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「……ああ、聞き覚えのある声なのに、すぐにわからなかったわけがわかりましたよ」
と叫ぶ中原を見ながら、のどかは呟いた。
今日の中原は口調が違うのだ。
「どうしたんですか、中原さん。
いつも距離感が大切だ、とか言って、後輩にも、さん付けで、丁寧な言葉遣いなのに」
「それは学生から社会人になるとき、気を引き締めようと思って、習慣づけただけだ。
俺のもともとの言葉遣いじゃないっ。
っていうか、夜道を歩いてたはずなのに、いきなり大量の猫の餌の上に放り投げられて、距離感を大切に、とか言ってられるかーっ」
ごもっともですよ……と思うのどかの前で、中原は、
「何故、此処に、どうしてっ?
何故、此処にっ、どうしてっ?
何故っ、此処にっ……」
と周囲を見回しながら、叫び続ける。
「……綾太にこの九官鳥を迎えに来てもらおう」
とのどかはスマホを手にしたが、ぶちりと切られる。
「呼ぶな」
と横で貴弘が言った。
何故ですか、と貴弘を見ると、
「余計、話がややこしくなりそうだからだ。
この九官鳥にはもう帰ってもらえ」
と言ってくる。
でも……とのどかは中原を見た。
「私、この人に納得してもらって帰っていただく自信がありません」
中原はこう見えて、綾太には忠誠を誓っている。
だからこそ、のどかを邪魔だと思っていたようなのだ。
綾太がくれば、おとなしく帰るはずだと思って言ったのだが、貴弘は、
「いや、呼ぶな。
俺の妻がこんな愉快な女だと知られたくない」
と言い出す。
「妻なのかっ」
と中原が叫んだ。
……どのみち、この人に知られてしまったではないですか、と思っていると、
「此処に住まわせてることもなにか言われそうだ」
とあばら屋敷を見回しながら、貴弘は言う。
「住まわせてるのかっ、此処にっ!?」
といちいち繰り返す中原に、
「やかましいです、中原さん」
とのどかは強気に言った。
相手はエリート社長秘書様ではあるが、もう辞める会社のなので関係ない。
多少、理性が戻ってきたらしい中原は、先程の貴弘のようにあばら屋敷を見回しながら、眉をひそめて、貴弘に訊く。
「成瀬社長、何故、こんなところに胡桃沢を?
愛人を囲うにしてもひどい。
いや……愛人と違って、妻は簡単に逃げ出さないから、別にいいのか」
どんなロクでなしですか、中原さん……。
「妻でも扱いが悪ければ、逃げますよ……」
とのどかが言ったとき、
「お隣ー」
と声がした。
勝手にガラガラと玄関のガラス戸を開ける音がする。
「呪いの靴を返しに来たぞー」
と八神が言うのが聞こえてきた。
「八神さん、上がってきてくださいー」
とのどかが言うと、すぐにドカドカと足音がして、八神が現れる。
スーツ姿だが、相変わらず、ダラッとした着こなしで。
こんなにラフにスーツを着こなせるものなのかという感じだ。
風子は、
「ワイルド系のイケメンでいいじゃんーっ」
と言っていたが……。
「おっ、また新たなイケメンが降ってきたのか。
いっそ、雑草カフェはやめて、ホストクラブにしろよ」
と中原を見下ろし、八神が言い出す。
その言い回しに、ん? という顔をした貴弘が訊いてくる。
「もしかして、他にも降ってきたのか?」
「そうなんですよ。
あれからも時折、イケメンが投げ込まれてましてね。
見て見ぬフリをしようかと一度は扉を閉めてみたんですが。
洗濯機のように」
と言って、
「……洗濯機のように?」
と貴弘に訊き返される。
「いや、この間、どうした加減か、洗濯機から水があふれ出してたんですよ。
で、どうしようかな~と思って、一旦、見ないフリをして、外に出たんです」
何故だ……という顔を貴弘はしていた。
いやいや、ただの現実逃避ですよ。
そんなとき、貴方にもあるでしょう?
……ありますよね?
