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「受付番号一四六番の方。第二診察室へお入りくださ〜い」
ここはこの町で唯一の総合病院。その中の診療科に属する、三〇近い科の中のひとつ『産科・婦人科』の待合室。
かつては市内に数カ所あったらしい子供が産める施設も、昨今の少子化の影響か、はたまた後継者が育たなかったからか、子供を産むことが出来る産科を有する病院は、ここともう一箇所の個人病院ひとつを残すのみとなってしまった。
永田美千花は初産なこと、自身の身体が一五一センチと小柄なくせに夫の律顕が、一八〇センチ近い長身なことを鑑みて、総合病院での出産を選んだ。
お腹の胎児が、二七〇〇g足らずで生まれた自分に似て小柄な赤ちゃんなら問題ないけれど、もしも三八〇〇g超えで大きく生まれた夫似の子だったなら、うまく産んであげられる自信がなかったからだ。
手にした受付番号を呼ばれて立ち上がったと同時、ほんの少しふらついて。
「美千花、平気?」
即座に横合いから律顕に腰を支えられて優しく問いかけられた美千花は、一瞬だけ眉根を寄せて「大丈夫。一人で行けるから……」と夫の腕をすり抜けた。
美千花は今、第一子を妊娠中だ。
九週を過ぎたばかりで見た目は全然妊婦に見えないけれど、身体的にはつわりが物凄くしんどい。
話には聞いていたけれど、においにとても敏感になって、中でもご飯が炊けるにおいが特にダメになってしまった。
それに加えて――。
あんなに大好きだった律顕のにおいにも過剰反応するようになった美千花は、彼に触れられるのも正直何だかゾワリとして無意識に避けたくなってしまう。
決して律顕の事を嫌いになったわけではないけれど、出来ればそばに寄らずにそっとしておいて欲しい。
(ごめんね、律顕)
彼を邪険にするたび、申し訳なさに苛まれるのに、気が付いたら素っ気ない態度を取ってしまっている。
律顕だって、そんな美千花の変化に気付いていないはずはない。
なのに不機嫌になることもなく、そればかりかまるで自分がいけなかったみたいに謝ってくれるから、美千花は余計に辛いのだ。
妊娠初期の妊婦健診は経膣エコー。
経腹エコーと違って、腹部にジェルを塗ってスキャナーを当てるわけではないので、律顕には診察室まで入ってきて欲しくない。
「一人で行けるからここにいて?」
さっき一人で大丈夫と拒絶したにも関わらず、結局診察室手前まで心配そうに付き添ってきた律顕に、今度こそピシャリと一線引くと、捨て犬みたいな至極悲しそうな顔をされてしまった。
十二週を過ぎれば経腹エコーに切り替わるらしいので、出来ればその辺りまで待って欲しい。
もっと言うと、つわりが治まるまではなるべく近付かずに距離をあけていてくれたら。
こんな優しい旦那に対してそんな事を思うのは、新妻失格のワガママだろうか。
***
「心臓もしっかり動いてて順調だったよ。今、イチゴぐらいの大きさだって」
白黒のエコー写真を見せたら、「すげぇ。ちゃんと頭と胴体と手足が分かるようになってる!」と律顕が嬉しそうに瞳を見開く。
「つわりがなかったら妊娠してるだなんて全然実感湧かないんだけど、ここにちゃんと居るんだよね」
お腹に触れながら言ったら、律顕がつられて手を伸ばしてきて。
なのに美千花は何だか彼に触れられる事に嫌悪感を覚えて、思わず身体を引いて避けてしまった。
瞬間律顕がとても悲しそうな顔をして。美千花は言い様のない罪悪感に包まれる。
丁度そこで受付けに呼ばれた美千花は、これ幸いと律顕から逃げるみたいに立ち上がった。
一階の総合カウンターにある会計窓口に持って行くようファイルを渡されて、美千花はすぐ背後に立つ律顕に「行こ?」と声を掛けた。
***
今日はいつもより少しだけつわりの症状が軽かった美千花は、お昼に元同僚の奥田蝶子と待ち合わせをしてランチに出かけてみることにした。
正直ひとりで家に引きこもっていると、しんどさばかりに目がいって辛かったから、ほんのちょっぴり気分転換がしたくて。
幸い元職場と自宅はそんなに離れていない徒歩圏内。
お散歩がてらが楽しめるのもいいかな?と思った。
ランチと言ってもさすがに食事を摂る気にはなれなかった美千花だ。
お店では食べられそうなものを軽く口にすればいいよね、と開き直ることにした。
実際、美千花は何かを食べたかったわけではなくて、ただ単に話を聞いてもらいたかっただけだったから。
