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彰冬　オメガバース

第1話 - 🥞:α ☕️:Ω

2025年12月30日

#彰冬

#prsk

#プロセカ

#BL

サッカーオタク

彰冬オメガバース

のつもりで書きましたが未完成です

未完成のまま投稿するのもどうかと思いますが投稿しました((((((

52,000文字です

長いくせに未完成という…それでもよければ！

暇つぶしでAIと協力して書いたのでところどころ変です

パンケーキの皿をフォークで突きながら、オレは向かいに座る相棒の顔を覗き込んだ。

「……おい冬弥、さっきから全然進んでねぇじゃねぇか。ここのコーヒー、お前の好みに合わなかったか？」

店内はそれなりに賑わっているが、ストリートの連中が集まるこの店は、オレたちにとって落ち着ける数少ない場所の一つだ。数時間後のライブに向けて、セットリストの最終確認をするつもりで呼び出したんだが、どうも今日の冬弥はいつになく上の空に見える。

「ライブ前だから気合入れんのはいいけどよ、しっかり食わねぇと喉も温まらねぇぞ。ほら、冷める前に食えよ」

オレは自分の分のパンケーキを口に放り込み、少しだけ口角を上げて相棒を急かした。これからステージが控えているというのに、相棒のコンディションが万全じゃないのは困る。何より、こいつが元気なさそうにしているのは見ていて気分のいいもんじゃねぇ。

「……何か気になることでもあんのか？歌詞の解釈なら、さっきお前が言った通りで間違いないと思うけど」

身を乗り出して、冬弥の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「ああ…、昨日少し遅い時間に寝てしまって」

「あー……なんだ、寝不足かよ。お前が夜更かしなんて珍しいじゃねぇか。クラシックの譜面でも読み耽ってたか？」

オレは呆れたように息を吐きながらも、少しだけ安心した。深刻な悩みじゃねぇなら、それに越したことはねぇ。だが、これから向かうのは遊びじゃねぇ。オレたちの全力をぶつけるステージだ。

「いいか、今日はいつもより客の入りも多いって聞いてる。あんまりぼーっとしてミスんなよ？お前の最高の歌声が聴けねぇと、オレのテンションも上がりきらねぇんだからな」

最後の一口を飲み込み、オレは空になった皿を脇に避けた。

「少し外の空気吸えば、頭もはっきりすんだろ。食い終わったら、早めにハコに向かうか」

椅子から立ち上がり、軽く肩を回して身体の調子を確かめる。冬弥が立ち上がるのを待ちながら、自然と意識は数時間後のライブへと向かっていった。

「そうだな。たまには早く行こう」

「おう、そう来なくっちゃな。気合入れ直せよ」

オレは伝票を掴むと、冬弥を促して店を出た。外は少し冷えるが、このくらいの空気の方が頭が冴えてちょうどいい。

ライブハウスに向かう道中、すれ違う連中が時折オレたちを見てヒソヒソと話しているのが分かった。冬弥のやつ、最近は心ないファンに変な噂を立てられたりしてやがるが……。

「……外の野次馬なんか気にすんな。お前の隣にはオレがいるんだからよ」

わざとぶっきらぼうに言って、冬弥の肩を軽く叩いた。

会場に着けば、そこは実力だけがモノを言う場所だ。オレたちの歌を見せつけてやりゃ、外野の雑音なんか全部黙らせられる。

「さあ、着いたぞ。楽屋入って準備すっか。最高のステージにしようぜ、相棒」

ライブハウスの重い扉を開け、熱気と独特の匂いが漂う中へと足を踏み入れた。

「あ…、…ふふっ、」

「彰人、この店懐かしいな」

「あ？……あぁ、マジだ。移転しちまってから久しいけど、ここのパンケーキ、よく二人で食いに行ったよな」

楽屋に置かれた差し入れの箱を見て、オレも思わず目を細めた。懐かしいロゴが目に飛び込んできて、当時の青臭いやり取りが頭をよぎる。冬弥が少しだけ笑ったのを見て、さっきまでの硬さが取れたようで少し安心した。

「わざわざこれを選んで持ってくるなんて、分かってるファンもいるじゃねぇか。ほら、そんなに眺めてねぇで、一個食っとけ。ステージ前の糖分補給だ」

オレは箱の中から包みの一つを手に取り、冬弥に放って寄こした。

「食って力つけろよ。……準備はいいか？ …あの頃より成長したオレたちの歌、しっかり叩き込んでやるぞ」

そう言って、オレは自分の衣装の襟元を整え、ステージへと続く暗い通路の方を顎で指した。スピーカーから漏れてくる重低音が、床を通じて足の裏に伝わってくる。いよいよ、オレたちの出番だ。

