テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第四十三話:目覚めの朝、零れ落ちる黄金
窓の外では、隠り世の清浄な朝空が広がっていた。
竹林を抜ける風の音、遠くで鳴く霊鳥の声。昨夜の地獄のような戦いが嘘のように、朧月館の朝は穏やかな光に包まれていた。
僕はゆっくりと、重い瞼を持ち上げた。隣には、僕を救うために命を削り、その美しい漆黒の髪を白銀へと変えた一花が眠っている。彼女の細い指が、僕の手を壊れ物を扱うように、けれど決して離さないという強い意志を込めて握りしめていた。
(……生きて、帰ってこれたんだな)
僕は安堵のため息をつき、一花の髪を一房、指先で撫でようとした。
だが、その瞬間に起きた異変に、僕の思考は凍りついた。
感覚が、ない。
自分の腕を動かそうとしているのに、そこに重さを感じない。それどころか、視界に入った自分の右手が、朝陽に透けていた。
「……え……?」
僕は自分の右手に視線を落とし、言葉を失った。
指先から、掌から、手首にかけて――僕の体の輪郭が、まるで古びた砂時計が壊れたようにパラパラと剥がれ落ち、それは眩い「黄金の光の破片」となって、空気の中に溶けるように消えていっていた。
「……っ、うそだろ……。一花、一花ッ!!」
慌てて左手で右腕を掴もうとするが、左手もまた、触れた瞬間に光の粒となって霧散していく。
女郎蜘蛛の呪いは、金角を浄化しただけでは終わっていなかったのだ。搾精ぜんまいによって限界を超えて霊力を引き出され、無理やり「存在の根源」を拡張された僕の器は、一花の浄化を以てしても修復しきれぬほどに、その構造を維持する力を失っていた。
「……あ、……あぁ……っ」
恐怖が背筋を駆け抜ける。破片となって消えていくたび、僕の中から「自分」という実感が削り取られていく。朧月館で過ごした記憶が、女王たちと交わした言葉が、体温が、朝の光の中に無慈悲に霧散していく。
「……ん……。……主、様……?」
僕の震える声に気づいたのか、一花がゆっくりと瞼を持ち上げた。
白銀に変わった彼女の長い髪が、枕元に美しく、けれどどこか儚く広がる。彼女は僕の顔を見て、愛おしそうに微笑もうとした。だが、僕の右腕が半分消えかかり、黄金の霧となっているのを見た瞬間、その表情は絶望に染まった。
「……主様……? その、お体……。……嫌、嫌です……っ! どうして……!?」
「一花……ごめん。なんだか、体が……止まらないんだ。自分が、消えていくのがわかる……」
一花が震える手で、実体を失いつつある僕の肩を抱き寄せた。だが、彼女の指は僕の体をすり抜け、そこからまた新たな黄金の破片がキラキラと空中に舞い上がる。
「嫌ッ!! 行かないで! せっかく、せっかく助け出したのに! 私の髪が白くなっても、魂を半分差し出しても、私はあなたを守ると誓ったのに!」
一花が叫ぶ。その悲痛な叫びを聞きつけ、廊下で控えていた玉藻たちが部屋に雪崩れ込んできた。
「主! いったい何事……ッ!? ……馬鹿な、存在消失じゃと!?」
玉藻が扇を落とし、目を見開く。カノンが即座にデバイスを展開し、僕の周囲に解析フィールドを張るが、画面に表示されるのは「存在定義:消失」という、この世で最も冷酷なエラーメッセージだけだった。
「旦那様のアドレスが……世界から切り離されてる……っ!? 霊力の枯渇じゃない、隠り世の『理』そのものが、旦那様を異物として排斥し始めてるんだけど!」
「そんな……そんなの、嫌にゃ! 旦那様、消えちゃダメにゃ! お凛、いい子にするから……置いていかないでにゃあぁッ!!」
お凛が泣き叫びながら僕に縋り付こうとするが、彼女の小さな腕は、もはや光の塊と化した僕の体を掴むことができない。
僕は、みんなの顔を一人ずつ見つめた。玉藻、カノン、お凛、瑞稀、紅羽……。みんなの必死な、泣きそうな顔が、少しずつ遠くなっていく。視界が強烈な黄金の光に包まれ、思考が、自分が誰であるかという認識さえも、心地よい眠りの中に溶けていく。
「……みんな……ありがとう。……ごめん……な……」
僕の喉から出た最後の言葉さえも、実体を持たない光の粒となって天井へと昇っていった。
胸から上が、消える。
視界の端で、一花が僕の消えゆく胸元に必死に顔を埋め、その白銀の髪を僕の光と混ぜ合わせているのが見えた。
「……逃がしません……。……主様、たとえあなたが世界の果てに消えても……私は、絶対に、あなたを連れ戻します……っ!」
一花の絶叫が、遠く、遠くへ消えていく。
僕は、自分を世界に繋ぎ止めるための「実体」という楔を完全に失い、黄金の霧へと還り、この世界から消失した。
朝陽だけが虚しく照らす寝室には、一花の泣き声と、かつてそこに僕がいた証である、数粒の黄金の輝きが残されているだけだった。