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「あんたって、グズだと思ってたら実はすごく怖い女だったのね。おみそれしたわ」
田中さんは露骨に憎々しげな口ぶりでわたしを見降ろすと、エレベーターに押し込んで一階を押した。
突然の異動で総務部を去ったわたし。
総務部の人にしてみれば営業部への転属は栄転と言ってよかった。
特に移動願いを出していた田中さんにとっては面白くないことこの上ないはずだ。
「こんない朝早く…めずらしいですね」
「ええ。あんたの秘密を暴いてやろうと思ってね」
「…」
「気になってたのよ。一体どんな手を使えばあんたみたいなグズが営業事務のしかも遊佐課長のサポート業務なんてできるのか、ってね。なるほどね、こういうことだったのね。怖い子」
「ち、ちがいます、わたしたちはそんな関係じゃ」
「じゃあどんな関係って言うのよ!?」
だん!とエレベーターの壁が叩かれた。ぐらりと揺れて、どうしようもない不安でわたしの心も揺れる。
「まったく…どうしてあんたなんかが…。おかげであたしはいい笑い者よ。どうして、あんたみたいななにもできないグズが…」
ひさしぶりにきかされた田中さんの中傷は、わたしの癒えかけていた胸に鈍い痛みをよみがえらせ、そして、怒りをにじみださせた。
どうしてこの人はいつもわたしをないがしろにするの…?
わたしのなにがいけないの?
グズだけど、ドジだけど、そんな自分を変えたくて足掻いている、あなたと同じ普通の人間だよ?
ちがいがあるとするなら、わたしはわたしなりにがんばっている、ってところだよ。
わたしが営業事務に行けたのは、わたしががんばって勝ち取った結果だよ。
この人がなにかがんばっていたというの?
現状にいらつくだけで、ひがんで、八つ当たりしかしないで、なにも変わろうとしてなかったくせに。
こんな人に、わたしのことをとやかく言われたくない。
課長との幸せな日々を、邪魔されたくない。
「田中さんに、そんなこと言われたくない」
「は?」
「あなただけには、否定されたくない!」
絞り出すつもりで言った声は、意外なほど大きくて。
狭いエレベーター内に響き渡った。
「…あなたはそうやって人を非難することしか自分を保てないんですか?可哀相な人。ちっぽけな人。あなたみたいな人は、絶対に幸せになんかなれない。今の状況は、全部自分から招いたことだって、早く気づいたらどうですか!?」
ぱん!
頬が熱くなった。
ぶたれた―――?
ぱん!!
気づけばぶち返していた。
手の平に感じた熱い痛みで気づく。
わたし、田中さんをぶっちゃった…?
わたしが、こんなことできるなんて…。
田中さんも信じられないという表情をしていたけれど、我に返ってヒステリックにわめいた。
「よくもやったわね…!!ずいぶん生意気になったもんね。けど!あんた、本当にあの遊佐課長に必要とされていると思ってるの?」
「は…?」
「あんたみたいな平凡な女を、どうして課長が必要とするわけ?はいはいはいってなんでも言うこと聞くから都合がいいだけに決まってるじゃない」
一矢報いた、と確信したのだろう。田中さんはさらにその傷を抉りにかかった。
「なによその顔。ふふ、あんたまさか勘違いしてたんじゃないの?『課長はわたしのこと好きなんだ』って。あははは、イタい子!』
田中さんはことさらやかましく笑った。
「あーやだぁ恥ずかしい!勘違いも甚だしいわね。イタいイターいおバカちゃんに言いこと教えてあげる。
最近、あの亜依子に婚約の噂が出てるのよ。知ってた?」
亜依子さんが…?
「社長令嬢のお相手となれば、もちろん、社を任せられる人でなくちゃあね。誰かしらね、うちは敏腕が一杯いるから…ああでも、我が社は今後ソフトウェア開発を主軸にやっていくつもりだから…やっぱりその分野のホープが相手じゃなきゃね。…となれば、思いつくのはひとりしかいないわよね」
遊佐課長。
なにしろ社長が社の一角にまで住まわせて確保したかった人財だ。
亜依子さん結婚すれば、切っても切れない存在となる…。
それに、鍋パーティの時の亜依子さんの様子…。
遊佐課長に対して、上司以上の想いを抱いているような態度がにじみ出ていた。
遊佐課長と亜依子さんの結婚。
有り得ないことじゃない…。
「わかった?そういうことよ。
あんたなんて、しょせんはただの遊び相手。それ以外のなにものでもないし、それ以上になんて絶対になれっこない。せいぜい恥をかかない内に身を引いたらどう?」
「……」
さすがに、もう返す言葉が浮かんでこない。
わたしに致命傷を与えたと確信したのか、田中さんは上機嫌でとっくに着いていたエレベーターから出た。
「さて、今日も仕事しますか。しがない一般職員は一生懸命働いて合コンでも行ってそれ相応の相手を見つけるのが一番よねぇ。どこかの勘違い田舎娘みたいにはなりたくないもの。ふふふ」
そして、軽快にヒールを鳴らして去っていった。
なによ、亜海。
なにをショック受けてるのよ。
わかっていたこと。わかっていたことじゃない。
でも、身体が動かなかった。
なんだ…わたし…。
やっぱり浮かれてたんじゃない…。
課長と両思いだ、って…。
開いたエレベーターが閉まり、個室に閉じ込められる。
暗く重苦しい失望の空虚感に押し潰されそうになって、わたしはその場にしゃがみこむしかなかった。
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