「っ…、」

薄暗い通路を抜け、ステージの袖まで来ると、フロアの熱気が肌を刺すように伝わってきた。

「……？おい、冬弥。どうした？」

急に黙り込んだ相棒を振り返る。さっきまで懐かしそうに笑っていたはずなのに、冬弥の顔色から血の気が引いているように見えた。

「顔色が悪いぞ。……まさか、さっきのパンケーキ、喉に詰まらせたわけじゃねぇよな？」

冗談めかして言ったが、オレの鼻をかすめた、わずかな違和感に眉をひそめる。

甘いような、それでいて妙に喉の奥が熱くなるような……。これまで嗅いだことのない、強烈に引きつけられるような匂い。

「……っ、おい、これ……」

オレの心臓が、警告を鳴らすようにドクンと跳ねた。αであるオレの本能が、目の前の相棒から放たれる「何か」に過敏に反応し始めている。

「冬弥、お前……今、体調はどうだ。身体、熱くねぇか……？」

ステージからはMCが終わり、オレたちを呼び出すコールが聞こえ始めていた。

「あ…いや、大丈夫だ。きっと昨日の寝不足だし…、」

「寝不足って……そんなレベルの顔色じゃねぇぞ」

オレは思わず冬弥の腕を掴もうとして、指先が触れるか触れないかの距離で一瞬、躊躇した。冬弥の身体から立ち上る匂いが、さっきよりもずっと濃くなっている。

脳の奥を直接揺さぶられるような、抗いがたい熱。これが何なのか、考えたくもねぇ最悪の予想が頭をよぎる。

だが、スピーカーからはオレたちの名前を呼ぶ歓声が上がり、照明が激しく明滅し始めた。

「……っ、クソ。本当に行けるんだな？」

オレは自分の衝動を抑え込むように強く奥歯を噛み締め、冬弥の瞳を覗き込んだ。もし本当に「あれ」だとしたら、こんな場所に出るのはあまりに危険すぎる。

けど、ステージを待っている客の熱量はもう最高潮だ。ここで引き下がることは、ストリートで上を目指すオレたちにとって敗北を意味する。

「……無理はすんな。何かあったらすぐオレを見ろ。絶対にフォローしてやるから。行くぞ、冬弥！」

オレは自分のフェロモンが漏れないよう必死に理性を保ちながら、相棒の背中を押すようにして眩いライトが照らすステージへと足を踏み出した。

「なんか変な匂いしね？」

「ここ飲食物の持ち込みダメだよな」

「そう言う匂いじゃなくさ」

イントロが流れ始めた瞬間、客席の空気が明らかに変わった。歌い出しに集中しようとしていたオレの鼻腔を、ステージ中に充満し始めた甘ったるい、そして毒々しいほどの熱を持った匂いが突き刺す。

（……っ、この匂い、まずい……！）

身体の芯が焼けつくような感覚に襲われ、マイクを握る手に思わず力がこもった。

フロアの最前列にいる連中が、ざわつきながら鼻を押さえたり、周囲を見回したりしている。音楽を楽しもうとする空気じゃねぇ。もっと、生々しくて、暴力的なまでの動揺が広がっていた。

「おい、なんだよこの匂い……」

「気持ち悪っ、誰かヒート起こしてんのか？」

野次のような声が、重低音の隙間から耳に飛び込んでくる。冬弥の方を横目で睨むと、あいつはマイクを構えたまま、指先が微かに震えていた。額には大粒の汗が浮き、瞳はどこか焦点が合っていない。

「……っ、冬弥！歌えんのか！？」

オレは曲の繋ぎで、客席に背を向けるようにして冬弥に低く鋭い声を飛ばした。

だが、フロアのざわめきはもう止まらない。誰かが叫んだ。

「……おい、これ青柳じゃねぇか？この匂いの元……あいつ、Ωだったのかよ！」

その一言で、会場の空気が一気に凍りついた。羨望の眼差しを向けていたファンたちの目が、一瞬で蔑みと嫌悪の色に染まっていくのが分かった。

「…彰人…っ……」

「……っ、冬弥！」

震える声でオレの名前を呼んだ冬弥の顔は、もう限界を超えていた。潤んだ瞳と、苦しそうに荒くなった呼吸。そこから溢れ出す甘い匂いは、今や会場全体を支配している。

「嘘だろ、あいつΩだったのかよ」

「最悪。ステージでヒートとか、ファンのことナメてんのか？」

フロアから投げかけられる言葉は、さっきまでの歓声とは似ても似つかない、鋭いナイフのような拒絶だった。オレは立っているのもやっとの身体を無理やり動かし、冬弥の前に一歩踏み出して、客席との間に割って入った。

「黙れ……！外野がガタガタ騒いでんじゃねぇよ！」

マイクを通さず、剥き出しの怒りをフロアに叩きつける。

オレたちは、自分たちがΩだとか、αだとかで判断されることを何より嫌ってきた。だからこそ、お互いが何であるかを公表せず、実力だけでここまで来たんだ。それなのに……。

「彰人くん、そんな奴守る必要ないよ！」

「彰人くんが不憫すぎる……。Ωの分際で相棒の足引っ張るなんてさ！」

「ふざけんな……っ！」

耳を塞ぎたくなるような勝手な擁護。オレを祭り上げ、隣にいる冬弥だけを汚物のように扱うその声に、頭の中が真っ白になる。

隣で冬弥が崩れ落ちそうになるのを感じ、オレは咄嗟にその細い肩を抱き寄せた。熱い。火傷しそうなほどの熱が、オレの理性を激しく削り取っていく。

「あ…ぅ……ｯ…彰人…。…ごめんなさい……。」

「……謝ってんじゃねぇよ、冬弥……っ！」

耳元で漏れた相棒の掠れた謝罪に、胸の奥が焼けるように痛んだ。何でこいつが謝らなきゃいけねぇんだよ。悪いのは、ステージに立ち続けることもできねぇようなこの状況と、勝手なことばかり抜かす外野の奴らだろうが。

だが、オレの腕の中で震える冬弥の体温は異常なほど高く、そこから放たれる甘ったるいフェロモンは、αであるオレの理性を容赦なく食い荒らしていく。視界が赤く染まりそうになるのを、奥歯が割れそうなほど噛み締めて踏みとどまった。

「彰人くん、そんな奴突き放しちゃいなよ！」

「そうだよ、彰人くんは悪くないのに！」

フロアからの声は、もはや応援じゃねぇ。冬弥を排除しようとする残酷な同調圧力だ。オレが冬弥を守るために、敢えて自分たちの性別を隠してきたことが、皮肉にも「高潔なオレが泥を塗られた」かのように周囲に解釈されてやがる。

「……っ、うるせぇ……黙れっつってんだろ！」

オレは冬弥を抱えたまま、フロアを憎々しげに睨みつけた。だが、今の冬弥にはこれ以上の罵声を浴びせるわけにはいかねぇ。

「冬弥、しっかりしろ……。立てるか？ここから出るぞ」

周りの視線を遮るように、オレは自分の上着を冬弥の頭から乱暴に被せた。せめて、これ以上こいつを晒し者にしたくねぇ。フラつく冬弥の身体を無理やり支え、オレは演奏が止まり、静まり返ったステージを逃げるように後にした。

