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◆第十章【光】
目を覚ますと、柔らかい光に包まれた病室だった。
夢をみた。
あれはきっと、自分が奪った命の、夜風の、記憶だった。
「おや、目が覚めたかい」
病室のカーテンが揺れたかと思うと、妖艶な声がした。
そして銀将、瀬戸《せと》銀幽《ぎんゆう》が顔を出した。
蜜木は上半身を起こそうとしたが、銀幽はそれを制した。
「槐山《さいかちやま》の件、ご苦労だったね。おかげで、被害は最小限に抑えられたよ」
銀幽は蜜木の眠るベッドの足元に腰をかけた。
「いえ。そん、な」
声を発すると、喉から血の味がした。
そして同時に、嫌なことも思い出した。宵が朔馬に斬り捨てられた場面を、鮮明に思い出してしまったのだった。
「対応があと数時間遅れていたら、槐山は妖怪が暴れて大惨事になっていただろうって。現場にいた者たちがいっていたよ。夜風を倒した蜜木も、毒気を抑えた朔馬も、たいしたものだといわれているよ」
「朔、馬……」
蜜木の声に憎しみが宿っていることに気が付いたのか、銀幽はなだめるように蜜木の膝の辺りに手を置いた。
「朔馬は毒気に当てられた妖怪たちを、数え切れないほど斬ったようだけどね。討伐対象になっている害妖以外に、致命傷を与えた妖怪はいなかったよ。まったく、末恐ろしい子どもで嫌になるね」
銀幽はそういいつつも、どこかうれしそうであった。
蜜木が口を開こうとすると、銀幽は床頭台《しょうとうだい》にある竹水筒を渡してくれた。蜜木は礼をいって、それを受け取った。水が喉元を通り過ぎると、乾きとともに痛みも流れていくようだった。
蜜木が口を開く前に、銀幽はさらに続けた。
「他の妖将官については、毒気に当てられた妖怪に深い傷を与えた者もいたらしいけどね。傷が治れば、みんな山に帰せるそうだよ。毒気に当てられていたとはいえ、人間を襲ったんだから、向こうも許してくれるだろ」
銀幽はそういって長い髪を耳にかけた。
「あの。夜風一族は、どうなったんでしょう。その中には、人間との混血の子もいたと思うんですが」
蜜木の問いに、銀幽は意味ありげに微笑んだ。
銀幽は元々口角が上がっているので、真顔であっても少しだけ笑っているように見える。
「みんな生きてるよ。多少のケガはあるかも知れないけどね。混血の子ってのは、宵だね。宵は近くの病院で、一時的に入院してるよ。あんたよりも、ずいぶん軽傷だから安心しな」
「よかった」
蜜木は大きく息を吐いた。
「あんたにもらったベッコウ飴をえらく気に入ったみたいでね。さっきも差し入れしてきたところなんだよ」
「ベッコウ飴?」
そんなものを宵にあげた記憶はなかった。
「宿屋で、あんたにもらったといっていたよ」
蜜木はアヤとフミの顔を思い出した。
「そうか。宿屋で、子どもに化けていたのか」
フミの顔を思い出すと、宵に似ているように思われた。
「宵の正体については、宿屋の女将も了承していてね。よく働くし、文句もないから助かってるってさ」
それを聞いた後で、蜜木は小さな違和感を思い出していた。
蜜木は宵に、自分が妖将官であると打ち明けたことはなかった。しかし宵は、蜜木が妖将官であることを確信しているふしがあった。
「生薬屋として生計を立てる一方で、月に何度か宿屋に奉公にいっているなんて、大したものだね。父親が、夜風が、人間とも関わった方がいいからって、そう計らってくれたらしいよ」
「本当に、大したものだと思います。夜風は、いい父親だったんですね」
その夜風を手にかけたのは自分である。その事実にどう向き合っていいのか、蜜木はまだわからないままだった。
「夜風の寿命は、とうに過ぎていたという見解だったよ。ただ、直接の死因は心臓に受けた傷だそうだよ」
銀幽は、蜜木がなにを考えているのかを見透かしたようにいった。
「仕方がないとはいえ、あんたは夜風一族の仇《かたき》になっちまったわけだ」
蜜木は静かに「はい」といった。
