テラーノベル
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煌様との間に結ばれた、秘密の約束。
人前では他人を装いながらも、心だけは繋がっているという確信が
冷たい嫌がらせに耐えるための唯一の防壁になっていた。
あの方が「守るための盾を用意する」と言ってくれたその言葉を信じ
私はただ、いつか来る春を待っていた。
けれど、運命はあまりにも残酷で、冬の嵐は唐突に吹き荒れた。
◆◇◆◇
その日の午後
鳳凰館には煌様を含め、馴染みの軍人様たちは一人もいなかった。
静まり返った館の玄関先に、耳慣れない
けれど心の奥底に眠る恐怖を呼び覚ますような、重く傲慢な軍靴の音が響いた。
「おい、ここに『黄金の泥棒猫』が潜んでいると聞いたぞ」
心臓が、氷を飲み込んだように冷たく固まった。
厨房から恐る恐る顔を出した私の目に飛び込んできたのは
数人の兵士を従え、漆黒の軍服を醜悪に歪ませて笑う男の姿だった。
───鷲津大佐。
かつて私の尊厳を軍刀で切り裂き、泥の中に踏みにじった、あの地獄の体現者。
「……あ、あ……」
声が出ない。
指先がガタガタと震え、持っていた盆が床に落ちて高い音を立てた。
鷲津は蛇のような目で私を捉えると、ゆっくりと、獲物を追い詰める歩調で近づいてきた。
「やはりここにいたか。相変わらず分不相応に美しい顔をしているな。だが、その短い髪……。前の職場から軍の機密を盗んで逃げ出した罪は、まだ消えていないぞ」
「そ、んな……っ、私は、何も盗んでなんて……!」
「黙れ、売女。貴様の身の潔白など、我が軍の法がどうとでも書き換えてやる」
鷲津が合図を送ると、背後に控えていた手下たちが一斉に私に飛びかかってきた。
私は必死に抵抗し、助けを求めて叫んだ。
「離して! 嫌……っ、助けて、煌様……っ!」
「ちょっとあんた!!例の男だろう!こんなとこまでやってきて雪ちゃんに何をするつもりだい?!」
異変に気づいた女将さんが血相を変えて飛び出してきたけれど
鷲津の部下たちは容赦なく彼女を突き飛ばした。権力を盾にした彼らにとって
一軒の旅籠の主人など、道端の石ころも同然なのだ。
「くっ…煌様がいれば、こんな真似……っ!」
「煌だと?あの若造が貴様を囲っているという噂は聞いている。だが、今はあいにく不在だ。……連れて行け」
猿ぐつわを噛まされ、視界を布で覆われる。
引きずられるようにして連れ去られる間際
私の脳裏に浮かんだのは、厨房の奥に隠しておいた小さな包みのことだった。
煌様が次にいらした時、内緒で渡そうと思っていた「林檎の菓子」。
あの方が一番好きだと言ってくれた、あの甘酸っぱい香りのする焼き菓子。
乱暴に引き立てられた際
私の懐から落ちたその包みは、軍靴に踏みにじられ
無惨な残骸となって鳳凰館の床に散らばった。
届けたかった想いも、守りたかった平穏も、すべてが泥にまみれていく。
遠ざかっていく鳳凰館の気配を感じながら
私は絶望の暗闇の中へ、再び引きずり戻されていった。
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#シリアス
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紫香楽