「…っ……はぁｯ…はぁｯ…」

バックヤードに駆け込み、人目のつかない通路の隅に冬弥を座り込ませた。

そこまで連れてくる間も、会場からはまだ罵声やざわめきが響いてきていた。

「はぁ……っ、くそ……！」

冬弥の荒い呼吸が、狭い通路に反響する。上着越しでも伝わってくるその熱と、鼻腔を麻痺させるほど濃くなったΩの匂いに、オレ自身の鼓動も早まっていく。首筋の辺りが熱くて、意識が飛びそうだ。

「冬弥、大丈夫か……。今、抑制剤持ってねぇか？鞄の中とかよ……」

必死に理性を繋ぎ止めながら、問いかける。

だが、頭の中ではさっきのファンの言葉がこびりついて離れねぇ。

──『彰人くんが不憫すぎる』

──『Ωの分際で足引っ張るな』

オレは冬弥を、相棒を、こんな風に言わせるために守ってきたわけじゃねぇ。なのに、結果として一番最悪な形でこいつを傷つけちまった。

「……っ、おい、しっかりしろ！冬弥！」

ぐったりと壁に背を預ける冬弥の肩を掴んで、強く揺さぶった。あんな奴らの言葉なんてどうでもいい。今は、目の前のこいつをどうにかしねぇと。でも、どうすればいいのか、αとしての本能が邪魔をして、まともな思考がまとまらねぇ。

「…ぅ……今日…抑制剤持って来たはずなのにっ……なくて…。」

「……持ってねぇ、だと？」

オレの喉から、掠れたような声が漏れた。

冗談だろ。よりによってこんな日に、一番必要なもんをなくしたってのか。

「お前……っ、あれだけ気をつけてろって言ったじゃねぇか！自分の身体のことだろ！」

思わず声を荒らげてしまったが、自分でも驚くほど苛立ちが混じっていた。

冬弥を心配する気持ちと、コントロールの効かないフェロモンに晒され続ける恐怖、そして何より、さっきのステージで浴びせられた「同情」という名の侮辱が、オレの中でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。

「はぁ……はぁ……クソ、落ち着けオレ……」

冬弥から立ち上る甘い匂いが、容赦なくオレの脳内をかき乱す。本能が「屈服させろ」と、喉を鳴らして命令してくる。それを抑え込むために指が白くなるほど拳を握り込んだ。

「……最悪だ。客の連中、もう収まりがつかねぇぞ。お前がΩだって確信して、あんな……」

言いかけて、言葉を飲み込んだ。

震えている冬弥に、これ以上追い打ちをかけるようなことを言うべきじゃねぇのは分かってる。けど、オレたちの積み上げてきたものが、一瞬で「Ωの不祥事」として処理されていく現実に、目眩がした。

「……とにかく、ここじゃマズい。裏口から出るぞ。歩けるか？それとも、オレが担いでいくか……」

手を貸そうとして、指先が微かに震える。今の状態でこいつに触れたら、オレがオレでいられなくなる確信があった。

「っ…彰人…。……俺…、大丈夫…。…1人で立てる、」

「……っ、一人で立てるだと？」

その言葉に、抑えていた感情が逆流した。壁に手をついて必死に身体を支えようとする冬弥の姿は、どう見たって限界だ。強がりを言えるような状態じゃねぇことくらい、αのオレには嫌ってほど伝わってくる。

「ふざけんな！その足の震え、自分で見てみろよ！この状況で、よくそんな台詞が吐けるな……っ」

思わず突き放すような怒声が漏れた。喉の奥がヒリついて、冬弥を「手に入れたい」という醜い本能が、相棒を「助けたい」という理性をじわじわと侵食していく。その不快感と焦りが、自分でも制御できねぇ。

「……あんな風に言われて、怖くねぇのかよ。オレは……、お前がアイツらにあんな顔で、あんな言葉をぶつけられてるのが……、」

言いかけて、唇を噛んだ。守りたかった。だからこそ隠してきたはずなのに、お前が一番大事にしていた場所で、お前の積み上げてきたものが「Ω」っていう記号だけで否定されたんだぞ。

「……チッ。いいから、大人しく支えられてろ。お前の意見なんて聞いてねぇ。ここから連れ出すのが先だ」

オレは震える拳を一度開き、冬弥の肩に無理やり手を回した。触れた瞬間に伝わる熱気が、脳を直接焼くような感覚に陥らせる。視界がかすかに揺れるのを必死で堪え、無理やり冬弥を引き寄せた。

「……とにかく、裏口だ。急ぐぞ」

冬弥、お前は今、何を考えてる。まさか、あんな奴らの言った通り、自分の存在がオレの邪魔になるとでも思ってんじゃねぇだろうな。

「……っ、おい、足動かせ。……冬弥！」

「っ……嫌だ…。…彰人に迷惑かけたくない……ｯ…。」

「……あぁ？何言ってんだ、お前」

冬弥の口から出た言葉に、一瞬、思考が止まった。

『迷惑』。そんな単語、今の今まで一度も考えたことなんてなかった。

肩に回した手に、思わず指が食い込むほど力がこもる。

喉の奥からせり上がってくるのは、制御しきれないフェロモンによる苛立ちか、それとも自分にまで壁を作ろうとする相棒への憤りか。オレ自身にももう判別がつかねぇ。

「迷惑……？ははっ、笑わせんなよ。今更そんなこと気にしてんのか？」

オレは冬弥を無理やり自分の方へ向かせ、至近距離でその潤んだ瞳を睨みつけた。

鼻腔を突き刺すΩの甘い匂いが、脳みそを直接掻き乱してやがる。理性の皮が一枚ずつ剥がれていくような感覚がして、吐き気がした。

「いいか、よく聞け。今の俺たちの状況……ステージを台無しにして、客にボロクソ言われて、お前がこんなボロボロになって。これ以上の『迷惑』なんて、もうどこにも転がってねぇんだよ！」