仕事を辞めてからの美千花は、家で夫と話す以外は、妊婦健診で医療従事者と話す程度。
美千花も律顕も実家は新幹線で五時間ぐらい離れた都市にあるため、お互いの両親や学生時代の旧友と話せる機会もほとんどない。
美千花がこちらで腹を割って話せるのは、同期入社で一緒に受付嬢をしていた蝶子ぐらいのものだ。
「――それでね、最近何だか律顕の事が嫌で嫌で堪らないの」
「え? それって……早くも離婚の危機ってこと?」
「違う違う。別に嫌いになったわけじゃないの。だけど……何だろう。距離を詰められることに生理的な嫌悪感を覚えてしまうというか」
結局固形物は食べられそうになかった美千花は、アイスクリームを頼んだ。
そんな美千花を気遣って、余り匂いの濃くないもの……と探して頼んでくれたサンドイッチセットからハムサンドを手に取った蝶子を横目にそう付け加えたら、もう一度「えっ」と言われてしまう。
ほんのちょっぴりすくい上げたバニラアイスを口に含もうとしていた美千花は、蝶子の声に思わず動きを止めた。
「それってさ、永田さん――あ、美千花も永田さんか。えっと……旦那さんは怒らないの?」
実は律顕と美千花は社内恋愛の末に結婚したカップルだ。
受付にいた美千花に、営業の律顕が熱烈にアプローチしてゴールインした形。
結婚を機に美千花は仕事を辞めて家庭に入ったけれど、今も変わらず受付嬢を続けている蝶子と、営業として第一線で働いている律顕は、毎日のように会社で顔を合わせる仲だから。
蝶子は友人として付き合っている美千花のことも気にはなるけれど、面識のある律顕に対してもそれなりに同情してしまうらしい。
蝶子から痛いところを突かれた美千花は、「分かんない」と正直な感想を漏らした。
「分かんないって……どういうこと?」
サンドイッチにかぶりついた蝶子が、意味不明とばかりに問いかけてくるけれど、そのままの意味なのだから答えようがない。
「う〜ん。うまく言えないんだけど。表面上はちっとも怒ってない、かな。だけどね、時々すっごく悲しい顔をされちゃうの」
先日の妊婦健診でのアレコレを思い出した美千花は、素直にあの時感じたままを蝶子に伝えた。
蝶子は少しだけ考える素振りを見せてから小さく吐息をつくと、「そっか。けどごめん。率直に言わせてもらうね」と前置きをして。
「話聞く限りだとさ、永……じゃなくて旦那さん。私からすると何だかめっちゃ不憫に思えるんだけど」
と、美千花にとってグサリと来る言葉を投げかけてきた。
「うん。私もそれで心が痛いの」
溶けて白い液体になりつつあるアイスを、食べるでもなくつつき回しながら溜め息を落としたら、
「妻の妊娠中に浮気する男も多いって言うじゃない? 美千花も気をつけなね?」
蝶子から声を低めてそう言われて、美千花は素直に「うん」と答えながらも心の中、(そんなの私が一番心配してるよ)とつぶやいた。
***
「あ、そう言えばね」
美千花のお皿の中、バニラアイスが殆ど手付かずのまま液体になりつつあって。
それを(もったいないことしちゃったな)とか思いながら眺めていたら、ポタージュスープをひとくち飲んで、蝶子が話題を変えてきた。
「……ん?」
不毛な器から視線を上げて蝶子を見やると、「西園先輩、産休から復帰したんだよ」とか。
西園稀更は律顕と同期入社の女性社員だ。
元々は国内外を相手に化粧品を扱っている『すずかぜ化粧品』営業課で律顕と一、二位を争う成績を残していたやり手の営業だったそうだ。
だが入社後半年足らずで製品開発課に籍を移し、社で一番人気の売れ筋化粧水、「涼風の潤水」を企画開発した生みの親になった。
美千花が入社した時には、第一子の妊娠を機に第一線を退いて、比較的残業の少ない総務本部に籍を移した後で。
何を隠そう美千花と蝶子の教育係は西園稀更だったのだ。
そんな稀更は、美千花が退社する少し前に第二子を身籠もって産休に入っていたのだけれど。
「西園先輩もつわりが酷かったらしいよね」
蝶子の言葉に、(なのに二人も子供を産めてしまうの、凄いなぁ)と思った美千花だ。
現状を鑑みて、何度もこれを経験するのはすっごくしんどいと思って。
妊娠ごとにそう言うのも変わるとも言われているけれど、変わらない場合も勿論あるだろう。
(西園先輩にどうだったか聞いてみたいなぁ)
経験者にそう言う話を聞いてみるのは、初マタニティな美千花にはとても有効に思えて。
蝶子みたいに気安く話せる相手じゃないのが、物凄く残念に感じられた。