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「……元貴の、闇」
オフィスに戻っても、
涼ちゃんの冷ややかな声が
耳に張り付いて離れない。
手の中にあるはずのスペアキーが、
今はまるで、中身のわからないパンドラの箱の鍵のように重く感じられた。
(俺は、何も知らない。
……元貴さんが何歳で、
今までどんな風に生きてきて、
……どうしてあんなに、
消えてしまいそうな声で歌うのか)
一度芽生えた疑念は、猛烈な勢いで膨らんでいく。
若井は「外回りに行ってきます」と上司に嘘をつき、会社を飛び出した。
向かったのは、駅から離れた静かなネットカフェ。自分のPCやスマホでは、履歴が残るのが怖かった。
薄暗いブースの中で、若井は震える指で検索窓に
「大森元貴」と打ち込む。
ヒットしたのは、数年前の古い音楽ニュースや、個人のブログ記事。
そこには、今の「お隣さん」からは想像もできないような、荒々しく、そして痛々しい過去の断片が転がっていた。
『新進気鋭の天才、突如の活動休止。
喉の酷使か、それとも精神的な限界か』
『……ステージ上で倒れ、そのまま表舞台から姿を消した少年。
彼を支え続けているのは、
当時からの唯一の理解者、藤澤涼架だけだという』
画面に映し出された数年前の写真は、今よりずっと痩せ細り、何かに怯えるような、
けれどすべてを拒絶するような鋭い目をした元貴さんだった。
「……これ、が……」
記事を読み進めるほどに、
若井の心臓は激しく波打つ。
そこには、元貴さんがかつて抱えていた巨大なプレッシャーと、それを一人で
(あるいは涼ちゃんと二人だけで)抱え込み、壊れていった記録が綴られていた。
若井が「癒やされる」と感じていたあの歌声は、一度死にかけた人間が、
血を吐きながら紡ぎ出した再生の祈りだったのだ。
(涼ちゃんは……ずっと、この隣にいたんだ。
……俺が何も知らずに笑いかけていた間も、
壊れそうな元貴さんを繋ぎ止めていたのは、あいつだったんだ)
自分が手に入れた「スペアキー」が、あまりにも薄っぺらく感じられた。
若井は、自分が元貴さんの人生において、どれほど「部外者」であるかを突きつけられ、ネットカフェの狭い椅子で、独り震えた。
その時、スマホが震えた。
【元貴:今日、早い?
涼ちゃん帰ったから、二人でご飯食べよう】
優しくて、少し寂しげな誘い。
若井は、自分がさっきまで見ていた「闇」を隠し、どんな顔をして隣のドアを開ければいいのか、わからなくなっていた。
コメント
6件
あ、そゆことね!?