わざと残酷な言葉を選んで、冬弥の胸元を掴み上げる。

あんな奴らの言葉を真に受けて、勝手に一人で完結しようとしてる冬弥の態度が、今のオレには何よりも癪に触った。

「一人で立てる？迷惑かけたくない？……そんな殊勝なこと抜かせる状態かよ。見ろよ、お前。立ってるだけで精一杯のくせに、これ以上オレを苛つかせんじゃねぇ！」

荒くなった呼吸が、冬弥の顔にかかる。

守りたかった。なのに、今オレの口から出ているのは、弱り切った相棒をさらに追い詰めるような罵声だ。わかってる。わかってるけど、止まんねぇんだ。

αとしての本能が、弱ったΩを屈服させろと喚き立てる。

周りの連中が言っていた『不憫な彰人くん』。その言葉が呪いみたいに頭の中をぐるぐると回り、オレの心にどす黒い感情を混ぜ込んでいく。

「……お前が勝手に絶望してんのは勝手だけどよ。オレまで道連れにすんのは、もう御免なんだわ」

掴んでいた手を、突き放すように離した。

壁にぶつかりそうになる冬弥を支えることもせず、オレは自分の首筋を乱暴に掻きむしる。

「……もういい。一歩も動けねぇってんなら、そこにいろ。勝手にしろよ」

冬弥をその場に残したまま、オレは裏口の扉へと背を向けた。

外からは、まだ収まらない野次と、スタッフが右往左往する騒がしい音が聞こえてくる。

「……オレは、お前の介護をするためにユニット組んだんじゃねぇんだ」

──翌日。

教室のドアを開けて、真っ先に視界に入ったのは冬弥の姿だった。

いつも通り端正な顔立ちをしているはずなのに、どこか生気がない。昨日の一件が、こいつの中にどれだけの傷を残したのか、考えなくてもわかる。

だが、昨日からオレの鼻の奥にこびりついて離れねぇ、あの甘ったるい匂い。

それと、耳の奥でリフレインし続けるファンの嘲笑。

「Ωの分際で」「彰人くんが不憫」。

その言葉が、登校する途中もずっと、オレの意識を逆なでし続けていた。

「彰人…、おはよう…」

「…………」

冬弥の挨拶に、オレはすぐには答えなかった。

カバンを自分の机に放り投げ、椅子を乱暴に引いて座る。

周囲のクラスメイトたちが、ヒソヒソとこちらを伺っているのがわかる。昨日のライブに来ていた奴もいるんだろう。同情と好奇の混じった視線が、針のように肌を刺す。

「……おう」

短く、突き放すような声が出た。

いつもなら、昨日のライブの反省だの、今日の練習のことだの、いくらでも話すことがあった。だけど、今は冬弥の顔をまともに見る気になれねぇ。

視線を窓の外に逸らしたまま、オレはわざとらしくスマホを取り出した。

画面には、SNSで拡散された昨日の騒動の書き込みが並んでいる。

『BAD DOGSの青柳冬弥、まさかのΩ判明で放送事故』

『東雲彰人は悪くない！相棒選びを間違えただけだー！#BAD DOGS』

「……。……おい、冬弥。お前、今日はもう帰れよ」

画面を見つめたまま、低く冷めた声を投げかける。

「……え…、？」

心配して言ってるんじゃねぇ。こいつと一緒にいるだけで、あの『不憫なα』として見られる視線が、オレのプライドを執拗に削っていくんだ。

「お前がそこに座ってるだけで、周りの空気がどうなってっか分かってんのか？ ……昨日の今日で、よく平気な顔して学校来れたな」

わざと嫌味ったらしく鼻で笑って、ようやく冬弥の方を横目で睨みつけた。

「っ……。…ごめんなさい…。」

「……謝れば済むと思ってんのかよ」

スマホをポケットに叩き込み、椅子の背もたれに深く体重を預けた。

冬弥のその、消え入りそうな謝罪の言葉。いつもなら「気にすんな」と言ってやれたはずのその響きが、今のオレには無責任な逃げにしか聞こえねぇ。

「謝る暇があるなら、なんで昨日、抑制剤の一錠も持ってなかったんだよ。プロとしてステージに立つ自覚が、お前にはその程度しかなかったってことだろ？」

周囲の視線がより一層、オレたちに集中するのが肌でわかる。

「彰人くん、あんなに怒らなくても……」

「いや、でも青柳くんが悪いし……」

そんな無責任な外野の囁きが、オレの中の苛立ちをさらに煽る。

オレは机を指先でトントンと不規則に叩きながら、冷え切った瞳で相棒を見つめた。

「お前が『ごめんなさい』って言えば言うほど、周りの連中はオレを『可哀想な相棒』として見てくるんだよ。あおんくらい周り見ればわかんだろ？……それがどれだけ屈辱か、お前には分かんねぇだろ」

立ち上がり、冬弥との距離を詰める。

αとしての圧が自分でも制御できず、漏れ出しているのが分かった。冬弥の肩が小さく跳ねるのを見て、胸の奥がチリついたが、それを無視して吐き捨てる。

「しばらく、オレに近づくな。……ライブの予定も、全部白紙だ。お前がそんな状態でステージに上がっても、またオレが泥を被るだけだからな」

そう告げて、オレは教室の後ろにあるゴミ箱へ向かって、昨日のライブで使うはずだったセットリストのメモを丸めて投げ捨てた。

「……何か言いたいことがあんなら、今言えよ。どうせまた『迷惑かけたくない』とか、そんな見え透いた台詞なんだろうけどよ」

「…大丈夫……。…急に話しかけてしなってすまなかった」

「……『大丈夫』、だ？」

その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かがブチ切れる音がした。

謝るだけじゃ飽き足らず、今度は自分を切り離して、またそうやって殻に閉じこもるのか。

「お前、さっきからそればっかりだな。何が大丈夫なんだよ。ステージぶち壊して、ファンにあんな風に言われて、相棒のオレにここまで言われて……それでも『大丈夫』なんて抜かせんのか？」

