コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その日、星良はバイト中から体調に異変を感じていた。
寒気と倦怠感で作業があまり捗らず、ミスも多くて何度も怒鳴りつけられ散々だった。
夜の九時頃になんとか仕事を終え、シェアハウス【Felice(フェリーチェ)】まで帰ってきたものの、具合は良くなるどころか悪化する一方。もともと片頭痛持ちではあるが、いつもとは違う締め付けられるような頭痛にも襲われていた。
「星良、おかえりー」
玄関のドアを開けると、金茶色の長いポニーテールを揺らしながら風太が出迎えてくれた。
「お疲れさま、星良くん」
風太の大きな身体の陰から、時彦もひょこっと顔を出す。ルームメイトの二人はとても仲が良く、ケンカばかりの星良と直里とは大違いだった。
「ああ、ただいま」
「今日の晩御飯は陽出さんの絶品煮込みハンバーグだよ!」
風太に悪気はないとわかっているのだが、元気の良すぎる声が頭に響いてクラクラする。
「う……」
「どうかしたの?」
心配そうに時彦が顔をのぞき込んでくる。
「いや、なんでもねぇ」
部屋着に着替えてからキッチンに行くと、陽出が鍋を火にかけていた。
「あ、星良くん。今、温めなおしてるところだからもう少し待っててね」
「ああ……」
目の前でにこやかに笑う陽出の顔を見ると、本当は食欲が無くて水だけ飲もうとしてキッチンに来たとは言い出せなくなってしまった。
風太の言うとおり絶品なはずの陽出の料理も、今日は味わう余裕がなく、無理やり水で流し込んで完食した。
「ごちそうさま」
食べ終えた後の食器をシンクに運び、自分の部屋に戻って二段ベッドの下段に倒れるように身体を横たえる。
「はぁ……」
「なんだよ星良、でっけー溜め息ついてさ。新しいバイト、そんなキツいのか?」
上段のベッドで呑気にゲームをしていた直里が声をかけてきた。
「まぁな……、そのうち慣れると思うけど」
「そっか。ま、がんばれよー」
直里はそれだけ言うと、ゲームに集中し始めたのか無言になった。
何も考えずにとにかく寝てしまおう。眠れば疲れが取れて体調も元に戻るはず。
そう考えて毛布にくるまり、目を閉じた。
しかし、一時間ほど経った頃、
――……気持ち悪い……。
無理に食事を詰め込んだせいか、胃がムカムカして吐き気がこみ上げてきた。
寒気と頭痛もますます酷くなり、眠れそうにない。
吐き気に耐えきれず、起き上がってトイレに行こうとしたものの、身体が怠すぎて上体を起こすのが精一杯だった。
「……さ、と」
声を絞り出して、上段の直里を呼ぶ。
もう近くにいる直里に助けを求めるしかなかった。
「なお、さとっ……」
ベッドのパイプを叩き、必死に呼びかける。
「ん? どした?」
直里が下段をのぞき込んできた。
「……」
せっかく気付いてもらえたのに、悪い癖でまた意地っ張りが顔を出し、助けを求める言葉がなかなか出てこない。
「なんだよ、何か用があるから呼んだんじゃねぇのかよ」
「……」
「なぁ、星良、黙ってたらわかんねーだろ」
「気持ち悪い……、吐き、そ……」
限界間近になって、ようやく今の自分の状況を声に出して訴えることができた。
「!! そういうことは早く言えっての!」
慌てた様子で上段から降りてきた直里は、部屋の中をキョロキョロ見回す。
「えっと、何か袋……、ゴミ箱でもいっか」
直里は部屋の隅に置いてある小さなゴミ箱を掴み、ベッドまで持って来ようとするが、既に手遅れだった。
星良の胃は激しく収縮し、まだ未消化の内容物を押し出し始めた。
「うぅっ……、お゙ぇっ……、ゴホッ、う……」
咄嗟に口を押さえたところで、止められるわけもない。
びちゃびちゃと音を立てて大量の吐瀉物がベッドのシーツに零れ落ち、部屋着のTシャツとハーフパンツも汚していく。
「星良!」
直里が駆け寄ってきて、星良の背中をさする。
「ったく、我慢しすぎなんだよ、おまえ……」
もはや吐瀉物を受け止めるために持ってきたゴミ箱は意味がないと判断したのか、床に放り投げてある。
「んっ……、う……」
喉を締めるようにして、星良は少しでも嘔吐を抑え込もうと悪足掻きをする。
