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最後の15文字
3年B組の教室。
窓際の席に座る少年は、降り続ける雨を眺めながら、制服の襟元をぐいと引き下げた。中学に入ってから何回か袖を通しているはずなのに、どうにも着なれていない感じがして、首元や肩のあたりが落ち着かない。
窓の外では、細い雨が校庭を均一に濡らしていた。水たまりに落ちる雫を、ただ見ていた。
──僕は、雨が好きだ。
苗字が“[[rb:五月雨 > さみだれ]]”だからかもしれない。どこか無意識のうちに、親しみを覚えていた。
雨の日は皆が等しく平等だ。
外で遊ぶ子供たちも、下校中に寄り道する高校生も、仕事に追われる大人たちも──みんなが“室内”にいる。
室内にいれば、僕の目には映らない。映らなくて済む。見たくないものを見なくて済む世界。
そんな日は、世界そのものが、閉じていくように感じる。その感じが、僕には何より安心だった。
すると、教室の扉が音を立てて開いた。
担任の先生が入ってくる。教壇に立つと、手にしたプリントの束を掲げて言った。
「今日は、道徳の時間に作文を書いてもらいます」
作文……?
目線だけで僕は先生を見た。
「えー!」
教室の空気が少しざわつく。
その理由もずっと同じ空間にいた僕なら分かる。
──頭を使わなきゃ、だめか。
心の中で、そう思った。
もちろん、道徳は“考える”授業だ。先生もいつも言っていた。「答えのない問いに、自分なりの答えを探す時間です」と。
でも、僕にとってこの時間は、頭を休ませる“休憩”のようなものだった。
正解も不正解もなくて、教科書の朗読をただ聞いていればいいだけ。
黒板を見なくても、正しい心で答えれば、正解になる授業。だからこそ、答えるのに考えなくて済む。人の心が分かる僕には楽勝な授業だった。
しかし、皮肉かな。“答えはない”と言いながら、誰もが求めているのは、“理想的な答え”だ。
それっぽい言葉。
教科書で見たような模範的な価値観。
聞く人にとって都合のいい、傷のない正義。
つまり、道徳に「本当のこと」は、求められていない。
だから、「作文」という言葉が出た瞬間──
頭の奥で、何かがピリッと音を立てた気がした。
作文は、本当のことを書かないと、余計に難しくなるものだ。
綺麗な嘘を並べるほど、頭の中が曇っていく。見栄を張れば、言葉はうすっぺらになる。誰かの顔色をうかがえば、文章はすぐに崩れる。
思ってもいない正しさを装えば装うほど、どこに自分の本音を置けばいいのか分からなくなり、気づけば、書く前よりも苦しくなる。
だから、作文というのは、言葉を使うふりをして、自分の中の何かを切り出す行為だった。
書いているうちに、自分が何を思っているのか分かってしまう。逆に言えば、何も思っていないふりをするのが、一番むずかしい。厄介な宿題だ。
用紙の束が前から後ろへ、カサカサと音を立てて回ってくる。来るな来るなと心の中で唱えながらも作文用紙を2枚受け取った。
「──残していいのは、一行まで。できるだけ全部の行を埋めて書いてください。字数を合わせるのも、頭を使う立派な勉強です。思っている以上に、難しいですよ」
“心”を書けって言っておいて、“字数”を求めるなんてナンセンスだ。
教室中から、小さくため息がこぼれた。
「え〜……」「またぁ?」という顔をする子もいれば、机に突っ伏すように項垂れる子もいた。
雨音だけが、変わらず教室の窓を叩いていた。
僕は、まだ白紙の作文用紙を見つめたまま、次の言葉を待っていた。
問題はこの作文のお題、テーマだ。
──きっと、難しいテーマが来る。
「家族について」とか、「いじめを見たらどうするか」とか、どれも、“間違った答え”を書いたら終わりのような、致命的なテーマだ。
それはつまり──誰に見られても困らない“立派な考え”を用意できる人間しか、正解できないという高難易度な宿題。
さて──どれだけ僕が、清らかな心に変われるか。それを試す時間だと思えばいい。
そう自分に言い聞かせて、気持ちを切り替えた、そのときだった。
先生が、プリントから顔を上げる。
「では、今回のテーマですが」
教室の空気が、わずかに張りつめる。
「──『高校生になったら、やりたいこと』です」
「 」
──なんだ、それ。
一瞬で、音が消えた。
雨音も、ざわめきも、全部、遠のく。
文字だけが、頭の中に落ちてくる。
高校生になったら……やりたいこと?