「だからね、しばらくは槐山にいってはいけないよ。槐山にいくなというより、夜風一族には会ってはいけないよ」
予想外のことをいわれたので、蜜木は銀幽を見つめた。
「親を殺した者の匂いってのは、妖怪は本能的にわかるらしいんだよ。それに今回の件で夜風一族はみな、親の毒気に当てられちまったからね。あんたの存在は、あの一族にとっては、しばらく毒なんだよ」
それはどうにも腑に落ちる話であった。
「実はさっきまで、夜風の記憶のようなものを見てました。俺は奪った命と、どうしようもない部分で繋がりを持ってしまったんだと思いました」
銀幽は「よくあることだよ」といった。おそらく銀幽は、蜜木が想像もできない数の妖怪を討伐している。奪った命の記憶を見てしまう経験も、一度や二度ではないのだろう。
「槐山にも、夜風一族にも、もう近づきません」
蜜木は宣言するようにいった。
しかし銀幽は「そうもいかないだろ」と笑った。
「因果なことだとは思うけど、あんたのいい人は夜風一族なんだからさ」
「でも……」
「五年もすれば、あんたに宿った毒もちゃんと抜けるよ」
銀幽は子どもをあやすように、蜜木の膝の辺りを撫でた。
「だからそれまでは彼岸《ひがん》の期間にしか、宵たちに会ってはいけないよ。彼岸の七日間は、死者も生者も曖昧にしてくれるから、彼岸なら会いにいっても問題ないよ」
「彼岸ってのは、春ですか。秋ですか」
「両方だよ。つまりは半年のうちに七日ほどは、夜風一族に会っても問題ないよ」
「親の仇が、会いにいってもいいもんなんでしょうか」
蜜木が弱音のようなことを吐くと、銀幽は「どうだろうね」といった。
「あんたの心が、決めることだよ」
銀幽は優しい口調のままだったが、蜜木の甘えを見透かしていたようだった。
「あと五ヶ月すれば彼岸だね。きっとゆっくり何かを考えてる暇もないくらい、私たちの日々はせわしなく過ぎていくよ」
「そうですね。本当に、そう思います」
訓練生になった日々が、蜜木にそういわせていた。
銀幽は静かにベッドから立ち上がった。
「そのきれいな顔に傷が残らなくてよかったね。耳の端は裂けちまったみたいだけど。これでもつけておきな」
蜜木の左耳には今もガーゼが貼られているが、端は切れたままだろうと医師にいわれている。
銀幽は羽織りの袖を探ると、石のようなものを蜜木に渡した。
「これは?」
「槐山で採れた、鉱石の耳飾りだよ」
変わった形状の耳飾りであったが、裂けた耳を隠すにはちょうどいいように思えた。
「ありがとうございます。それと、今更ですが、報告書の返事もありがとうございました。今回の件、銀幽さんの筆鳥が飛んでこなければ、どうなっていたか分かりません」
銀幽はめずらしいものでも見たかのように、蜜木をじっと見つめた。
「報告書に返事をするのは、上官の義務だろ。しかし、それに対してお礼をいえるなんて、大したものだね。あんたみたいな人間が、九郎兵衛《くろべえ》番所《ばんしょ》にいてくれると、私もずいぶん楽なんだけどね」
九郎兵衛番所とは、葦原《あしわら》遊郭の大門近くの番所である。しかしその番所に配属されるのは、妖将官ではなく武官である。
「九郎兵衛番所に配属された者は、遊女に入れ上げて面倒事を起こす者が多くてね。何度始末書を読んだかわからないよ」
銀幽は愉快そうに笑った。
「でも、あんたみたいに細かい気配りができる者がいれば、そういう面倒事は未然に防げるもんなんだよ。それにあんた自身は、番《つがい》になるような者と出会っちまったわけだしね。遊女ってのは結局、自分を一番に思ってくれる人でないと腹の底から入れあげることはしないからね。もし妖将官に飽きたら、いつでも声を掛けておくれね。特別待遇で九郎兵衛番所に迎えてやるよ」
銀幽はいいたいことだけいうと、病室のカーテンに手をかけた。
「今回の件、本当によくやったね。報告書は傷が癒えてから、ゆっくり書いてくれていいからね」
「わざわざ、ありがとうございました」
銀幽の背にいうと、彼女はこちらを見ずにひらひらと手を振った。
