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____ jnt ____
生ぬるい空気と、安い洗剤が混ざったような独特の匂い。
そこら中に誰かの体液が染み付いているような、この狭い部屋。
俺の意識はそんな安っぽいラブホテルの天井を見つめながら、ゆっくりと浮上してきた。
やっべ…落ちたか…
横では、さっきまで俺を「可愛い」だの「いくらでも払ってやる」だの甘い言葉で汚していた男が獣みたいな寝息を立てて眠っている。
名前も知らない。
顔だって暗がりの中で見ただけだから、明日どこかですれ違っても気づかない自信がある。
それでいい。
それがいいんだ。
俺たちは金と体っていう、一番シンプルで一番汚い記号で繋がっているだけなんだから。
のろのろと身体を起こすと、腰のあたりに重い鈍痛が走った。
……あぁ、またか。
この痛みは俺が今日もしぶとく生きている証拠で、同時に俺がどれだけ底辺に這いつくばっているかを教えてくれる唯一の感覚だ。
「あ〜あ…死んだら終われんのになぁ…」
口から零れた言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。
心なんてとっくに空っぽで、中身なんて何もないのに言葉だけはこうやって出てくる。
死にたいわけじゃない。
ただ、終わらせたいだけ。
この毎日毎日、誰かに自分を切り売りして、嘘の笑顔を振りまいて、なんとか命を繋いでいるこの「作業」を、全部なかったことにしたいだけだ。
男が目を覚まし、ゴソゴソとサイドテーブルを探った。
カチッ、という無機質なライターの音。
すぐに俺が一番嫌いな匂いが鼻を突いた。
「…ん。お前も吸うだろ」
男が、自分の唇に挟んでいたタバコを無造作に俺の口元に押し付けてきた。
くっそ…最悪。
煙草嫌いなんだけど…
俺は一瞬だけ躊躇して、でもすぐにいつもの「聞き分けの良いガキ」の顔を作ってそれを受け取った。
ゆっくりと肺に流し込む。
にっが…
喉が焼けるような嫌な感覚。
肺の奥がドロドロに汚れていくのが分かる。
タバコなんて大嫌いなんだ。
煙たいし、服に匂いがつくし、何よりこの「不健康を気取っている感じ」が今の自分を鏡で見せられているようで吐き気がする。
でも俺はそれを吐き出さずに、美味しそうに目を細めてみせる。
だってこの男は「一緒にタバコを吹かしてくれる、ちょっと背伸びしたガキ」が欲しくて金を払ってるんだから。
取り繕うこと。
嘘をつくこと。
それが俺の今の全人生だ。
「ガキにはまだ早かったか?変な顔してんぞ(笑)」
「そんなことないよ。ありがとう煙草」
男が下品に笑いながら、俺の頭を乱暴に撫でる。
そう。
こういうのが好きなんだろ?
お前ら大人は。
しばらくして、男は満足したように財布から万札を数枚、シーツの上に放り投げた。
ラッキー、前より増えてる。
俺はその紙切れをまるで宝物でも扱うかのような手つきで拾い集める。
実際宝物だ。
これがなきゃ、俺は明日食べるものも、汚いアパートの家賃も払えない。
「じゃあな。また連絡するわ。次はもう少し、激しくしてもいい?」
「…うん。楽しみにしてるね」
何が「次は激しくしてもいい」だよ。
二度と会いたくねーよ。
男が部屋を出ていく足音を確認してから、俺はベランダに出た。
深夜の街は、遠くで走る車の音とネオンの光だけで構成されている。
男が忘れていったタバコの箱から、もう一本、新しいのを取り出した。
自分で火をつける。
やっぱ苦ぇわ…
さっきよりずっと苦い気がした。
俺は何をしてるんだろうな、ってたまに思う。
昼間は、学校で「優しい吉田くん」なんて呼ばれて、ヘラヘラ笑って、先生のお手伝いなんかして。
クラスの女子が俺を見て「吉田くんって本当に良い人だよね」なんて言ってるのを聞くと、胃の裏側がギュッと捩れる。
良い人?
俺が?
この男に抱かれて小銭を稼いで、嫌いなタバコを吸って、身体中を痣だらけにしてる俺が?
もし、あいつらが今の俺を見たら、どんな顔をするんだろう。
悲鳴を上げるかな。
それとも、汚いものを見るような目で俺を見るのかな。
みんな俺から離れてくんだろーな(笑)
まぁ所詮そんなもんよ
想像するだけで、少しだけ楽しくなる。
俺の中にあるこの「穢れ」を、全部あいつらの綺麗な世界にぶちまけてやりたい衝動に駆られる。
でも、そんな勇気もない。
俺はただの臆病者で、空っぽの器だ。
親なんて、物心ついた時からいないも同然だった。
母親はいつも男を追いかけて家を空けて、たまに帰ってきたと思えば、知らない男を連れてきて俺を邪魔者扱いした。
「親も親なら子も子だ」
いつか、誰かに言われた言葉が耳の奥でリフレインする。
本当にその通りだと思う。
俺も結局、愛だの何だの言っておきながら、結局は肌を重ねて金をもらうことしかできない、あの母親と同じ生き物なんだ。
タバコの灰が、風に吹かれて夜の闇に消えていった。
俺の存在もあんな風に消えてしまえばいいのに。
ふと、視界の端に何かが映ったような気がした。
下の通り。
街灯の下に誰か立っている?
目を凝らしてみたけれど、そこには誰もいなかった。
ただ古びた街灯がジジッ、と音を立てて明滅しているだけ。
…気のせいか…
疲れてんのかな…早く帰るか…
こんな時間に、俺を見ている奴なんているはずがない。
俺は吸い殻を携帯灰皿に押し付けた。
口の中は相変わらず苦いまま。
シャワーを浴びて、この男の匂いを消さなきゃ。
明日にはまた、みんなが期待している「優しい吉田くん」にならなきゃいけないんだから。
アパートへ帰る夜道、俺はわざと足音を立てずに歩く。
自分がこの世界に存在していないような気がして、少しだけ心が軽くなるから。
でも、カバンの中でカサリと鳴る万札の音が、残酷に俺を引き戻す。
「お前は、まだ生きてるんだよ。汚れたままで」
そう嘲笑われている気がして、俺は強く目を閉じた。
死んだら終わる。
分かってる。
でも、まだその時は来ない。
俺は明日も、嘘を吐いて、笑って、誰のものでもない煙を吐き出しながら、生きていくしかないんだ。
家に着き、服を脱ぎ散らかして浴室へ向かう。
鏡の前に立った俺の首筋には、新しいキスマークが真っ赤に咲いていた。
「優しい吉田くん」には、絶対に似合わない、毒々しい赤。
俺はそれを指で強く擦った。
あんだけ付けんなっつったのに…最悪
どうすんだよこれ。
あぁ、本当に。
俺ってどうしようもなく穢れてるな。
そう呟いた俺の顔は、泣いているのか笑っているのか、自分でも分からなかった。
to be continued…
コメント
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文才の塊すぎます、、大好きです、、
初コメ失礼します(T T) どタイプすぎました、白さんが書くストーリー大好きです。 続き楽しみにしてます😭♡