紺色の男物の大きな傘を差し出したのは玉井真一だった。いつもの郵便局員ではない黒いシャツにジーンズの彼は大人びて別人のように見えた。
「真昼さん!良かった!間に合った!」
「玉井さん、もう来ないかと思っていました。」
「着替えに手間取ってしまってごめんなさい」
「え、いいえ」
「行き違いになるかと思った。焦りました。どうぞ、乗って下さい」
「あ、は、はい」
玉井真一は左の八重歯を覗かせて微笑みながら助手席のドアを開けた。その自然な動きに真昼は戸惑う事なく車内へと乗り込んでいた。
バタン
(・・・・・あ、この香り)
運転席に乗り込んできた玉井真一からはやはりウッディな匂いがした。薄暗い車内、メーターパネルの明かりに浮かび上がる眼鏡には雨粒が付いていた。いつもと違う雰囲気の玉井真一の横顔に真昼の胸はときめいた。
「真昼さん」
「はい」
「あの」
玉井真一の声は少し震え緊張が車内に走った。
「は、はいなんでしょうか?」
「少しドライブしませんか」
「あ、はい」
「《《おうちのかたは》》大丈夫ですか?」
(おうち?)
「はい、大丈夫です」
「僕、真昼さんと行きたい場所があるんです」
「何処ですか?」
「僕の通っていた高等学校の駐車場です、夜景が綺麗なんです」
駐車場と夜景、車の中に二人きりそれは鈍感な真昼でも分かる場面。
「はい、お任せします」
「じゃあ行きますね」
玉井真一はシフトレバーをドライブに落とすとアクセルペダルを踏んだ。
幹線道路のアスファルトを叩くタイヤ、車のエンジン音、ただそれだけが響く車内で真昼は玉井真一の熱を感じた。右肩が火照る、パンプスの中に汗が滲んだ。
「真昼さん」
フロントガラスを真っ直ぐに見つめる玉井真一が真昼の名前を呼び、思わず体が跳ね上がり声が上擦った。
「は、はいっ!」
「緊張していますね」
「はい」
「僕も緊張しています」
白いLEDライトの街灯が時速60kmで後ろへと流れてゆく。雨は激しく、ワイパーは忙しなく左右に振れた。
「女性に失礼な質問なのですが、真昼さんは何歳ですか」
「あ、さ、32歳です」
「僕の4歳年上なんですね」
「えええええええええ!」
真昼の驚いた声に玉井真一は思わず助手席を見た。
「ど、どうしたんですか」
「いえ。私、玉井さんの事を20歳前後だとばかり」
「20歳!」
「というより、高校を卒業して就職したばかりの方なのかと思っていました」
玉井真一はぶっと吹き出して呆れた。
「じゃあ、真昼さんは未成年をナンパしたんですか」
「な、ナンパ!ナンパって」
「僕的にはクッキーを頂いた時点でそうだと思いました」
「そ、そうなんですか」
「真昼さん、自覚なかったんですね」
「・・・・・はい」
ウインカーがカチカチと点滅して車は左に曲がるとやや急勾配の坂道を登り始めた。
「この坂、高校時代は毎日が地獄でした」
「確かにこの坂での通学は大変ですね」
「でも春の桜と夜景は綺麗ですよ」
住宅街の傾斜の屋根の向こうに雨に滲む夜景が広がった。
「晴れていたらもっと綺麗です」
「今度、連れて来て下さい」
「今度」
「はい」
車は駐車場で大きく向きを変えると一番端の白線の中に停まった。
「エンジン、止めて良いですか」
「あ、はい」
ボンネットとルーフを打ち付ける雨音が真昼と玉井真一を包み込んだ。ドクドクと指先が脈打ち、言葉を探したがなかなか見つからなかった。
「ーーーーーあ!」
その時、真昼はトートバッグに入れたままのクッキーの事を思い出した。今回の生地は淡い桜色、ストロベリーキャンディを流し込んだステンドグラスクッキーに挑戦してみた。なかなかの出来栄えだと思う。
「どうしました?」
「あ、クッキー焼いて来たんです」
真昼が手渡した小箱を受け取った玉井真一はそのリボンを静かに解いた。中には透明なビニール袋にハート型のクッキーが入っていた。
「ハート型だ」
「はい、ハート型です」
「ハート型」
「はい」
ひとつ摘んでルームランプに透かすと赤いハートが浮かんで見えた。
「あぁ、綺麗ですね」
「ステンドグラスクッキーって言うんです」
「真昼さんが作ったんですか」
「はい」
「《《良い奥さんですね》》」
そこで真昼は玉井真一の声に刺々しいものを感じた。
(ーーーー?)
玉井真一はクッキーを小箱に仕舞うとおもむろに車のエンジンスタートボタンを押した。
「《《おうちのかた》》が心配されますから、帰りましょう」
「は、はい?」
「シートベルトをして下さい」
「はい」
その後、玉井真一は口数が少なくなり会社の近くで「じゃあ、また郵便局で」と紺色の雨傘を貸してくれた。
(なんだろう、怒ってた?)
真昼は肩に差した男物の傘を少し重く感じた。