まさか、そんな──
そんな“残酷なテーマ”がくるとは、思わなかった。
思考が止まり、息が詰まる。
顔から、血の気が引いていくのが自分でも分かった。
隣の席の女子が、小さく呟いた。
「……やっぱ、それかあ……」
そう言って、彼女はゆっくりと頭を抱えた。
苦笑に近い困り顔。だけどそれは、想定内の困惑。
“やっぱ”?
後ろの席からも声がした。
「だよなー」
「ほら言ったじゃん」
ざわつきは、驚きじゃなかった。
むしろ、“当たり前が出てきた”ことへの納得だった。
(……なんだよ)
みんな、最初からこのテーマが来ると知っていたのか?
もしかして、事前に知らされていた?
“高校生になったらやりたいこと”
……僕には、そんなお題、一切、これっぽっちも考えたことなかったのに。
「……困ったな」
小さく、声が漏れた。
隣の席には聞こえなかったかもしれない。でも、それくらい自然に出た言葉だった。
困った。本当に、困った。
そもそも、“やりたいこと”以前の問題だ。
僕には、自分が高校に通っている未来の姿すら、うまく想像できない。
制服を着て登校する自分。
クラスに席がある自分。
友達と並んで笑っている自分。
──その全部が思い浮かばない。
そのくせ、白い用紙は僕の目の前にある。
これに、きっちり行数を合わせて、丁寧な字で、立派な夢を書きなさいと、訴えかけてくる。
なんだ、それ。
これが、道徳? 勉強?
……“現実”よりも遠い理想のくせに、“現実的な顔”をして、迫ってくる。
白紙の用紙が、ただそこに置かれているだけなのに──まるで、僕のことをまっすぐ見つめているように思えた。
目の奥が、ふっと眩む。
チカチカする視界の中で、作文用紙の白さだけが異様に際立って見えた。
まるで、“書けないこと”が異常であるかのように。
(どうしよう……)
とにかく何かを書かないと、と思って、僕は手を動かした。
まずは、題名欄に“高校生になったらやりたいこと”と書く。
その次の行に、“3年B組 [[rb:五月雨 五輝 > さみだれ いつき]]”。
たったそれだけなのに、用紙の2行が埋まった。
──ほら、2行だ。2行も書いた。
なんだ、いけるじゃないか。思ったより、筆は動く。
一瞬だけ、ほんの少しだけ、そんな気がした。
けれど……問題は、ここからだった。
最初の一文字が、書けない。
シャープペンを持った手は止まったまま、白紙の空白がまた主張し始める。
何を書く? 何を書けばいい?
頭の中はずっと回っているのに、手元だけがずっと止まっている。
そんな時──ふと、何気なく隣を見た。
女子の手元の作文用紙は、もう数行、文字で埋まっていた。
つらつらと、迷いのない字で。斜めの筆圧が、意志の強さを語っている。
なんで、そんなに早く書けるんだよ……。
ちらりと視線を泳がせてみる。
読もうとしたわけじゃないのに、作文が自然と目に入ったのだ。
──『高校生になったら、勉強を頑張りたいです』
──『将来は看護師になりたいです』
はっきりと、迷いなく。
誰かに見せるためじゃなく、ちゃんと自分のために書かれている言葉だった。
……すごいな。
羨ましいとは、思わなかった。
悔しいとも、思わなかった。
ただ、素直に、すごいと思った。
未来に向かって、自分の言葉で歩いているようなその文字が、まぶしかった。
夢を語るって、こういうことなんだな。
何かになりたいって、こうやって綴るんだな。
そんなふうに、ちゃんと“未来”とつながっている彼女の言葉は、まるで別次元のように思えた。
やりたいことなんてないけれど……。
でも……それでも。
なにか、書かなくては。
白紙のままで終わらせたくはない。
僕は、シャープペンを少し強めに握り直し、最初の1文字目を考えた。
──高校の制服。
そうだ、それなら……少しは書けるかもしれない。
『高校の制服が似合うようになりたいです。』
「………………」
……いやいや、恥ずかしすぎるだろ、これは。
願望というより、願掛けみたいじゃないか。
夢とは呼べないし、“やりたいこと”というには、あまりにも弱い。
でも、少なくともこれは──嘘じゃなかった。
が。
(……これはダメか)
ふいに、手が動いた。
筆箱から、角がまだ綺麗な消しゴムを取り出して、遠慮もなく押し当てる。
ゴシ、ゴシ、ゴシ。
力を入れすぎたか。
紙の上にできた文字の跡が、みるみるうちに毛羽立っていく。そして、
くしゃ──
「あ……」