「だから我慢すんなって、全部吐いちゃったほうが楽になるから」
「……っ、ゲホッ、うっ、ぐ……、うえ゙ぇっ……」
「よしよし」
直里は星良の嘔吐が治まるまで、ずっと背中をさすり続けてくれていた。
「はぁ……はぁ……」
「落ち着いたか?」
「まだ気持ちわりぃ、けど……、もう吐くもんもねぇと思うし、たぶん大丈夫……」
直里の手が星良の額にそっと触れてくる。
「あっつ! おまえ、すげぇ熱あんじゃん。病院行ったほうがいいなこれ……、梅子さん呼んでくるわ。拭くものも持ってくるから、おとなしく待ってろよ」
「わかった……」
「すぐ戻ってくるからな!」
直里は急いで部屋を取び出していき、フェリーチェの管理人で星良たちの保護者代わりでもある梅子を連れてきた。そして、ほとんど動けない星良の代わりに二人で嘔吐物の処理をし、星良を着替えさせた。
「直里、星良を車まで運んでやってくれる?」
「了解」
自分と同程度の体格の星良を、直里はお姫様抱っこで難なく持ち上げる。幼少期から妹と二人してキックボクシングのジムに通っていたという直里は、異能と関係のない純粋な身体能力では星良より遙かに上だった。
「直里……、これ、嫌だ……、降ろせ……」
「動けないんだろ? 仕方ないじゃん」
年下の直里に軽々と抱きかかえられているのが癪でもあり、恥ずかしくもあり、星良は複雑な気持ちになる。
「何かあったの?」
慌ただしく走り回る直里たちの様子に気付き、希以が声をかけてくる。彼女の傍には陽出と千詠もいる。
「あ、きぃ姉。さっき星良が吐いちゃってさ……、熱もあるから、梅子さんと一緒に病院連れてってくる」
「! 梅子さん、私たちに出来ることありますか?」
「今はいいよ。帰ってきてからアレコレ頼むかも」
梅子の言葉に、三人とも頷いた。
その後、梅子の運転する車で星良は病院まで搬送された。直里もずっと傍に付き添ってくれていた。
梅子の友人の医師が経営する個人医院だったおかげで、夜中だったにも関わらず、すぐに様々な検査をしてもらえた。
結果、感染症の疑いはなく、医師の診断は「心因性発熱」。悪寒、倦怠感、嘔吐もそれに伴うものだという。
頭痛は「緊張性頭痛」を併発しているのだろう、との話だった。
心因性の熱に解熱剤は効かない、しっかりと休養をとる等、医師からいろいろとアドバイスを聞いたうえで、フェリーチェに帰宅。
星良はまた直里に抱えられて部屋に戻り、下段のベッドはまだ吐瀉物の汚れが残っているため、上段の直里のベッドに寝かされた。
「それにしても、風邪かと思ったら原因はストレスか……。そういえば、今のバイト、仕事キツいうえに人間関係ギスギスで居心地悪いって愚痴ってたけど、そのせいなんじゃないの?」
一ヶ月ほど前に、星良はアルバイトをウーバーイーツから倉庫内作業に変えていた。仕事の内容や環境の悪さについて、梅子に愚痴を零したのも一度や二度ではない。これまで様々なバイトを転々としてきた中で、最も劣悪と言ってもいいぐらいだった。しかし、それが体調を崩した理由かどうかまでは、星良には判断できなかった。
「わかんねぇ……」
「この際だからハッキリ言わせてもらうけど、アンタは自分で思ってるほど体もメンタルも強くないんだから。仕事選ぶときはそこんとこよく考えなきゃダメだよ」
「……」
自分では頑丈で鋼メンタルだと思っていた、というより、そう思いたかった。しかし、フェリーチェでもう何年も世話になっていて、星良の性格も体質も熟知している梅子に言われてしまっては、返す言葉がない。
「そんな調子じゃマトモに話せるかどうかも怪しいね。バイト先には私が連絡しとく」
「それくらい、自分で……」
「いいから、私に任せてアンタは寝る! わかった?」
梅子の迫力に、星良は黙って頷くしかなかった。
「さすが、フェリーチェのオカン」
「誰がオカンだって?」
余計なことを言ったばかりに、直里は顔面にアイアンクローを喰らった。
「いたたたた! 梅子さん、痛いって!」
「まったく、私はこんなデカい子供たち九人も産んだ覚えはないよ。頼りにしてほしいとは思ってるけどさ」
梅子は星良の身体に毛布をかけ、微笑む。
「何も心配いらないから、ゆっくり休みなよ、星良」