と窺うように貴弘の顔を見ながらのどかは思う。
この、酔った弾みにできた妻の存在をそのままにしていることも同じことだと思うのだが。
「で、ちょっとして帰ってきたら、水、消えてたんですよ。
だから、戻ってきたら、イケメン様も消えてないかなと思って」
「待て。
なんで水が消えてたんだ」
「ワックスもかかってない古い板張りだからだよ」
と八神が言う。
「隙間から落ちたり、木に染み込んだりして消えるんだ」
「お前もか……」
二人して床を腐らせるなっ、と大家、貴弘は言った。
そこで、のどかは、
「つまり、此処で殺人事件が起きても血が染み込んでわからなくなるってことですかね?」
と呟いて、
「わかるだろ」
「わかるぞ」
と貴弘と八神に畳みかけるように言われる。
「でもそう。
それで気になってたんですよね」
とのどかは中原の足を見た。
「八神さんが今、呪いの靴を持ってきましたけど。
此処に現れるイケメンさんたちは、何故か靴履いてないんですよ」
あっ、と中原が声を上げる。
外を歩いていたはずなのに、靴下だけになっているおのれの足を見た。
「学生時代、イタリアで買ってきた靴がっ。
一生大事にしようと思ってたのにっ」
叫ぶ中原に、
「靴なんて、履きつぶしてナンボだろ」
とまったく価値観の違う八神が口を挟んでいる。
「俺は刑事になったとき、先輩に、
『刑事ってのは、靴を履きつぶしてナンボだ』
と言われて。
あれから必ず、一足を履き潰すまで履いて。
ああ、俺、これだけ履き潰してきたんだから、刑事として少しはステップアップしてるんだろうなと自信が持てるようになったんだ、
という映画を前、見たんで。
あれから一足ごとに履き潰そうと思ってるんだ」
「……待ってください。
それ、何処までが映画の話で、何処からが現実なんですか」
靴はいつから履き潰そうと一足を履き始めたんですか、とのどかが訊くと、
「お前が越してくる一週間前くらいからかな?
そのくらい前に映画見に行ったから。
まあ、ともかく、借りてた呪いの靴は返したぞ。
やっと新しいの買いに行けたから」
と八神は言う。
「なんだ、呪いの靴って」
と言う貴弘に、のどかは言った。
「いや、此処の玄関の隅に最初からあった男物の靴ですよ」
「履くと呪われるのか?」
何処も呪われてないようだが、と貴弘は、日に焼けた頑健な身体付きの八神を見て言う。
いえいえ、とのどかは手を振り、言った。
「雰囲気で。
この家にあると、なんでも、呪いの、とつけたくなるじゃないですか。
呪いのトイレとか」
「呪いのトイレは怖いな」
と中原が呟く。
「呪いのテレビとか」
「なんか出てきそうだな」
と言う中原に、
「いや、単に映らないんです」
と言って、
「……捨ててこい」
と言われた。
「あと、呪いのちゃぶ台とか」
「なんでも呪わせるな」
と貴弘が言う。
のどかは台所の方を振り返りながら、
「ああ、あと、呪いの冷蔵庫がありますよ」
と言う。
「呪いの冷蔵庫?」
と三人が訊き返してきた。
「冷蔵庫は自分のじゃないのか」
とこの家のことをなにも知らない大家、貴弘が言う。
「いや、あれ、最初から此処にあったんですよ」
「やたらデッカイ奴だよな?」
「そうなんですよ。
アメリカ製らしくて、大きいんですよ。
……あれだけ、ピカピカで新しいんです。
なんで置いてったんでしょうね、あれ」
「っていうか、此処の住人、結構昔に居なくなってるみたいだぞ。
なんで、ピカピカの冷蔵庫があるんだ」
誰が置いたんだ、と貴弘が言う。
「それは呪われてるかもな」
と中原が呟き、
「死体が入ってそうだな」
と職業柄か八神が呟いた。
「今は入ってなかったですよ」
と言って、
「過去、入ってたかもしれんだろ」
処分するまで、と八神に言われたが、
「でもまあ……、とりあえず、私は見てないんで。
知らなければオッケーですかね?」
とのどかは言う。
「アバウトだな」
隣人の名前も覚えない、死ぬほどアバウトな八神さんに言われてしまいましたよ……。
「ともかく、俺の靴は何処に行ったんだっ」
と中原がまた話を戻す。
「さっさとその訳のわからん呪いを解いて、俺の靴をとってこいっ」
と犬に言うようにのどかに言う。
横暴な人が増えたな……と思ったとき、中原は沈黙していた泰親を見て言う。
「さっき、カフェがどうとか言っていたが、此処はコスプレ喫茶にするのか」
そういえば、この人には呪いがかかったから、泰親さんが見えるんだったな……。
「なんだ、その半端な猫耳はっ」
もっと大きくしろ、と中原はケチをつけてくる。
貴方は、どちらのマニアの方ですか……とのどかが思っている間に、中原は、
「そうだ。
こんなところで、お前らと遊んでいる暇はない」
と取引先の社長、貴弘までぶった切って立ち上がり、
「呪いの靴を貸してくれ」
と言って、八神が持ってきた呪いの靴を履いて帰っていった。
「あ、綾太に言わないよう、口止めするの忘れてました……」
と闇夜に消えていくその後ろ姿を見送るのどかが呟くと、貴弘が、
「呪いの猫耳とか、会社で言わないだろ、あの男」
自分が莫迦にされそうだから、と言う。
「そうですね。
猫耳に関しては、自分の趣味がバレそうですしね……」
もしや、夏と年末に忙しい類の人だろうか、と思いながら、クールな社長秘書――
いや、のどかの中では、もう何処もクールでないんだが、を見送った。