わずかに歪んだ音と一緒に、紙が捻れた。
綺麗だった作文用紙が、一瞬でくしゃくしゃに……。僕の心も、同じように、ぐしゃりと折れた気がする。
「はあ……」
思わず、ため息が漏れた。
それに気づいたのか、隣の[[rb:十愛 > とあ]]が小さく首を傾けて、僕の方を見た。
「大丈夫? 疲れてるの? それとも……具合、悪い?」
──ちがう。
けど、説明できることなんて、何もない。
「……だ、大丈夫だよ」
そう言って、作文用紙の上に手を置いた。なにも書けていない事実を隠すように。
十愛の視線から逃げ、顔をそっぽ向いた。
「……………」
……見られたくない。
こんな僕を。
言葉にできないことよりも、“何にもない自分を”、知られたくなかった──
十愛は一瞬だけ僕の顔を見つめていたけれど、
「そっか、なら良かった」
と小さく呟くと、また自分の作文に目を戻した。
その声には、責める響きも、追及する感じもなかった。
「………………」
ただ、過ぎ去る様に……
平然と……
そのまま……
終わってしまった……。
──結局、この日、僕は題名と名前以外は書けなかった。
用紙の真ん中には、消しゴムの痕と、薄く残った折れ目。
それが、どこか僕を責めるように、ふわりと浮き上がっていた。
(──何も書けなかった)
帰り道。
リュックの奥にしまい込んだ、たった一枚の紙の重みが、僕の肩にのしかかってくるようだった。
“無駄な時間だった”──その思いが、胸のあたりにずっと居座っている。
けれど、それは誰のせいでもなくて、ただ黙って、濡れた歩道に靴音を落とすしかなかった。
傘の骨に、雨粒がポツリ、ポツリと垂れてくる。
雨は、朝からずっと降り続いていた。
強くもないし、止みそうでもない、どうにもはっきりしない雨だった。
その時、
「五輝くん」
名前を呼ばれて、思わず立ち止まる。
振り返ると、傘を肩に寄せながら、十愛がこちらへ駆けてくるのが見えた。
教室で見たよりも少しだけ、嬉しそうな顔。明るくも、大きくもない声だったけど──まっすぐな僕を呼び止める声。
「……一緒に帰ろ」
そう言って隣に並んだ十愛の傘が、少し僕のほうに傾けられた気がした。
「……ああ」
そっぽを向いたわけじゃないけれど、ふと、視線を外した。
──断ろうと思ってたのに。
「先に帰るよ」って、そう言って、一人で帰るつもりだった。
けど、十愛の家は、ここから15分くらいだ。
(……15分。……それくらいなら、いいか)
そんなふうに思ってしまった。
歩き出してすぐ、傘の内側で、十愛がふと声を上げた。
「久しぶりの学校は……どうだった?」
問いかけは、ほんとうに何気なかった。
でも、それはきっと“気を遣わないようにしてくれた”気遣いだと、すぐに分かった。
「……楽しかったよ?」
少し考えて、素直に答えた。
それが本心だったから。
「ちょっとびっくりもしたけど」
「びっくり?」
「うん。みんな、声変わりしてて」
十愛がくすっと笑ったのが、傘越しに聞こえた。
「たしかに。男子、みんな低くなったよね」
「うん。あと……社会の先生、変わってた」
「そう。もう木下先生、じゃないんだよね」
「うん。黒板に名前書かれてなかったら、誰かわかんなかった」
十愛がまた、小さく笑った。
その声は、雨音の中にすっと溶けていく。
僕も、それに続けるように口を開いた。
「それに──」
そう言いかけて、言葉を止めた。
……いや、やめよう。
言わなくていい。別に、大したことじゃない。
「なんでもないや」
零れた声が、雨にかき消された。けれど、十愛は聞き逃してくれず、聞き返してきた。
「“それに”──なに?」
すぐには答えられなかった。
でも、黙っていることも、できなかった。
しばらく歩いてから、僕はぽつりと零した。
「……『高校生になったらやりたいこと』っていう作文が出てくるとは──想定外だった」
その言葉に、十愛はすぐに返事をしなかった。
でも、否定もしなかった。
「……作文、苦手?」
迷いながらも、話を聞こうとしてくれた一言。
「……ううん。苦手じゃない」
そう答えてから、僕は少しだけ視線を落とした。
「むしろ……得意なほうかも」
「そっか……」
また少しの沈黙。その間にも、彼女はちゃんと“次の言葉”を探していた。
考えて、迷って、それでも話そうとしてくれていた。
「じゃあ……どうして?」
「……書くことがなくて。困ってるんだ」
