「じゃあ、頑張って今の乙女ゲーをコンプしないとね!」
「焦らず堪能してくださいよ?」
「それはもう全力で……」
ピンポーン。
カレー用スプーンを握り締めながら熱く語ったところで、インターホンが鳴る。
夫が私との時間を殊の外大切にしているのを知り尽くしている、御近所様方は、こんな夕食時に決して訪ねてきたりはしない。
「はぁ……またですか?」
眉根を寄せても美形なままの夫が、リモコンでテレビ画面を切り替える。
インターホンと連動させてあるので、誰が訪ねてきたかテレビで見られるようになっているのだ。
「接近禁止命令の意味が全く分かっていませんね、あの人たちは」
「家族だから、心配しているから、何をしても許されるって、ね? あの人たちの考えは、永遠に変わらないんだと思うよ。喬人《たかひと》さんも災難だ」
「まぁ、こういう言い方は好きではありませんが、それでもつい。麻莉彩の家族たちよりは、まだマシかもと思ってしまうんですよね」
「ははは。私の血縁者は猛毒だからねぇ」
私の家族内での役目はサンドバッグだった。
父に殴られ、母に罵声を浴びせられ、兄弟にセクハラをされた。
最後の一線を越えなかったのは、奇跡に近い。
早くに出会って、何くれと手を回してくれた夫のおかげだ。
「……殺しても、いいんですよ?」
「別に。喬人さんが手を汚す必要もないし」
「汚さなくても可能ですよ?」
「そんな気分になったら……そのときはお願いするから。今は、いいかな……」
正直、思い出したくもない。
虐げられるのが当たり前だと思い込まされていた日々。
未だに呪縛は完全に解けていなかった。
「急かすつもりはなかったんです……すみません」
夫の謝罪に返答する間もなく、外が騒がしくなってしまった。
「あー。騒ぎ出しちゃったね」
夫の家族。
義父、義母、義姉、義妹が扉越しに全員好き勝手なことを叫んでいる。
全部が全部私に対する誹謗中傷なのには、笑うしかなかった。
「このまま放置しても、御近所さんが警察を呼んでくれると思うんですけど……」
「そうもいかないでしょう? 喬人さんの顔を見れば、少しは落ち着くんだし。少しだけ顔を見せてあげたらいいんじゃない」
「麻莉彩は本当……人ができていますねぇ」
「私は何を言われてもかまわないもの。喬人さん以外の言葉なんて、私に何一つ影響を与えないわ」
それで、いい。
それだから、いい。
やっとの思いで手に入れた平穏なのだ。
「はぁ……気が重いですが、行ってきます。デザートはクレープシュゼットを作りますから」
「本当? 嬉しい! 待ってるね。あ! 一応録画もしておくね」
「不愉快な思いをさせてしまいますから、見ている必要はないんですよ? それこそゲームの続きでもしていては?」
「いえいえ。私を徹底的に庇ってくれる夫の勇姿を見たいのですよ?」
「っ! 本当に……天然とは恐ろしいですね」
ぎゅうっと抱き締められながら、髪の毛を撫でられる。
眠りに落ちてしまいそうな心地良さだ。
「では、行ってまいります」
「頑張ってきてくださいませ」
頬を撫でる手の甲へ唇を寄せる。
全幅の信頼は夫の揺らぎをなくすだろう。
完璧超人な自慢の息子、兄、弟が、一回りも年下の女に執着しているのが許せないのはよく分かる。
分かるが、譲る気は微塵もない。
『これなら、お前も気に入るだろう!』
義父が差し出すのはお見合いの釣書の束。
結婚の挨拶に行ったときには、こんな子供に、子供が孕めるとは思えん! と怒鳴られました。
『身元のしっかりしたお嬢様ばかりよ!』
義母のお勧めらしいのですが、写真の女性はかなり重度の身障者にしか見えません。
女性陣の押しで決まった義実家での食事会には、全て異物が入っていました。
虫の唐揚げ山盛りとか、よく作ったなぁ、とその根性には感心すらしましたね。
『大丈夫! 結婚式や新婚旅行のお金は、お姉ちゃんが出してあげるからね!』
義姉が突きつけた通帳に記載された数字は、三万五千円。
どんな式で旅行になるのかと!
