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ニャーと鳴く黒猫の喉元を撫でているちぎり君の姿を見ながら、俺はその先にある、使われていない校舎……この間ゆず君と身体を重ねてしまったあの校舎を見つめた。
こんな所まで来て、何を話すのだろう、なんて俺は想像もつかなくて、まわりに人がいないことだけを確認し、ちぎり君が立ち上がるのを待った。
「月曜日、掲示板……」
「……っ」
「あそこに貼られている写真、よく撮れているでしょ?」
「い、いきなりどうしたの」
ちぎり君が立ち上がれば、猫は名残惜しそうに、彼の足下にそのふわふわの身体をすりつけて、ゴロゴロと鳴いていた。逃がさないというように、そしてまた、一種の求愛行動のように、長く伸びた尻尾をちぎり君の足に絡める。そんなこと、ちぎり君は気にする様子はなく、首からさげていた一眼レフカメラを大事そうに撫でた。命の次に大事なものとでもいわんばかりにそれを撫でるので、俺は、そのカメラが悪用されている、なんて思いたくもなかった。俺の勘違いであって欲しいし、そんなことする子じゃないって、そういいたかった。
(月曜日、掲示板……写真……)
月曜日に掲示板に貼られる、人の堕ちた顔。
快楽でも、狂気でも、憤怒、嫉妬……人間が普段抑えている感情が前面に出た表情が納められた写真のことをいっているのは間違いなかった。だから、堕ちた顔。理性を手放して、欲だけに従順になってしまった顔。一枚じゃない。その表情をありとあらゆる角度から撮られた写真がいくつも掲示板に貼られている。貼られた人が、どんな心理状態に陥ったかは、考えるもたやすい。
これまで、何人もの被害者を出してきたあの掲示板、写真のことを、ちぎり君は持ち出して、何処か嬉しそうに笑っていた。
「人の堕ちた顔。あれこそが、本来の顔なんですよ。本来の人間の顔。理性から解き放たれた、最高で最悪の表情。人間って良いですよね」
「ごめん、いっている意味が分からないし、俺をここに連れてきた理由が分からない」
「学園祭の日、何してました?」
と、鋭く飛んでくる質問。
俺の言葉なんて無視して、ちぎり君は表情を変えずに言う。彼はいつも笑顔だった。いつ如何なる時も、面白そうに笑っている。新しい玩具を発見した子供のように、無邪気で。その無邪気さが、あまりにも恐ろしくて、狂気を孕んでいるようで見るに堪えなかった。見たら、呪われてしまいそうで怖かった。
俺は、どうにか誤魔化そうと嘘を考えたが、思いつくもの全部何処か矛盾点が発生してしまう。これでは、誤魔化せないと。
「ええっと、トイレ……お腹痛くなっちゃって」
「紡先輩『お願い』です。教えて下さい」
「……っ」
『お願い』なんて、呪いの言葉を吐いて、ちぎり君は、堪えていた笑いを決壊させる。
「俺はあの日――」
「良いですよ。分かってます、分かってます。全部分かった上でいってるんです。本当に、それ呪いの言葉なんですね。いやあ、まあ、どうでもけど」
「ちぎ……り君?」
「祈夜柚と恋人関係。それも、結構マニアックなプレイするんですね。以外です。ああ、でもBLカフェで働いてるんでしたっけ、なら、別にどんなプレイでもいけますよね」
そういうと、ちぎり君はポケットから大量の写真をばらまき、アハハハと高らかに笑う。笑いが堪えきれない、と息が切れるくらいに笑って、腹を抱える。足下にいた黒猫は驚いて何処かへと消えてしまった。
「……これ」
全部バレてる。いっていることは全部正しい。
そして、地面に散らばった写真は、あの日、あの校舎で俺達が身体を重ねたときの写真。どうやって撮ったのか、綺麗に撮れすぎている写真を見て絶句した。俺の快楽に堕ちた顔、そして、愛おしそうに、それでいて本能に従って俺を抱くゆず君の表情がそこに納められていた。
「何で……こんなこと、あの掲示板……も」
「これ、芸能界に売ったら言い値で買われそうですね。どうします?」
「何が、したい……そんなことしたら、ゆず君が!」
ゆず君を芸能界から引きずりおろしたい? そのために、こんなことを?