その瞬間、いよいよふたりの間に沈黙が落ちた。十愛が、今度こそ何を言えばいいか分からなくなっているのが、僕にも伝わってきた。
だから、その気遣いを感じ取って──今度は僕のほうから、言葉を差し出してみた。
「……ねえ、十愛は、なんて書いたの?」
──本当は知っていたけれど。
さっき、教室で彼女の作文を、ちらりと見てしまった。『看護師になりたい』──その文字が、真っ直ぐ並んでいたのを、ちゃんと覚えている。
だけど、それを彼女の口からちゃんと聞いてみたかった。
その言葉を話すときの声や、表情や、間のとり方、眩しさ、それを、見たかったんだと思う。
「看護師になりたいって、書いたよ」
十愛は、まっすぐにそう言った。
照れくさそうでもなく、気負いもせず。それは彼女が、自分の夢を“当たり前に”受け止めているからだと感じた。
「五輝くんは? 夢とか、あるの?」
僕は一瞬、言葉に詰まった。
ここで嘘をつくのは違う気がして、少しだけ口角を引き上げるようにして言った。
「夢という程の夢じゃないけど……“制服の似合う男子”になりたかった」
言った瞬間、十愛がふふっと吹き出した。
「なにそれー!」
「な、なんだよ……笑うなよ」
目を逸らしながら、少しむっとして言うと、十愛が笑いながら答えた。
「ごめん、ごめん……! でもさ──」
十愛はゆっくりと顔を上げて、ほんのり紅く染まった頬で、僕のほうを見た。
「……五輝くん、もう……十分似合ってるよ」
心臓が、一瞬だけ跳ねた気がした。
「……ば、バカ」
そう返すのが精一杯で、僕は傘の端をぐいっと傾けて、顔を隠した。
たぶん、もう顔が真っ赤になっていたと思う。
ふいに顔を隠した僕を見て、十愛はまた、ふふっと小さく笑った。
けれどそのあと──まっすぐ前を見ながら、少しだけ真面目な声で言った。
「ねえ、五輝くん」
「……なに」
「作文ってさ、希望とか、立派なこととか、書かなくていいんだよ」
僕は、横目で彼女を見た。
「やりたいことが分からないなら、“分からない”って書けばいいと思う」
「……そんなの、アリ?」
「アリだよ」
十愛の声は優しく、それでいて不思議なくらい力強かった。
「嘘のない心で書けばいいんだよ」
その言葉に、胸の奥がふっと揺れた。
嘘のない、心……?
赤裸々に書けというのか。
「でも……正直に書くのって、恥ずかしくない?」
思わず口をついて出た疑問。
十愛は、少しだけ目を細めて、歩きながらぽつりと答えた。
「うん、たしかに。……恥ずかしいよ」
そこで一度、言葉を切ったあと、彼女は僕の方をちらりと見て、ほんの少し微笑んだ。
「でもさ、自分の想いが“恥ずかしいもの”だなんて、思わなくていいんだよ」
そのまま、傘の先を前に向けながら、続ける。
「誰かに見せるためじゃなくて、自分だけが知ってる気持ちのまま、紙に残せばいいと思う」
「………………」
僕はしばらく何も言えなかったけれど、その言葉たちが、ずっと心に残るのだけは、すぐに分かった。
それから、もう少しだけ並んで歩いて──十愛の家へと続く、別れ道にたどり着いた。
「……今日は、ありがとう」
傘越しに、僕はそう言った。
自然に出てきた言葉だった。
「作文、帰ったら……書いてみるよ」
十愛はうれしそうに目を細めた。
「うん。がんばってね」
その声に、背中を押された気がした。
僕は小さくうなずいてから、反対方向に歩き出した。
──雨は、もう上がりかけていた。
◈◈◈
その夜、僕は机に向かった。
作文用紙は、相変わらずくしゃくしゃだが、そんなのは気にしない。
何を書こうか、ではなく、“本当のこと”を、どうやって言葉にしようか──そう考えていた。
初めてだった。
作文を“誰かに評価されるもの”としてではなく、“自分だけが知ってる気持ち”を書こうとしたのは。
だから、時間がかかった。
一日では終わらなかった。
次の日も、次の日も。
ノートに書いては消し、推敲しては迷い、それでも進めなかった言葉を、また少しだけ進めて……。
作文が完成するまで、7日かかった。
ようやく、最後のページまでたどり着いたとき──残ったのは、あと一行。
“あと15文字”。
あと15文字で、作文が埋まる。
なのに、その15文字がどうしても埋まらない。
書きたいことはあるのに。
伝えたいこともあるのに。
どの言葉を並べても、それは違う気がしてしまう。
どうしてこんなに難しいんだ。
たった15文字なのに。
されど15文字なのに。