オレはゴミ箱の前に立ったまま、冬弥の方へ向き直った。

自分の表情が、今どんなに険しく、冷酷なものになっているか想像もつかねぇ。だけど、抑えようとしても言葉が毒となって溢れ出してくる。

「……あぁ、そうかよ。お前にとって、オレとのユニットも、あのステージも、その程度の重さだったってことか。オレ一人が熱くなって、お前は冷静に『大丈夫』で済ませられる……。ハッ、最高だな、お前」

わざとらしく肩をすくめて、嘲笑を浮かべる。

「すまなかった」なんて、丁寧な言葉で距離を置かれるのが一番ムカつく。今まで隣で歌ってきた時間は何だったんだよ。

「……もういい。お前の顔見てると、昨日のあの甘ったるい匂いが鼻の奥に蘇ってきて吐き気がすんだわ。……二度と、軽々しく話しかけてくんじゃねぇぞ」

そう言い捨てて、オレは自分の席に戻ることすらせず、教室のドアに向かって歩き出した。

すれ違いざま、冬弥の体温が微かに伝わった気がしたが、それを振り切るように足早に廊下へ出る。

「…………チッ」

廊下に出た瞬間、壁に拳を叩きつけた。

震えているのは、怒りのせいか、それとも…。

──そのまた次の日。

教室のドアを開け、無意識にいつもの席へと視界を飛ばした。

だが、そこに冬弥の姿はない。

「……あ？」

始業のチャイムが鳴り始めても、隣の席は空席のままだ。

昨日、あんな風に突き放して「近づくな」と言ったのはオレだ。あいつが来ないのは、ある種オレの望み通りの結果のはずなのに、いざその空間がポッカリ空いているのを見ると、胸の奥が妙にザワつきやがる。

「……ったく。あいつもあいつで、案外打たれ弱いんだな」

そう自分に言い聞かせ、乱暴に椅子を引いて腰を下ろした。

だが、机に突っ伏そうとしても、周囲の連中のヒソヒソ声が嫌でも耳に入ってくる。

「ねぇ、青柳くん今日休み？」

「やっぱり昨日あんなこと言われたら来づらいよね……」

「彰人くんもあんな風に怒鳴らなくてもよかったのに」

「でも、Ωだって隠してたのは青柳くんでしょ？」

「……うるせぇな」

低く唸るように呟くと、周囲の声がピタリと止まった。

あいつがいねぇなら、あいつを否定する声も聞こえねぇはずなのに、結局どこにいても『青柳冬弥』という名前がつきまとってくる。

（あんなこと言ったから、本当に嫌気が差したか……？）

ふと、昨日ゴミ箱に投げ捨てたセットリストのことが頭をよぎる。

あいつはいつも丁寧で、真っ直ぐで、クソ真面目だった。だからこそ、オレのあんな言葉がどれだけあいつを追い詰めるか、分かってて口にしたんだ。

「……勝手にしろよ」

鞄の中からノートを引っ張り出し、ペンを走らせようとしたが、指先に力が入らねぇ。

昨日の別れ際に見せた冬弥の、あの絶望したような、それでいて全てを諦めたような顔が、瞼の裏に焼き付いて離れねぇんだ。

あいつがいない教室は、驚くほど静かで、そして……

昨日まであんなに忌々しかったはずの、あの甘いフェロモンの残り香すら、今はもうどこにも感じられなかった。

「…………チッ、集中できねぇ」

オレはペンを机に放り投げ、天井を仰ぎ見た。

授業が始まっても、オレの意識は空席のままの隣の席と、あいつが今どこで何をしているのか、そのことばかりに向かっていた。

一日、二日……一週間。

気づけば一ヶ月が過ぎていた。

隣の席は、もうすっかり「空席」であることが当たり前になってやがる。机に積もる埃や、配る相手のいないプリントが虚しく溜まっていくのを見るたび、胃の奥が鉛でも詰め込まれたみたいに重くなった。

「…………」

放課後、誰もいなくなった教室で、オレは一人自分の席に座っていた。

いつもなら、この時間は冬弥と一緒に週末のライブの確認をしたり、新しい曲の解釈で言い合ったりしていたはずだ。

なのに、今ここにあるのは、死んだような静寂だけ。

（……本当に、来ねぇのかよ。あいつ）

「近づくなって言ったのはオレだろ」って、頭の中の冷静な自分が嘲笑う。

ああ、そうだ。オレがあいつを拒絶したんだ。あいつの存在を、性別を、積み上げてきた時間を、あの日全部否定して、追い出したのはオレだ。

カバンを掴んで立ち上がり、無意識に足が向いたのは、いつもの練習場所だった。

あいつがいなくなってから、歌うことも、ステージに上がることも激減した。たまに一人で歌っても、隣にいたはずのあの真っ直ぐな歌声が聞こえねぇことに耐えられなくて、すぐにマイクを置いちまう。