買い物帰りを拉致られて、複数の男性に襲いかかられそうになりました。
当時恋人でもあった、夫の言う通り冷静に対応したら、彼らの矛先は義姉に向けられました。
『お兄ちゃん、見て! ほら! そんな女より私のおっぱいの方が大きいよ! ね? いいでしょ!』
コートの中は全裸とか、痴女すぎる義妹です。
胸の形が奇妙なのは、豊乳手術に失敗したのかもしれません。
目にするのも耳にするのも悍ましい噂を流されたのですが。
それが全部義妹自身のことだったらしく……家族以外の知り合いが一人もいなくなったようです。
私は夫の勇姿を堪能すべく、ゆったりしたキルトのファブリックが掛けられた革のソファに腰深く座り直した。
専門職人の手による繊細な刺繍は肌に優しく、荒んだ気持ちを宥めてくれる。
「警察を呼んだから帰ってください。帰りの交通費はありますか?」
理解ある縁戚が遠方に隔離してくれているので、都心に出てくるのはかなり難しいはずでした。
私たちへの慰謝料でそれこそ、無賃乗車を疑うレベルの金欠状態なので余計です。
『お前も一緒じゃないと帰らないぞ!』
『そうよ! いえ。あの女を追い出して、この家で家族揃って仲良く暮らしましょう?』
『料理の腕前が上がったのよ!』
『夜の御奉仕は、私があんな子供《ガキ》より上手にするから!』
近親相姦願望を持つのは自由ですが、実行していいのは二次の世界だけだと思います。
「あ……来たみたいですね。縁戚の方にも連絡を入れていますから、きちんとお詫びをして、今まで以上に尽くしてください」
接近禁止を破る度に、罰則と罰金が科せられるように手配がすんでいます。
豪農の縁戚は徹底した等価交換意識の持ち主なので、働けば働くほど、認めてくれる方です。
心の底から反省すれば、一般的な家族の交流を持つ援助すらしてくれるでしょう。
夫もお世話になった手前、それを拒否できません。
が。
その、真逆を行く義家族たちに取っては地獄のような生活でしかないようです。
『俺たちを見捨てるのかぁあああ!』
義父の絶叫が夜の住宅地に響き渡ります。
明日は周辺宅へお詫びに伺った方が良さそうです。
「毎回お手数おかけして申し訳ありません」
迅速に駆けつけてくれた警察官は、夫の後輩でした。
今も精神病院から出てこられない元彼女から長い期間ストーカーされた経験があるので、義実家への腹立ちは人一倍強く、毎回きっちりと縁戚の迎えが来るまで確保してくれます。
「お気になさらず。恋人は選べますが、両親や姉妹は選べませんからねぇ」
好青年以外の何者でもない笑顔も、義家族へ向けられるのは年若さを感じさせない、堂々たる警官の、厳しい表情です。
パトカーの中へ全員が押し込められ、後輩と窓から顔を覗かせていたらしい御近所の方へ軽い会釈をした夫は、扉を閉めると厳重に施錠をし直した。
「お疲れ様でした」
玄関先で心から労わりの言葉をかければ、夫が私の体を抱き締める。
「カレー少し冷めちゃいましたから、温めますか?」
「いいえ。大丈夫です。代わりに、コーヒーを淹れてもらえます?」
「ええ、勿論」
私は夫をソファに座らせると、夫自らブレンドしたお気に入りのコーヒーを濃いめに淹れる。
時間があるときはミルで引くところから始めるが、急ぐときはドリップ式を採用した。
夫はたっぷり入ったコーヒーの、豊かな香りを嗅いでから、一口口に含む。
目端に残っていた緊張と嫌悪がやわらかくほぐれた。
「……昔から気持ち悪かったですけれど、最近は度を超していますねぇ」
深々とした溜め息が零れる。
「正直に言っていいなら、妹さんが特にドン引きだわ」
「……もう少し丁寧口調でお願いします」
「そう? こっちの方がいいかなぁと思ったんだけど」
「迷うところなんですけどね。コーヒーを飲み終えて、食事を再開した頃合いでお願いしたいです」
「わかりました」
自分用に淹れた少なめのカフェオレには、砂糖が少量入っていた。
微かな甘味も脳が痺れるようだ。
見ているだけだった私も、随分と緊張を強いられていたらしい。
「本当にお互い家族には恵まれませんでしたからね……喬人さんとの子供なら欲しい気もしますけれど。どうにも踏み切れなくてすみません」
「それは私も同じです。貴女に似た子なら溺愛しそうですし、自分に似た子なら接し方を迷います。万が一アレらに似ていた日には、気持ち悪いアレらと同類になって虐待しかねません」
虐待にもいろいろある。
私の場合は分かりやすいものだったが、夫に向けられた執着《モノ》は虐待とは判断されにくい。
夫本人の意思が揺るがなかったのと、縁戚の理解が功をそうしたのだ。
度を超した過干渉は虐待なのだと、もっと広く認知されてほしい。
夫のように苦労する人は少ない方がいいはずだ。
今でこそ自由にしている夫だが、幼い頃は自分が壊れそうになったことも少なくなかったという。
私が夫にふさわしくない人間だから、と離れようとしたときにいろいろと話してくれた。
「まぁ、麻莉彩はまだ若いですからね。ゆっくりといきましょう」
「ええ。そうしましょう」
兄弟に性的な悪戯をされていたせいで、どうにも性行為というものに抵抗がある。
夫はどこまでも優しく、心地良い時間と安堵を与えてくれるので、何時かは綺麗に払拭されそうだが、今はまだ難しかった。