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第3話 香る部屋
夕方、二色の扉の前に新しい影があった。
エプロン姿の男が、静かに包丁を拭いている。
黒髪を後ろでひとつに結び、腕には小さな火傷の跡。
灰色のTシャツの上に深いモカ色のエプロン。
整った横顔はどこか寂しげで、目尻に小さな笑い皺があった。
「隣に越してきた、御影(みかげ)って言います」
その声は低く落ち着いていて、
まるで香辛料のように、あとからじんわりと温かさが残る。
夜になると、廊下にいい匂いが広がった。
ローリエ、煮込んだトマト、焼けたパンの香り。
日野澪は、ふとした拍子にその香りに吸い寄せられるように、
扉の前で立ち止まっていた。
「よかったら、どうぞ」
御影が扉を開けると、
中には小さなテーブルに二人分の皿が並んでいた。
湯気がゆらぎ、ハーブの香りが満ちている。
「誰かと食べると、味が変わるんです」
御影はスプーンを差し出した。
指先が触れた瞬間、澪の胸が小さく鳴った。
その仕草も、少し笑って目をそらす癖も、
なぜだか懐かしかった。
——まるで、あの大きなインコみたいだ。
あの日、澪は確かに見た。
人間ほどの背丈の黄緑のインコが、
自分の名前を呼んだ。
「澪、笑って」
そして消えた。
夢だったと思っていた。
けれど、御影がスープをかき混ぜる腕の動きが、
なぜかその記憶を呼び覚ます。
「……その歌、聞いたことある」
御影が小さく鼻歌を口ずさんでいた。
それはピオがよく歌っていた旋律だった。
澪は思わずつぶやく。
「ピオの歌だ……」
御影の手が止まる。
「ピオ? あの黄緑の……インコ?」
「え……知ってるの?」
「昔、飼ってた。すごく賢い鳥だったよ」
彼の笑顔が、少しだけ翅のように柔らかく見えた。
澪は息を呑む。
香りが甘くなり、部屋の温度が上がった気がした。
夜更け、廊下にまた料理の匂いが流れる。
澪がそっと覗くと、
御影はテーブルの向かいに空席を作り、
湯気の向こうに何かへ話しかけていた。
「……きみの歌は、よく響くよ」
その声は、深い恋しさを含んでいた。
彼が誰に向けて話しているのか、澪は知っている気がした。
そして、自分の胸にも小さな痛みが広がる。
翌朝、二色の扉の紫は薄くなっていた。
澪は扉に手を触れた。
指先に、香草と火の匂いが残る。
彼のぬくもりと、あのインコの羽の温度が、
同じように重なって感じられた。
——本当は夢だったのかもしれない。
でも、確かにあの大きなインコに会った。
人間の姿をした“ピオ”は、
今日もきっと、どこかで誰かに歌っている。