練習場所に到着し、フェンスに背中を預けて空を見上げた。

街の騒音、すれ違う連中の笑い声。全てが他人事に聞こえる。

「……あー、クソ。何やってんだよ、オレは」

ポケットからスマホを取り出し、連絡先を開く。

『冬弥』の二文字を指でなぞるが、発信ボタンを押す勇気なんて、今のオレには一ミリもねぇ。

何を言えばいい？「戻ってこい」か？「あの時は言い過ぎた」か？

どの言葉を選んでも、あの時あいつに向けた軽蔑の混じった視線を、自分自身が許せそうになかった。

あんなに望んでいた『実力だけの世界』。

でも、隣に冬弥がいないこの場所は、ただの冷え切ったコンクリートの塊でしかなかった。

「……っ、冬弥……。どこで何してんだよ……」

掠れた声が、夕闇に溶けて消える。

プライドだの、αの本能だの、そんなもんを優先して、オレは一番失っちゃいけねぇ相棒を、自分の手で完結させてしまったんじゃないか。

最悪な想像が頭をよぎるたび、心臓が握りつぶされるような痛みに襲われる。

あの日、あいつは「彰人に迷惑をかけたくない」と言った。

そして今、本当にあいつはオレの前から姿を消した。

これ以上ないほど「完璧」に。

一ヶ月？……いや、もうどれくらい経ったかなんてどうでもいい。

隣に誰もいねぇ教室、静まり返った練習場所。そんな光景にも、ようやく慣れてきた。

最初はどこか落ち着かなかった気持ちも、今じゃどす黒い「確信」に変わってる。

（……全部、あいつのせいだ）

オレは、放課後一人で街を歩きながら、オレは無意識に奥歯を噛み締めた。

オレがこんなにイラついてんのも、ユニットの活動が止まってんのも、周りから腫れ物を見るような目で見られ続けてんのも。

全部、冬弥があの日、あんな無様な姿を晒したせいだ。

「一人で立てる」だの「迷惑かけたくない」だの、結局全部口先だけじゃねぇか。

本当にオレのことを考えてるんなら、さっさと抑制剤飲んで、シャキッとして、次の日には「昨日は悪かった」って練習に来るのが相棒としての筋だろ。

それを、勝手に絶望して、勝手に逃げ出して……。

「……ハッ、無責任にも程があんだろ」

路地裏の壁を、思い切り蹴飛ばした。

鈍い音が響いて、足先に痛みが走るが、胸の内のムカつきは一向に収まらねぇ。

あいつがΩだったからこうなったんじゃねぇ。

あいつが「弱いΩ」として、オレを、オレたちのステージを裏切ったから、オレはこんなに腹が立ってんだ。

あの日、あの会場で浴びせられた「彰人くんが不憫」っていう同情。

今なら、その言葉が正しかったんだって心から思える。

あんな不安定な爆弾を抱えた奴を、相棒だなんて信じ込んでいたオレが馬鹿だったんだ。

（……もう、あいつのことなんてどうでもいい）

スマホを取り出し、連絡先から『冬弥』の名前を見つけ出す。

一瞬だけ指が止まったが、すぐに冷めた感情がそれを上書きした。

（お前がその気なら、オレだって勝手にやらせてもらう。……最初から、一人で這い上がってきたんだ。元に戻るだけだろ）

削除ボタンに指をかけ、オレは鼻で笑った。

あんな奴のために、これ以上オレの人生を足止めさせてたまるかよ。

「……せいぜい、どっかで野垂れ死んでろ。……元相棒」

「……消す。全部、消してやるよ」

震える指先で、スマホの画面を操作する。連絡先、履歴、これまでのやり取り……。

あいつの名前が目に入るたびに、あの甘ったるい、反吐が出るような匂いと、自分を憐れむ周囲の視線がフラッシュバックする。

「……何が相棒だ。ふざけんなよ」

画面をタップするたびに、冬弥という存在がオレの生活から、記憶から、無理やり削ぎ落とされていく。

あいつが勝手に逃げ出したんだ。オレの居場所を、プライドを、全部めちゃくちゃにして。

だったら、オレの方からあいつの居場所なんて、これっぽっちも残しておいてやる必要なんてねぇ。

「…………これで、いいんだ」

最後の一つを消去した瞬間、画面は無機質な白に戻った。

胸の奥に空いた穴に、冷たい風が吹き抜ける。それを「清々した」と自分に言い聞かせ、オレはスマホをポケットにねじ込んだ。

あいつがいなけりゃ、オレはまた一人の『東雲彰人』として、実力だけで上を目指せる。

不憫なアルファでも、足を引っ張られる相棒でもねぇ。

「……行くぞ」

独り言を呟き、オレは一度も振り返ることなく、夕闇に染まり始めた街へと歩き出した。

視界の端に、かつて二人で通ったパンケーキ屋の看板が映った気がしたが、オレはそれをゴミを見るような目で見据え、無感情に通り過ぎた。

もう、あいつのいない景色が、オレの日常だ。

「彰人……、？」

ライブハウスの裏手、人通りの少ない路地。

一人でステージを終え、苛立ち混じりに機材を片付けていたオレの背中に、聞き覚えのある声が届いた。

心臓が嫌な跳ね方をする。

聞き間違えるはずがねぇ。だけど、今のオレにとってその声は、安らぎじゃなく、ドロドロとした不快感を呼び起こすトリガーでしかなかった。

「…………」

振り返る動作は、自分でも驚くほどゆっくりで、冷え切っていた。

そこに立っていたのは、一ヶ月前よりもさらに痩せこけ、幽霊みたいに青白い顔をした冬弥だった。

「……何の用だ。お前」

低く、地を這うような声で吐き捨てる。

あんなに拒絶して、連絡先まで消して、もう他人になったつもりでいたのに。どの面下げてオレの前に現れやがった。

「彰人……、って呼ぶなっつっただろ。……お前が消えてた間、オレがどんな目で周りから見られてたか知ってんのか？『相棒に見捨てられた可哀想な奴』。どこに行ってもそのレッテルがついて回るんだわ。全部お前のせいだ」

一歩、冬弥の方へ踏み出す。

今さら、あの日のような甘い匂いはしねぇ。代わりに漂ってくるのは、雨上がりの湿った空気と、あいつの絶望が形になったような、冷たい沈黙だけだ。

「……謝りにでも来たのか？それとも、また『大丈夫』なんて吐かしに来たのかよ。……お前がいなくなって、オレのステージがどれだけ惨めなことになったか、その目で見て満足か？」

