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鷹槻れん/鷹槻うなの

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#極道
鷹槻れん/鷹槻うなの

19,895
#白い結婚
夕凪ゆな
373
うめぼっち

1,598
「正市さんに、豆を見せてやれ」
源さんは、土曜の昼にそう言って、今朝の豆大福を三つ、ことはに持たせた。父の木箱から出した三つだった。ことはは紙袋を抱えて電車に乗り、二駅の間、父に何をどう言うかを考えた。考えても、言える形にならなかった。
病院の廊下は、消毒の匂いがした。
「借金は」
父は、ベッドの上で手を揉みながら聞いた。餡を練るときの手の癖が、病室でも出る。
「返した」
「……どうやって」
土曜の午後。病院の窓から、隣の建物の壁が見えている。ことはは椅子に座って、膝の上の紙袋を握った。父が食べられるかどうかは、看護師に聞いてからだ。
「結婚したの。氷川百貨店の、専務の人と」
父は手を止めた。
「氷川」
「氷川遼さん。三十二歳。お見合いのような、ものだったの。向こうが店のことを知っていて、借金も、全部」
言いながら、ことはは自分の語尾が消えていくのを聞いていた。嘘をついているときの声だった。契約だと言えば、父は手術のあとの体で起き上がろうとする。言わないと決めて来た。
「いつだ」
「先週の月曜」
「おれに、何も言わずに」
「言ったら、お父さん、反対したでしょう」
父は何も言わなかった。言わないまま、また手を揉み始めた。
「店は」
「店はうちの店のまま。源さんも、パートの子も、そのまま。氷川さんが、約束してくれた」
「氷川さんが」
「……うん」
「おれは、その人の顔を知らん」
ことはは紙袋を握り直した。顔は、いつでも見せられる。見せたあとで父がどう思うかは、分からない。あの人は笑わない。頭も下げない。父は、商売人の礼を見る人だ。
「どこに住んでる」
「坂の上の、古い家。おじい様が建てた家だって」
「飯は」
「出る。家政婦さんが」
「向こうは、食べてるのか」
ことはは、迷った。
「……食べない。朝も、夜も、ほとんど」
「変な男だな」
父はそれだけ言って、手を揉んだ。変な男。ことはは、その言い方が少し気に入った。
「催事に、出ることになった。本店の。冬の銘菓めぐり」
父が顔を上げた。
「候補から外れたって手紙が来たのよ、火曜に。でも、看板にするって決まった。柊屋の豆大福を」
「……誰が決めた」
「氷川さんが。会議で」
父は長いあいだ黙っていた。ことはは父の顔を見ていた。喜んでいるのか、怒っているのか、どちらでもないのか。
「氷川の金で入ったんじゃないのか」
「違う。味で決めたって、言ってた」
父は、小さく息を吐いた。
「そうか」
それだけ言って、ことはの持ってきた紙袋に目をやった。
「一つ、出せ」
「看護師さんに聞いてから」
「聞いてから、一つ出せ」
ことはは、少し笑った。病室で笑ったのは、三か月で初めてだった。
◇
看護師に聞くために廊下に出た。
廊下の先、病室の戸口の前に、黒いコートの背中があった。
背が高い。ことはは足を止めた。
背中は、父の病室の戸口で、深く頭を下げていた。背筋をまっすぐにして、腰から折って、しばらくそのまま動かない。廊下を通る看護師が、一度見て、通り過ぎた。
氷川遼だった。
ことはが戻ってくる前に来て、ことはがいないところで、父に頭を下げている。
ことはは廊下に立ったまま、動けなかった。声をかける前に、遼が頭を上げた。病室の中に向かって、何かを言う。低くて、聞こえない。それから戸口を離れて、廊下をこちらへ歩いてきた。
ことはを見て、止まった。
「……いつから」
「十分前だ」
「何も、言ってくれなかった」
「来るとは言っていない」
遼はことはの横を通り過ぎようとして、ことはの手の紙袋を一度見た。
「妻の父に挨拶するのは義務だ。それだけだ」
「はい」
「来週、宇野を店に行かせる。催事の搬入の段取りを聞かせろ」
「……口を出さないと、言いました」
「段取りを聞くだけだ」
遼はそう言って、廊下を歩いて行った。振り返らなかった。黒いコートが、角を曲がって見えなくなる。
廊下の端で、看護師が一人、まだこちらを見ていた。目が合うと、看護師は何か言いたそうな顔をして、言わずに戻って行った。
ことはは、看護師に聞くのを忘れて、病室に戻った。
◇
父は、ベッドの上で、戸口のほうを見たままだった。
「お父さん」
「今の人か」
「……うん」
父は、しばらく何も言わなかった。それから、ことはのほうを見ないで言った。
「まっすぐ目を見て、頭を下げた。おれが寝てるのに、立ってるおれに下げるみたいに」
「何て言ってた」
「名前と。娘さんをお預かりします、と。それだけだ」
父はまた手を揉み始めた。
「あれは、商売人の礼だ。金のある人間の礼じゃない」
ことはは何も言えなかった。商売人の礼。遼が頭を下げるのを、ことはは今日初めて見た。本家でも、本店でも、あの人は誰にも頭を下げていなかった。
「氷川の会長は」
父が、唐突に言った。
「昔、うちによく来た。おれが若いころだ。先代が、豆大福を気に入られて。おれは、顔を見たのは三度か四度だ」
「……それ、芹沢さんも言ってた。氷川の家の人」
「亡くなったのは、去年だろう」
「うん。先週、一周忌だった」
父は頑いた。頑いて、戸口をもう一度見た。
「孫か」
「孫。おじい様の家で育った人」
「そうか」
父は、それ以上何も言わなかった。ことはは紙袋から豆大福を一つ出して、紙を開いて、父の手に渡した。看護師に聞くのは、やめた。一つくらい、どうにかなる。
父は一口かじって、黙った。源さんと同じ黙り方だった。
「源さんの豆だ」
「うん」
「餡は、お前か」
「うん」
「悪くない」
ことはは、窓の外の壁を見た。壁を見ていないと、顔がどうにかなりそうだった。
「催事の間、店は」
「お母さんと、源さん。わたしは六時半に開けてから本店に行くつもり。氷川さんが、六時半には開けろって言う人だから」
「六時半って、言ったのか。その人が」
「うん。うちの開店の時間を、調べたって」
父は、紙を畳んで、膝の上に置いた。
「変な男だ」
二度目だった。二度目は、違う声だった。
帰る支度をして、紙袋を畳んで鞄に入れた。戸口で振り返ると、父はまだ豆大福の残りを手に持っていた。
「ことは」
「うん」
「あの人と、本当に惚れてないのか」
ことはは、答えなかった。
答えずに、戸を閉めた。
コメント
1件
はい、読み終えました……。 第5話、すごくよかったです。 ことはが父に「結婚した」って言うところ、声が消えていく感じとか、嘘をついてる自分の声を自分で聞いてる感じ、すごくリアルで胸がぎゅっとなりました。 父が「変な男だな」って二回言うところ、一回目と二回目で全然違う重さがあって、そこに親としての納得とか諦めとか、ちょっとした安心みたいなものが混ざってる気がして…。 ラストの「惚れてないのか」には、答えられないことはの気持ちが痛いほど伝わってきました。 氷川さんが病室で頭を下げてたっていうあのシーン、何も言わずに来て、帰るのも一言だけで、でも「妻の父に挨拶するのは義務だ」って言いながら明らかに義務だけじゃない動きしてるの、ずるい…好きです。 静かだけど重みのあるお話、一章ずつ大事に読んでます。 続きもゆっくり待ってますね🌙