その白いマスが、今度は僕を試しているように見えた。
──あの日、十愛が言っていた。
「自分だけが知ってる気持ちのまま、紙に残せばいいと思う」
分かってる。分かってるのに──心の奥にあるその“本当のひとこと”だけが、なぜか、まだ僕に届いてくれなかった。
そして──9月10日。
提出日だった。
僕は、学校に行かなかった。
作文が完成しなかったからじゃない。
提出したくないからでもない。
作文は、完成させたんだ。
提出もする気でいた。
それでも、学校に行かず、かわりに違う所へ行った。
朝、机の上に置いた作文用紙を、何度も見た。
何度も、手に取って。
何度も、読み直した。
悔しかった。
本当は、提出したかった。
クラスのみんなにじゃなくていい。
せめて、担任の先生にだけでもいい。
ただ、絶対に十愛だけには、見せたかった。
この僕が、時間をかけて、
言葉を選んで、
何度も迷って、
何度も立ち止まって、
それでも捻り出して書いた作文。
嘘じゃない気持ちで書いた作文。
逃げずに、未来を考えた作文。
──最後の作文。
提出、したかった。
でも──
たった15文字。
最後の15文字が、どうしても──
どうしても、僕には、早すぎると思った。
⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆
高校生になったらやりたいこと
3年B組 五月雨 五輝
僕が高校生になったら、高校生をやりたいです。
自分でも、変な文だと思います。やりたいことって、もっと「何か」だと思うからです。将来の夢とか、部活とか、資格とか。そういう、ちゃんと形のあるもの。でも、ぼくが思いついたのは、それじゃありませんでした。
高校生になったら、朝起きて、制服を着て、玄関で靴ひもを結んで、駅まで歩いて、教室の席に座って、チャイムを聞いて。
黒板の字をノートに写して、先生に当てられて、うまく答えられなくて、隣の人に笑われて。
昼休みにパンを食べて、体育で息が切れて、放課後に寄り道をして。
そういう、誰かに話すほどじゃない一日を、ぼくはやりたいです。
たぶん、ほとんどの人は「それは勝手に始まるものだ」と思うと思います。中学を卒業して、高校に入ったら、自動的にそうなるものだと。
でも、ぼくにとっては、自動じゃありません。
いつも少しだけ、手前で止まってしまい、目の前まで来ているのに、届かないみたいに感じることがあります。
雨の日に窓の外を見ていると、世界が薄く曇って、輪郭がぼんやりする気がします。
そのぼんやりが、ぼくは好きです。はっきり見えないと、安心するものがあります。
その「はっきり見えないもの」の中には、たぶん、ぼくがいちばん見たくないものも混ざっています。
たとえば、それは未来です。
ぼくの未来は、晴れの日みたいに遠くまで見通せる形じゃなくて、霧の向こうに沈んでいます。普通なら、先の景色が見えるほど安心するはずなのに、ぼくは逆でした。先が見えれば見えるほど、「そこまで自分がいるかどうか」を考えてしまうからです。
雨を嫌う人は多いけど、僕にとって雨は優しいんです。
ぼくが見ないふりをしたいものを、ちゃんと隠してくれるから。
あと、何日でしょうか。
ぼくが、ぼくでいられるのは。
雲の先、天に昇ったら、そこからは何が見えるのでしょうか。
世界は遠くまで見えるのだろうか。
それとも、もっと何も見えないのだろうか。
もし見えるなら、教室の窓から見えた校庭や、十愛の傘、みんなの笑い声も、ちゃんと見えたら嬉しいです。
いや、嘘です。
嘘つきました。
見たくありません。天からなんて見たくありません。ずっと目の前で、横で、傍で見ていたいです。
上からなんて、見たくない。見守りたくない。見送られたくない。
ぼくは、まだここにいたいです。
ぼくに来年があるなら、来月があるなら、明日があるのなら、ぼくはこの作文を書き直します。もっと上手に、もっと普通に、先生が困らないように。十愛が変な顔をしないように。ぼくが、ぼくの理想を語れるように。
でも、もし、ぼくに明日がなかったら。
最後の十五文字は、母に書いてくれと頼みました。
だから、お願いがあります。
明日の手術が成功しますように。
どうか、その十五文字がありませんように。
どうか、最後の行が、空白のままでありますように。ぼくが自分の手で、明日、そこを埋められますように。
明日この作文を書く人はいない。