星良も内心では母親のようだと感じてしまったのだが、口に出すのはやめておいた。
不意に、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
「入っていい?」
ドア越しに声をかけてきたのは希以だった。
「あ、きぃ姉。いいよ、入って入って」
希以を「きぃ姉」と呼んで姉のように慕っている直里は、即座に答えて彼女を部屋に招き入れる。
ロリータ服をひらひらさせながら入ってきた希以は、片手にドラッグストアのレジ袋を持っていた。
「星良、これ。経口補水液買ってきたから、食欲無くても水分補給だけはちゃんとしなよ」
星良が頷くのを確認すると、希以は優しく微笑んで「お大事に」と言い残し、レジ袋を置いて部屋から出ていった。
それから、今度は陽出が「冷蔵庫にゼリー入れておくから、食べられそうなときに食べてね」と言いにきた。
続けて時彦、千詠、風太、泉樹、冴里と、見舞いの品を持って次々と部屋にやってきて、しまいには梅子から全員に雷が落ちた。
「アンタたち! 心配なのはわかるけど、これじゃ星良が休めないだろうが!!」
梅子に叱られ、入居者一同はすごすごと部屋を出ていく。
――やれやれ、ここはお人好しの心配性ばっかりだな。
星良は苦笑いしつつ、去っていく仲間たちを見送った。
「じゃあ、私も部屋に戻るから。直里、星良のこと頼んだよ」
「おう、任せとけって」
梅子も自分の部屋に戻っていき、いつもどおり直里と二人になる。
直里は二段ベッドの梯子を少し上り、星良の顔をのぞき込んできた。
「俺は床で寝るから、また何かあったらすぐ呼べよ」
それだけ言って降りていこうとした直里の袖を咄嗟に掴んでしまった。
「ん? まだ気持ち悪いか?」
星良は黙って首を横に振る。完全とは言えないまでも、吐き気はほとんど治まっていた。
「何かしてほしい?」
「……」
「ちゃんと言ってくんなきゃわかんねぇって」
困り顔で直里は首を傾げる。
「……」
「星良」
直里は優しい声で星良の名を呼び、発言を促す。
「え、と……、その……、一緒に……」
大人の男として、途轍もなく情けなくてみっともない頼み事をしている自覚はある。それでも、以前に紅葉狩りで体調を崩したときに感じた直里の温もりを、今、心の底からたまらなく欲している。
「あー、うん、まぁいいけど……」
――直里、困ってんな……、当たり前だよなぁ……。
直里は上段のベッドに上がって毛布に潜り込み、星良の隣に身体を横たえた。
「なあ、今のバイト、そんなキツかったら辞めちまえよ。また探せばいいんだからさ」
「うん……」
いつもより近い距離で直里の声が聞こえる。星良は無意識のうちに、直里にすがりついていた。
直里の腕が腰にまわされ、星良の身体をぐっと抱き寄せる。
驚いて一瞬ビクッと身体を震わせた星良だったが、全身で直里の心地よい温かさを感じ、いつしか深い眠りに落ちていった。
一週間後。
「星良くん、ほんとに大丈夫?」
そう聞いた千詠だけでなく、全員が心配そうな視線を星良に向けてくる。
「ああ、もう熱もないし」
「だからって病み上がりですぐにバイト行かなくても……」
千詠が同意を求めるように皆の顔を見回すと、揃って頷きだす。
「大丈夫だっての。今日はちょっと話しに行くだけだから」
「次はブラックバイトなんぞに引っかかるんじゃないよ、星良」
煙草をくゆらせつつ、梅子が言い聞かせてくる。
星良が寝込んでいる間に、梅子は労働局に相談を持ちかけていた。そして、星良の今のバイト先はあまりにもブラックすぎると判明したため、スムーズに辞めることができそうだという話だった。
「直里」
「ん?」
出かける直前の玄関先で、星良は見送りに来た直里の顔を見ずに呼びかけた。
「熱でボーッとしてたからうろ覚えだけど……、寝込んでたときは、いろいろ迷惑かけて……悪かった」
熱のせいでうろ覚えだなんてただの言い訳。そういう設定にでもしておかなければ恥ずかしすぎた。
「……ありがとな」
「えっ?」
直里の驚く声が聞こえる。当然だろう。星良が直里に礼を言ったのはこれが初めてなのだから。
「じゃ、行ってくる」
直里の顔がマトモに見られないまま、星良は外へ足を踏み出した。