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第72話 縫季という名
縫季は、そのまま帝辛の胸の中で――
静かに、意識を手放した。
輪郭が透けている。呼吸は浅い。体は冷たい。
帝辛は縫季を抱きかかえたまま、息を呑んだ。
市場の民が、静かに見守っている。
帝辛は縫季をしっかりと抱き上げた。
「……宮へ」
静かに、しかし確かな声。
「この方を、宮へ連れていく」
民が道を開ける。
帝辛は縫季を腕に抱え、歩き出した。
縫季の体は軽い。透けかけた体には、ほとんど重さがない。
それでも、帝辛は確かに感じていた。
この者は、自分にとって――
大切な何かだと。
市場を抜け、宮への道を進む。
帝辛の腕の中で、光が静かに脈打っていた。
縫季の呼吸は浅いまま。
でも、生きている。
――笑って、いろ。
その言葉が、帝辛の胸に残っていた。
帝辛は、縫季を見下ろす。
「……必ず、目を覚ませ」
声が震える。
「名も知らぬ者を、ここで失うわけにはいかない」
風が吹く。
宮の門が見えてくる。
帝辛は、縫季を抱いたまま――
静かに、宮へと戻っていった。
◆
静けさだった。
縫季が最初に感じたのは、その静けさだった。
市場のざわめきも、世界線を渡るときの白い光も、帝辛の涙の気配さえも――何一つない。
ただ、静寂に満ちた部屋。
縫季はゆっくりと目を開いた。
天井の梁。木の匂い。静まり返った空気。
ここが宮の一室であると理解するのに、数呼吸を要した。
体は重い。指先をわずかに動かそうとしても、石を押すような抵抗がある。
胸の奥が軋む。呼吸は浅い。
(……生きて、いる……?)
驚きが、遅れて胸に落ちた。
五つの世界線を渡り、魂の端を削り、世界そのものの拒絶を受け――
それでも、まだ存在していた。
「……気がつかれたか」
低く落ちる声。
縫季は、顔を横に向けた。
帝辛が座していた。
部屋の隅、小さな卓の前。器から湯気が立ちのぼっている。数日、絶えず看病していた者の姿だった。
帝辛は縫季を見つめていた。
穏やかな目。だが、その奥にははっきりと心配が滲んでいる。
「……どれほど眠っておられたか、分かるか」
縫季は声を出そうとしたが、喉が乾き切って言葉にならなかった。
帝辛は立ち上がり、縫季のもとに歩み寄る。
碗を手にしていた。中には水が入っている。
「無理に話すな。……飲まれよ」
帝辛が縫季の頭を支えた。
その手は温かく、驚くほど丁寧だった。
縫季は碗の水を少しずつ飲んだ。痛みを伴う冷たさが喉を通り過ぎるが、生を感じる。
飲み終えると、帝辛はゆっくりと碗を置いた。
「三日だ」
縫季のまばたきが揺れる。
「そなたは三日、深い眠りについていた」
縫季は、かすれた声で答えた。
「……ご迷惑を……おかけしました」
帝辛はすぐに首を振った。
「迷惑などと思ってはおらぬ」
そして、縫季を静かに見つめる。
その目は、王としての鋭さと、一人の人間としての真摯さを併せ持っていた。
「……そなた、一体何者なのだ」
追及の声ではなかった。ただ、真剣に知ろうとする声音だった。
縫季は短く息を吸い、ゆっくり答える。
「……通りすがりの者でございます」
帝辛が少し眉を寄せる。
「通りすがり……あのような姿で市場に倒れ込んだ者が、か?」
縫季はかすかに笑みを浮かべた。
「はい。どこの地でも、私は『通りすがり』にすぎませんので」
帝辛はしばし縫季を眺め、それ以上は問わなかった。
「……名を聞いてもよいか」
「縫季と申します」
帝辛はその名をゆっくり繰り返した。
「縫季……不思議な響きだな」
縫季は何も返さなかった。
帝辛は、自ら名乗った。
「私は帝辛だ」
「存じております、陛下」
縫季がそう答えた瞬間――帝辛の目がかすかに揺れた。
「……どこで私を知った?」
縫季は一瞬、過去の世界線の帝辛の顔が脳裏に浮かび、喉元で言葉が絡んだ。
「――市場にて。民の方々がお噂しておりました。『殷の王は、人々をよく見ておられる』と」
帝辛はゆっくりと息を吐いた。
「民の声か。……ならば良い」
縫季は胸の奥に目を向ける。
光が、まだそこにある。
帝辛の魂。
五つの世界線を超え、泣き、震え、それでも離れなかった光。
(……まだ終わっていない)
縫季が呼吸を整えたとき――
コメント
1件
第72話、読ませていただきました……🥀 帝辛が縫季を抱きかかえたまま「宮へ」って言ったとき、声が震えてて……。名も知らぬ者って言いながら、もう大切なんだって伝わってきて切なかった。しかも縫季が目を覚ましたあとの会話の距離感も、すごく丁寧で繊細だなと思いました。「通りすがり」としか言えない縫季と、それ以上は問わない帝辛の間にある静かな空気が、じんときますね……。 光はまだ消えてなくて、本当に良かった。 次がまた気になります……。お疲れ様でした🌙