◆
その後蜜木は一週間ほどで退院して、現場に復帰した。
現場に復帰してからは、あっという間に五ヶ月が過ぎた。
そして秋の彼岸となった。
蜜木は休暇を利用して、槐山へと向かっていた。
槐山での一件を忘れた日はない。それでも答えのようなものは何一つ出ないまま、この日を迎えていた。
槐山に足を踏み入れてしまうと、その匂いをかいでしまうと、当時の鮮明な記憶が蜜木の中を駆け巡った。
しかし夜風の毒気がないせいか、それとも季節が移ろいだせいか、山の匂いは少しばかり変わっているように感じられた。山道を歩く中で、害妖が襲ってくる気配もない。おそらく今が、槐山の本来の姿なのだろう。
宵の住む家が近づくほどに、緊張のようなものが増していった。
会いたいと思っているのは自分だけで、向こうにしてみれば顔も見たくない可能性も充分にある。そうは思えど、蜜木はもう一度だけ宵に会いたかった。会いにいったことを後悔するとしても、もう一度会わなければ自分は一歩も前に進めないと思っていた。
めざしていた家が見えると、その縁側で宵がすよすよと昼寝をしていた。
その姿を見て、自分はこんなにも宵に会いたかったのかと脱力する思いだった。
そして同時に、柔らかい感情が溢れてきた。閉じていた感情がすべて解放されるような、自分の殻《から》がすべて剥がれていくような、そんな感覚だった。
蜜木は縁側に座ると、宵の白い頬に触れた。
ほどなく宵は、ゆっくりと目を開けた。
「久しいな」
宵はそういって、蜜木に柔らかく微笑んだ。
「うん、久しぶりだな」
緊張していたことが嘘のように、自然と言葉がでた。
「ずっと礼をいいたかった。ありがとう」
宵はそういって、体を起こした。
「俺も、ずっと礼をいいたかった。そして、謝罪もしたかった」
体を起こした宵を、蜜木はそのまま抱きしめた。
「でも、ただ会いたかった」
伝えたいことは山ほどあるはずだった。しかし宵が触れられる場所にいるだけで、どんな言葉も無意味に思えた。
「なにを謝罪することがある?」
夜風の命を、この手で終わらせたことに後悔はない。
それでも夜風の記憶を見て以来、もっと別の方法があったのではないかと、いつも心の隅で思っているのもまた事実であった。
蜜木が言い淀んでいると、庭先に妖狐たちが顔を出した。宵の兄姉たちである。
「みつき、ありがとう」
「ありがとう」
昼は人語が話しにくいにもかかわらず、妖狐たちはそれぞれに蜜木にお礼をいってくれた。
それは凍っていた蜜木の心の一部を溶かしてくれるような言葉たちだった。
それらの言葉を聞くうちに、実家にいた頃の、幼い自分が顔を出したように思えた。
幼い頃、蜜木がなんでもないことを手伝うと、蔵人や家族は大袈裟に褒めてくれた。そしてお礼をいってくれた。蜜木にとってそれは、なによりも嬉しいことだった。なんだか唐突に、そんなことを思い出していた。
実家を出た自分には、もう二度とあんな瞬間は訪れないと思っていた。
しかし自分は今、童心に帰ったような心持ちだった。
もう二度と自分には訪れないと思っていた瞬間が、目の前に広がっている。
きっと自分は、大切に思う者にお礼をいわれることが、何よりも嬉しいと感じる性分なのだった。近しい人に認められたくて、ただそれだけだった。そしてそれは今も、なに一つ変わっていなかった。
「俺は改めて、宵の提案に乗りたいと思う」
蜜木はそういって、宵の額に自分の額をつけた。
「俺はお前の婿になる。そして、死ぬ」
宵は、じっと蜜木の瞳を見つめていた。
「そうしてくれると助かる。だから、そうしてくれ」
いつか宵がいった言葉を、蜜木はそのまま口にした。
「うん。そうしよう」
宵はそういって、柔らかく微笑んだ。
――かけがえのない瞬間を重ねていくだけで、人は強く生きていけます
いつか聞いた、誰かの声がした。
死者も生者も無関係に、自分たちの幸せを願ってくれている者たちの気配がする。
それはまだ、夏の気配が残る午後だった。
世界が、眩しいくらいに光る午後だった。
【 了 】