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――数日後
ベッドの上。
胸の脇から伸びている管。
胸腔ドレーン。
透明な袋は、もうほとんど動いていない。
飛彩が静かに言う。
「排液は落ち着いた。抜く」
永夢はわずかに頷く。
「……いきますよ」
息を止める。
次の瞬間。
管が引き抜かれる。
胸の奥を引っ張られるような感覚。
「っ……」
声にならない息。
鈍い痛みが肋骨の内側を走る。
一瞬。
すぐにガーゼが押し当てられる。
「圧迫。出血なし」
永夢は小さく息を吐く。
胸の奥が、まだひりつく。
それでも、ゆっくり目を開けて。
「……良くなって、きてますよね」
声は弱い。
けれど、確かめるように。
飛彩は一瞬だけモニターを見る。
規則正しい波形。
「順調だ」
永夢は、ほっと息を吐く。
リハビリ室。
大きな窓から光が入る。
永夢は車椅子に座っている。
酸素チューブは外れたが、胸元にはまだ固定具。
呼吸は浅いが安定している。
「今日は立位保持を試す」
飛彩の声は淡々としている。
「無理なら即中止だ」
永夢が小さく頷く。
「……やります」
声はまだ細い。
飛彩が車椅子の前に立つ。
「立つぞ」
腕を差し出す。
永夢がその腕を掴む。
以前より力はある。
それでも、弱い。
「せーの」
体重がかかる。
膝が震える。
「……っ」
胸が引きつる。
呼吸が速まる。
ひゅ、っ
ひゅ……っ
「呼吸を乱すな」
飛彩が背中に手を回す。
がっちり支える。
「俺に預けろ」
永夢の足が床に着く。
立てた。
でも不安定。
脚が震えている。
「……た、って……ます……」
「まだ半分だ」
飛彩の手は離れない。
「膝を固定しろ。力を逃がすな」
永夢が歯を食いしばる。
数秒。
長い。
胸が痛む。
「……っ……は……」
「吸うな、吐け」
低い声。
呼吸のリズムを合わせる。
少しずつ、震えが収まる。
その時。
「おー、頑張ってんじゃん」
軽い声。
振り向くと、貴利矢が壁にもたれている。
「見舞い来たら立ち上がってるとか、サービス精神旺盛だなエム」
貴利矢。
永夢の視線がそちらへ向く。
一瞬、表情が緩む。
「……きりや、さん……」
力が抜ける。
ぐらり。
膝が崩れる。
「――っ」
飛彩が即座に引き寄せる。
胸がぶつかるほど近い。
「前を見るな。集中を切らすな」
永夢の呼吸が乱れる。
ひゅ、っ
ひゅ……っ
「……ご、ごめ……」
「謝るな」
背中を支える手が強まる。
「立位保持中に意識を逸らすな」
貴利矢が一瞬、固まる。
「……悪い」
飛彩が睨む。
「なぜ今来る」
「いや見舞いだろ普通」
「タイミングが悪い」
「大先生、自分エスパーじゃねぇんだけど?」
ピリついた空気。
その間にも永夢の脚は震えている。
限界だ。
飛彩が低く言う。
「座るぞ」
ゆっくりと体を戻す。
車椅子に腰が落ちる。
永夢が小さく息を吐く。
「……はぁ……」
疲労が顔に出る。
でも、目は少しだけ明るい。
飛彩が水を差し出す。
「今日はここまでだ」
「……もう少し」
「欲張るな」
即答。
指先が飛彩の白衣を掴む。
「……まだ、できます……」
「無理だ。今のは明らかに集中が切れた」
「でも……っ」
震える膝。
それでも離さない。
「……もっと……やらせてください……」
飛彩の眉がわずかに動く。
「欲張るなと言ったはずだ」
「欲張りじゃ……ないです……」
息が浅い。
それでも目は逸らさない。
「……戻りたいんです。早く……」
静かな数秒。
貴利矢が壁際で小さく息を吐く。
何も言わない。
永夢が続ける。
「……立てるって、分かったなら……もう少しだけ……」
飛彩の支える腕に、ほんのわずかに力が入る。
「……3分だ」
永夢が顔を上げる。
「あと3分。それで今日は終わりだ」
「……はい……!」
「その代わり、指示に従え。視線は正面。呼吸は吐くことを優先。崩れたら即中止」
「……わかりました」
「返事は一度でいい」
でも声は低く柔らかい。
永夢が深く息を吐く。
ふぅ……
今度は乱れない。
飛彩が静かに言う。
「……せーの」
再び体重がかかる。
震えはある。
だが、さっきより強い。
貴利矢が小さく呟く。
「……無茶すんなよ、エム」
永夢は視線を前に固定したまま、答える。
「……してません……」
3分。
長い3分。
でも、確実に前より長く立っている。
飛彩が時計を見る。
「……時間だ」
ゆっくり、慎重に座らせる。
永夢が荒い呼吸のまま笑う。
「……3分……立てました……」
「2分58秒だ」
「細かい……」
「医者だ」
貴利矢が吹き出す。
「はいはい、今日のMVPはエムでいいな」
永夢はぐったりと背もたれに預ける。
疲労は濃い。
でも目は、確実に前を向いている。
飛彩が水を渡す。
「今日は終わりだ」
永夢が水を飲む。
喉が鳴る。
貴利矢が軽く手を振る。
「じゃ、自分は自販機でも行ってくるわ。大先生、説教は優しめにな」
「余計なことを言うな」
「はいはい」
貴利矢が少し離れる。
リハビリ室が静かになる。
飛彩はしばらく黙ったまま、永夢の呼吸を確認している。
安定している。
それを確認してから、低く言う。
「……無理をさせた」
永夢が顔を上げる。
「え?」
視線が逸れる。
珍しく。
「……俺の判断が遅れた。結果、お前はここまで消耗した」
静かな声。
「俺のせいで、こんな苦しい思いをさせた。……悪い」
空気が止まる。
永夢が数秒、きょとんとする。
それから、ふっと笑う。
「なに言ってるんですか」
声はまだ細いけど、明るい。
「飛彩さんがいたから、生きてるんですよ」
「……」
「苦しいのは、リハビリだからです」
小さく肩をすくめる。
「ゲームで言ったら、今は難易度ハードモードってだけです」
飛彩の眉がわずかに寄る。
「例えが軽い」
「重くしたらクリアできませんから」
にこっと笑う。
「僕、自分で選んで立ってます」
まっすぐな目。
「飛彩さんのせいじゃないです」
その時。
「ほらな」
壁際から声。
貴利矢が戻ってきている。
「エムはそういうやつだろ?」
片手に缶コーヒー。
「誰のせいとかじゃなくて、“次どうするか”しか考えてねぇ」
永夢がちょっと照れる。
「そんなかっこよくないです」
「いや十分だろ」
貴利矢が飛彩を見る。
「大先生が一番分かってるはずだ」
一瞬の沈黙。
飛彩は小さく息を吐く。
「……分かっている」
視線は永夢へ。
「だからこそ、無茶はさせない」
永夢が苦笑する。
「さっき3分くれたの誰ですか」
「……3分だ」
「はいはい」
貴利矢が肩をすくめる。
「めんどくせぇけど最強コンビだな、お前ら」
窓から入る光が少し傾く。
苦しさも後悔もある。
でもそれ以上に、
前に進む意志がある。
永夢が小さく言う。
「明日も、やりますよ」
飛彩が即答する。
「当然だ」
貴利矢が笑う。
「はいはい、明日も立ち会いますよー」
リハビリ室の空気は、もう重くない。
まだ弱い。
でも、折れていない。