多分、目的は俺じゃない。俺をとっても面白くない、見たいな顔をしていたから。けれど、今回は、「その顔、いいですね」何て、俺を撮るちぎり君。もう、狂っているとしかいいようがなかった。
「何で、こんな状況で撮れるの……写真なんか」
「趣味なんで。ああ、今の顔良かったですよ。いつも、優しくてお人好しで、バカで間抜けな先輩だったから。『お願い』が断れ無いことも、知ってましたけど、ちゃんと怒りの感情あったんですね」
「巫山戯るな」
「巫山戯てないですよ。誉めてますって。その表情が、凄くいい。たまらない。けど、その感情って一瞬なんですよね」
と、いうと、スンとちぎり君は顔から感情を落とした。まるで、興味が失せたといわんばかりに。
理解できなかった。俺が見てきた瑞姫契という男のことが、今ので一瞬にして分からなくなったのだ。元から理解なんてしていない、そして、元から理解できる人間じゃなかったと。
俺みたいな凡人では、ちぎり君を理解しきれない。
「理解、なんてしなくていいですよ。誰にも理解は求めていません」
「俺の……頭の中、詠めるの?」
「いえ。そんなことさすがに出来ませんよ。まあ、出来る人もいますけどね……レオ君の恋人とか。まあ、それは良いんですけど、人って癖があるんですよ。それを見てれば、何となく。紡先輩は分かりやすい部類でしたから……利用しやすかった」
「……ゆず君が狙いなのか」
「簡単に言うとそうですね。紡先輩は、ただの餌です。演技ばかりで、自分があるのかないのか分からない、僕と同じ空っぽな人間。祈夜柚の感情を引き出したかったんですよね。そしたら、僕の撮りたいものが撮れると思った」
ありがとうございます、なんてちぎり君は俺に感謝の言葉を述べる。
感謝されるようなことはしていない。こっちは被害を被っている。可愛い後輩だって思ってきたのに、こんな裏の顔があったなんて……
(いや、きっとこれが、表なんだろうな……裏というか、こっちが本物)
いつもは、押し殺して、それこそ演技をしているのかも知れない。人畜無害をアピールして、人に取り入るために。
何て子だ、と、俺は拳を握る。何も出来ない。俺は、黙っていることしか出来なかった。何かすれば、この間撮られた写真をばらまかれる可能性があったから。そこまで、非道になれるのか、分からないけれど。
「僕も十分、先輩の話に乗ってあげたと思うので、ここら辺で良いでしょ。ありがとうございます、先輩。もう、先輩は用済みなので」
「待って、ちぎり君!」
背を向けだして歩き出すちぎり君を、俺はその場で呼び止めることしか出来なかった。
絶望の二文字が見える。
信じてきたものを全て打ち砕かれた感。そして、もう戻らないんだなっていう寂しさ。あれだけ酷いことをされてもまだ後輩だって思ってしまう。そんな、俺の感情を察してか、気づいてか、ちぎり君は振返った。本当に興味の失せた顔で、消えろといわんばかりに。
「その優しさがクソ気持ち悪かったんですよ。優しいだけが取り柄の凡人はつまらないので消えて下さい。僕は、梓弓くんみたいに、優しくないので、いいますけど、先輩の後輩だって思ったこと、一度もないんで♡ というか、滅茶苦茶迷惑でした。先輩面しないで下さい。へったクソな演技して自分に酔って。ほんと無様な凡人って感じでした」
「……」
ああ、完全に打ち砕かれた。
俺の中にあった、先輩意識も、優しさも、俺のアイデンティティも、コンプレックスも。
朝音紡っていう人間全てが否定された気がして、俺はちぎり君を追おうという気にはなれず、その場に崩れ落ちた。