テラーノベル
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その晩——山本武文は酔っていた。
武文は四十代半ばのサラリーマンだ。
職場では上司から無能と罵られている上に、若い風俗嬢に入れ込んでいるのが家族にバレて、妻と中学生の娘からは生ゴミを見るような目で見られている。
武文の憂さを晴らしてくれるのは、もはやアルコールだけであった。
バスを降り、団地への道をふらつきながら歩く。
辺りはすっかり暗くなっていた。
途中、誰かとぶつかった。
そいつはか細い声で、
「頼む……金を……コーヒー代をくれぇぇ……」
と懇願してきた。
近くには街灯もなく、その姿は真っ黒でよく見えない。
「五月蝿え!コーヒー代くらいてめえで稼げ!」
武文は喚きながら、鞄を振り回して黒い影を追い払った。
ぶつぶつと呟きながら前方に目をやると、少し離れたところに、ぽつんと自販機が佇んでいるのが見えた。
外観は黒一色で、メーカーのロゴなども一切描かれていない。
こんなところに自販機なんかあったか?
怪訝に思いながら正面に立つと、自販機が話しかけてきた。
「こんばんは、よい夜ですね」
朗らかな女性の声だった。
「けっ——何が〝よい夜〟だよ、馬鹿野郎が」
悪態をつきながら、武文はじろりと自販機を睨んだ。
「何だあ?知らねえ飲み物ばっかだなあ」
「随分と酔っているようですね。そんな時にはこの——」
「酔ってねえよ馬鹿野郎!誰に向かって口聞いてんだこの野郎!」
商品の紹介を遮り、武文は自販機を怒鳴りつけた。
「俺は酒が飲みてえんだよ!」
「それでは——『うつろよい』などは如何です?」
「うつろ……何だって?」
「『うつろよい』。キャッチコピーは『虚ろな瞳で移ろう世界を』。アルコール分は含まれていませんが、飲むと強い酩酊感を味わえます」
「ああん?——ああ、これか——」
白い缶に、柔らかな字体で文字が表記してある。
「これでしたら、健康にも害はありませんよ」
チッと舌打ちし、武文は小銭を投入した。
「何だか知らねえけど、それでいいよもう」
ぶつくさ言いながら、ボタンを押す。
ガコン、と缶が取り出し口に落ちる音。
武文は缶を取り出し、プルタブを引いた。
そのまま一気に、喉の奥へ流し込む。
「——何だこりゃあ?」
その液体は、とても奇妙な味だった。
口の中には確かに何らかの味が広がるのだが、それがどんな味かは説明ができない。
まるで舌が感じ取った味を、脳が認識するのを拒否しているかのようだった。
「気持ちわりぃな、くそ——」
武文は、まだ半分ほど中身が残っている缶を、地面へと投げ捨てた。
極彩色の液体が、アスファルトに広がっていく。
「ポイ捨てはいけません。ちゃんとゴミ箱——」
「指図すんな!このポンコツが!」
吐き捨てるように言い放ち、武文は自販機を蹴り飛ばした。
「……」
押し黙った自販機に背を向け、その場を去ろうとした武文だったが——
チャリン。
——釣銭の音に、足が止まった。
自販機に近寄り、受取口に人差し指を突っ込んで中を掻き回す。
「あれ?ねえな……」
と、その時だった。
武文の指に、激痛が走った。
「ぎゃあああっ!?」
見れば、受取口の上下には歯茎が剥きだしになった歯がびっしりと並んでおり、武文の右手の人差し指を食いちぎっていた。
「ひ、ひいいっ——」
情けない声をあげながら、武文は身を翻した。
団地へ続く道を必死に走る。
だが——ぐにゃりと視界が歪み。
気が付けば、武文は全く知らない場所に立っていた。
そこは、十九世紀のヨーロッパの街並みによく似ていた。
曇天の下、道行く人達は皆、目玉が一つしかない。
馬車を引く馬でさえ一つ目だ。
「◾️◾️◾️!」「◾️◾️◾️◾️!?」「◾️◾️◾️ッ!」
人々が口々に、武文を見て叫んだ。
ある者は怯えて逃げだし、ある者は子供の目を覆い隠し、ある者は憤怒の形相で武文に石を投げた。
尻餅をついて後ずさる武文の視界が、再びぐにゃりと歪む——
そこは、果てしなく続く広大な砂漠だった。
どこからか、不協和音を奏でる不快な音楽が鳴り響いている。
砂漠の至るところで、色とりどりの衣装を纏ったバレリーナ達が、片足立ちでくるくると旋回していた。
全員、目も鼻も口もないのっぺらぼうだ。
よく見れば彼女達は皆、地面から数センチ程浮き上がっていた。
震える武文の視界が、三度歪む——
そこは、廃ビルが立ち並ぶ荒廃した都市の一角だった。
まるで血の様に真っ赤な空を、骨だけの巨大な魚が泳いでいる。
すぐ近くに居たサビ猫が、小首を傾げ、可愛らしい女の子の声で武文に話しかけた。
「あらら。おじさん、体をどこかに置いてきちゃいましたか?あわてんぼうですねえ」
猫の言う通り、よく見れば武文の体は、まるで幽霊のように透き通っていた。
頭を抱えて絶叫する武文の視界が、またもやぐにゃりと——……
「——で、指を噛み切っちまった、と」
赤毛の猿はそう言って、矯正器具のびっしり付いた歯を見せつけるようにして笑った。
そうなんですよ、と自販機が溜息をつく。
夜道に人気はなく、その場に居るのは猿と自販機の二人——いや、一匹と一台だけだった。
「私もついカッとなってしまいまして」
「やっちまったもんはしょうがねえさ。しかし、『うつろよい』はお気に召さなかったかぁ」
『うつろよい』——それは一口ごとに、異界のイメージが脳裏によぎる飲み物だ。
しかし飲み慣れていないと、暫くの間、意識が完全に異界へと持っていかれてしまう。
危険だが一部の好事家には人気があり、猿の手にも購入したばかりの『うつろよい』が握られていた。
「ま、確かにこの世界の生き物にゃあ馴染みのない味かもなあ。俺は好きなんだがねえ」
「いつも遠いところから、ありがとうございます」
「いいって、いいって。こいつはもう、この自販機くらいでしか扱ってねえからな。で——そのオッサンはどうなったんだ?」
「飲んだ直後に走ったせいで、酔いが回ってしまったようで。すぐに倒れてしまいました」
「はあん。それで?」
「このまま帰すと後々で面倒なことになりそうだったので、業者に回収してもらいました」
なら安心だ——そう言って、猿は缶にチビリと口をつけた。
「ん?——受け取り口に、まだ指が残ってるぜ」
「ああ、片付けてもらうのを忘れていました。よろしければどうぞ」
「おっ、いいのかい?へへっ——こいつは最高のツマミだぜ」
猿は嬉しそうに笑うと、つまみ上げた人差し指を口に放り込み、バリボリと噛み砕いた。
リユ
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#ダークファンタジー
阿炎快空
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阿炎快空
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コメント
1件
阿炎快空さん、第3話拝読しました。冒頭から武文さんのどうしようもない人生に息が詰まりそうでしたが、あの自販機が話しかけてきた瞬間、背筋がぞわっとしましたね……「うつろよい」を飲んでからの異界描写がサイケデリックで不気味で、でもなぜか目が離せない。ラストの猿と自販機のやりとりで、あの世界のルールが少し見えた気がして、続きがすごく気になります。不条理ホラー、めちゃくちゃツボです。