く響く。
一瞬、膝を折って泣き崩れた拓也の姿や、麻里奈の弱々しい涙が脳裏をよぎったけれど、もう何も感じなかった。復讐の幕は、静かに下りた。この穏やかで、温かな時間が、何よりも尊い。
マンションに着くと、倉橋がキッチンでコーヒーを淹れ始めた。豆を挽く心地よい音、ポタポタと滴り落ちる液体が、部屋の静けさに優しく溶けていく。私はソファに腰を下ろし、彼の横顔をただじっと見つめた。整った輪郭に、朝の光が柔らかく落ちる。
カップを渡され、指先が軽く触れ合う。その瞬間、温かさが胸の奥までじんわり広がった。一口飲むと、完璧な苦味と酸味のバランスが、舌の上で優しく踊る。
私は目を細め、彼の肩にそっと寄りかかった。倉橋の腕が自然に私の腰に回り、私を抱き寄せる。この距離が、ちょうどいい。心と心が重なり合う、ちょうどいい距離。
「今日の新作、どう?」
倉橋が指先でルビーのペンダントにそっと触れながら、囁くように言った。
「美しいよ。このルビーみたいに、君の強さが全部ここに映ってる。輝いてる」
私は目を伏せ、恥ずかしさと幸せで唇を小さく結んだ。
「これからは、あなたと一緒に……私が選んだ永遠を作っていきたい」
――私の幸せは、私が決めた。外では、遠くで鳥のさえずりが優しく響き、部屋の中はコーヒーの芳しい香りと、私たちの静かな呼吸だけが満ちていた。朝の光がゆっくりと部屋を満たし、二人の新しい、甘く穏やかな永遠が、静かに、けれど確かに、始まっていた。