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「え? 来週はここには来れないんですか、それは寂しいな」
コーヒーを運ぶ手を止めて、奥野君はちょっとガッカリしたような顔でそんなことを言う。本当にそう思っているのかは分からないけれど、私に会えるのを楽しみにしてくれているのは正直嬉しい。
……あの日から仕事が休みの土日のどちらかは、こうしてこの喫茶店に足を運ぶようになった。
「ええ、夫から取引先のホームパーティーへの同伴を頼まれたの。せっかくだからこの機会に恩を売っておこうと思って」
「ははは、なんか昔の雫先輩に戻ってきた感じですね。再会した時は別人みたいな雰囲気だったのに」
冗談のつもりだったのだけど、どうやら奥野君のツボに入ったらしく彼は楽しそうに笑ってる。その笑顔を見ていると、何故だか私もほっこりと癒された気持ちになって。
夫の岳紘さんの前でも表面上の笑顔は作れるようになった、でもそれはやはりただの作り物でしかなない。そう考えると、今の方がずっと自然に笑えている。
「どうしてかな、奥野君の前では飾らない心で笑えるのに。夫の前ではそんな風に出来ないの」
「それはそうでしょう。楽しくも嬉しくもないのに、どうしたら自然に笑えると思ったんですか?」
奥野君の言葉は的確で、何も間違っていない。確かに私はそこに喜びも可笑しさも欠片も感じてはいない。それなのに夫の前では笑顔でなければいけないと思っていたから……
「本当に無理ばっかしてるんですね、雫先輩はアイツの前で」
「そういうつもりは無いの、だけどそれが当たり前になってるところもあって」
愛されたい、特別な相手になりたい。そんな気持ちでずっと夫を支え尽くしてきたけれど、それも今となっては正しかったのか分からなくなっている。
それでも長い間、岳紘さんの機嫌を窺ってきた自分自身を変えることも出来なくて。今もまだどこか遠慮がちな夫婦生活を続けている。
「でも、俺もそうなんですよね。奥さんに対しては今もどこか他人行儀で、彼女の中には踏み込めない。多分、これから先も……」
「奥野君……」
私たちはお互いに夫婦の関係を変えたいのに、怖くてその勇気が出ない。壊れてしまうくらいなら、ヒビが入った状態でそっとしておこうとしてしまって。
だけど小さかったその傷は、時間と共にどんどん広がっていっている気がする。私も奥野君も、その事には気付いているのにまだ動けないでいる。
「……怖い、よね。自分には感情がある、なのに相手が何を考えてどんな未来を見ているのかが分からない。本当に、怖いよ」
「そうですね、俺も雫先輩と同じです。怖くて、前に進めない」
やっぱり私たちは異性というより同士な気がする、同じ悩みを持ち互いの傷を舐め合うようなそんな関係。
岳紘さんに対しての後ろめたさはあったものの、奥野君の存在に私は今とても救われている。誰かが自分を必要としてくれることで、こんなにも前向きになれるなんて。
そんなことを考えていると、スマホを操作していた奥野君が何かを思い出したように顔を上げた。
「俺も次の週末は用事があるんでした。確か、奥さんが一日空けておいてくれって」
「そうなの? じゃあ仕方ないわね、お互いに来れそうにないもの」
そうは言ったものの、私は少しだけ胸にもやっとしたものを覚えた。奥野君の中で奥さんが優先された瞬間、私も同じことをしているにも関わらず何だが不満のようなものを感じたのだ。
まさか、そんなはずはない。私はちゃんとこれが慰め合いだと割り切っているはずだから。
「雫先輩、どうしました?」
「ううん、何でもないの。それにしても奥さんからの誘いなんて奥野君も本当は嬉しいんじゃない?」
そんな私の言葉に彼は複雑そうな表情を浮かべただけだった。嬉しくもありそれでいて苦しいのかもしれない、奥さんの考えが読めなくて。
「雫先輩は妬いてはくれないんですね、俺は結構嫉妬してるのに」
「馬鹿なこと言わないで。それよりも……」
奥野君の言葉に喜びを感じながらもそれは表情に出さず、そのまま話題を変えてその日は彼との時間を過ごしたのだった。