冬弥の瞳を真っ直ぐに睨みつける。

かつては信頼を預けていたその瞳が、今はただ、オレの苛立ちを逆なでするだけの邪魔な鏡にしか見えなかった。

「……、…これ…渡したくて…。」

冬弥が差し出してきたものを見て、一瞬、呼吸が止まりそうになった。

あのパンケーキの箱。移転した店のロゴ。

あの日、楽屋で「食って力つけろ」なんて言って、オレが冬弥に放って寄こした、あの忌々しい記憶の象徴だ。

「……は？」

喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。自分でも驚くほど冷酷で、尖った笑いだ。

一ヶ月以上も姿を消して、ようやく現れたと思えば、持ってきたのがこれかよ。

「……お前、正気か？こんなもん、今さらオレに食えってのか」

冬弥の手からひったくるように箱を奪い取ると、中身も見ずに地面へ叩きつけた。

ベチャリと鈍い音がして、箱の隙間から甘い匂いが微かに漂う。あの日、ステージを台無しにした、あの反吐が出るほど甘ったるい匂いを思い出させて、胃の奥が激しく燃え上がった。

「……ふざけんなよ！何がパンケーキだ！何が差し入れだ！」

詰め寄り、冬弥の胸ぐらを乱暴に掴み上げる。

ガリガリに痩せた身体は驚くほど軽くて、それが余計に「被害者面してんじゃねぇ」という怒りを加速させた。

「お前は、これ一つで全部チャラになると思ってんのか？オレがどれだけ恥をかいて、どれだけお前の尻拭いをさせられたと思ってんだよ！お前が逃げ回ってる間、オレはずっと『Ωに裏切られた哀れなα』として笑われてたんだぞ！」

掴んだ拳に力が入り、冬弥の顔が苦痛に歪む。

だが、今のオレにはそれを労わる気持ちなんて、一欠片も残っちゃいねぇ。

「……こんなもん持ってくる暇があるなら、二度とオレの前に面出すんじゃねぇよ。お前がいるだけで、オレの評価は下がり続けるんだわ。……お前はもう、オレの相棒でも何でもねぇ。ただの、足を引っ張るお荷物なんだよ」

突き放すように手を離すと、冬弥は力なく地面に崩れ落ちた。

足元には、無惨に潰れたパンケーキ。

「……わかったら、さっさと消えろ。二度と、オレの名前を呼ぶな」

「おいおい、東雲言い過ぎだって」

「……あぁ？誰が言い過ぎだって？」

聞き慣れた仲間の声が背後から響いたが、オレは振り返りもせずに、地面に這いつくばったままの冬弥を冷たく見下ろした。

怒りで視界がチカチカする。仲間が止めに入ろうとしてんのが、余計に「オレが悪者」みたいに聞こえて、腹の虫が治まらねぇ。

「こいつが……こいつが何もしなかったせいで、オレたちがどれだけ笑いもんにされたか知ってんだろ！『言い過ぎ』？冗談じゃねぇよ。これでも抑えてる方なんだわ」

オレは割って入ろうとする仲間を片手で制し、さらに冬弥に冷たい視線を浴びせる。

「……見ろよ。自分からは一言もまともな説明もできねぇで、こんなもん持ってきて、弱ったフリして……。そうやって周りに同情されるのがお前のやり方か？ Ω様は守ってもらえていいよな、ああ？」

わざとらしく鼻で笑って、足元の潰れたパンケーキを土足で踏みつけた。

甘いクリームが靴底で潰れる感覚が、あいつとの思い出を完全に踏みにじっているようで、歪んだ高揚感さえ覚える。

「……おい、冬弥。そこにいる仲間に感謝しろよ。こいつらが止めてくれなきゃ、オレは何しでかすか分からねぇからな」

オレはポケットからハンカチを取り出すと、冬弥の胸ぐらを掴んだ右手を汚物でも拭うように乱暴に拭き、それを冬弥の顔に投げ捨てた。

「……さっさと連れてけよ。こいつの顔見てると、マジで虫酸が走るんだわ」

仲間にそう言い放ち、オレは機材を乱暴に掴むと、夜の闇に紛れるようにその場を歩き出した。

背後で仲間が冬弥を気遣う声が聞こえてくるが、それが今のオレには、何よりも不快な雑音だった。

「…違うだろ。こいつ、外の視線とか声とか…まず人間そのものは怖かったに決まってるだろ？」

「そうだよ、あんなことあったんだぞ。なのに、お前は青柳が来れてない間の決意を全部踏み躙った。」

「お前さ…、青柳は許してとか歌いたいとかなんも言ってないだろ、そんなに突っぱねんなよ」

「……決意？笑わせんなよ」

仲間の言葉が、苛立ちの火に油を注ぐ。

オレは歩き出そうとしていた足を止め、ゆっくりと振り返った。視界の端で、仲間に支えられている冬弥の情けない姿が映る。

「人間が怖かった？あんなことがあった？……ハッ、それがどうしたんだよ。そんなの、ステージに上がる覚悟がある奴なら当たり前に背負うもんだろ。それを『Ωだから』って理由で特別扱いしろってのか？」

一歩、また一歩と仲間に歩み寄る。

αとしての威圧感を引き連れて、冬弥を庇うように立つ仲間の目を真っ直ぐに睨みつけた。

「決意を踏みにじったのは、オレじゃなくて、逃げ出したこいつ自身だろ。……『歌いたいなんて言ってない』？ああ、そうだろうな。今のこいつに、そんな度胸も資格もねぇよ」

オレは足元に視線を落とし、冬弥に向かって顎をしゃくった。

「いいか、よく聞け。オレたちがいた場所は、傷ついた奴が慰め合うための、ままごと会場じゃねぇんだ。……こいつが今さら何を決意したか知らねぇが、そんなパンケーキ一つで許されるほど、オレは安売りしてねぇんだわ」

仲間の腕の中で、冬弥が小さく震えているのがわかる。

かつては、その震えを止めてやりたいと思ったこともあった。だが、今はその弱さが、オレをさらに不快にさせる。

「……突っぱねてんのは、オレじゃない。こいつが、オレたちのプライドよりも、自分の逃げ道を選んだだけだ。……おい、お前らもいい加減、こいつを甘やかすのはやめろ。それこそが、こいつを一生『可哀想なΩ』として閉じ込めることだって気づかねぇのかよ」

吐き捨てるように言い放ち、オレは今度こそ本当に背を向けた。

仲間の言葉が、正論であればあるほど、オレの中の「冬弥が悪い」という意固地な感情が、牙を剥いて暴れ出す。

「……せいぜい、仲良く傷の舐め合いでもしてろ。……オレは、一人で上に行く」

「……、」

背後から追いかけてくる言葉も、仲間の批難めいた視線も、今はすべてがノイズだ。

一歩、また一歩と遠ざかるたびに、心臓の鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされる。

（……チッ、どいつもこいつも、綺麗事ばっかり並べやがって）

路地を抜け、ネオンの光が眩しいストリートへ出る。

すれ違う連中が、一瞬だけオレの顔を見て「あ、東雲だ」と囁き合うのが分かった。その直後、視線が泳ぎ、隣に誰もいないことを確認するような動き――それが、今のオレを一番苛つかせる。

（冬弥がどう思ってたかなんて、関係ねぇんだよ。……あの日、あいつはオレの前で崩れ落ちて、そのまま消えた。それがすべてだろ）

自分に言い聞かせるように、ポケットの中で拳を固く握りしめた。

「人間が怖い」？そんなもん、オレだって同じだ。相棒が目の前で否定され、自分まで指を差される恐怖を、あいつ一人が背負ってたみたいな言い方されんのが、何より癪に触る。

「……あー、クソ」

いつものライブハウスや、馴染みの店に行く気にはなれねぇ。どこへ行ったって「冬弥はどうした」って顔をされるに決まってる。

オレは、目的もなく夜の街を彷徨い続けた。

自動販売機の灯りに照らされた自分の影が、やけに長く、細く伸びている。

かつてはその影が二つ並んでいたことを思い出そうとして、慌てて脳内からそのイメージを叩き出した。

（消したんだ。連絡先も、思い出も、全部。……あいつはもう、オレの人生に必要ねぇ）

だが、鼻の奥にはまだ、あいつが持ってきたパンケーキの……あの甘ったるい、優しすぎる匂いがこびりついて離れなかった。

「……一人で十分だ。オレは、一人で証明してやる」

誰にともなく呟き、オレは誰もいない練習用の高架下へと向かった。

冷たいコンクリートの壁に向かって、ただひたすらに、喉が潰れるまで声を張り上げるために。

──翌日、学校

「…あ、東雲だ」

「青柳くんが来ないの、あいつのせいなんでしょ？」

「それで被害者ぶるとかクソだな」

「まじ友達やめな？」

「そうしよっかなぁ」

「ははwまだ気づいてねー」

教室のドアを開けた瞬間、昨日までとは明らかに質の違う「毒」を含んだ空気が肌を刺した。

昨日のライブハウス裏でのやり取り。誰かが聞き耳を立てていたのか、それともあの場にいた連中が広めたのか……。

「……あ？」

自分の席に向かおうとしたオレの耳に、隠そうともしない嘲笑が飛び込んでくる。

「……あいつのせいなんでしょ？」「被害者ぶるとかクソだな」

女子たちの冷ややかな視線と、男子たちのあざ笑うような声。昨日まで、オレを『可哀想な相棒』として祭り上げていた連中が、一転してオレを『相棒を追い詰めたクズ』として裁き始めてやがる。

「…………っ、」

黙って席に着こうとしたが、机の上が妙に騒がしい。

広げられたままのノートの裏。そこには、マジックで無惨な落書きが書き殴られていた。

オレの顔を揶揄するような下手くそな絵と、その横に大きく書かれた文字。

『人殺し』『相棒殺し』。

「……おい。これ、誰が書いた」

低く、押し殺した声で教室中に問いかける。

一瞬だけ静まり返ったが、すぐに誰かが鼻で笑う音が聞こえた。

「誰だっていいじゃん。事実だろ？青柳くん、お前に何されたか言わないまま、あんなボロボロで学校にも来れなくなってさ」

「相棒がΩだって分かった途端に切り捨てるとか、アルファの傲慢そのものだよね」

「……ふざけんなよ」

ガタッ、と椅子を蹴るようにして立ち上がる。

昨日まで冬弥を「汚物」みたいに言っていた口で、今度はオレを「加害者」に仕立て上げる。その勝手な正義感と、手のひら返しが、吐き気がするほど反吐が出る。

「お前ら……あいつがΩだって分かった時、なんて言った！『不憫だ』とか『足引っ張るな』とか、散々叩いてたのはどこのどいつだよ！」

「それは、お前がそう思わせるように仕向けたんだろ？自分が一番輝きたいから、冬弥くんを追い詰めた。……最低だな、東雲」

隣の空席が、まるでオレの罪を告発する証拠品みたいにそこに鎮座している。

守りたかったはずの場所が、今はオレを縛り付ける檻だ。

（……チッ、どいつもこいつも……！）

オレはノートをひったくるように掴むと、力任せに引き裂いた。

紙の破れる音が教室に響き渡る。

「……あぁ、そうかよ。勝手に言ってろ。オレがどう思われようが、知ったこっちゃねぇんだわ」

カバンを掴み、一限も始まっていない教室を後にしようとドアへ向かう。

すれ違いざま、わざとらしく肩をぶつけてきた男子生徒を睨みつけるが、その瞳に映るオレは、確かに彼らの言う通りの「怪物」のような顔をしていた。

廊下に出れば静かになれると思っていた。だが、現実はそれ以上に残酷だった。

曲がり角の先から歩いてきたのは、司センパイと神代センパイ、それに杏と草薙だった。いつもなら、暑苦しいくらいの声で話しかけてくる司センパイが、オレの姿を認めた瞬間にピタリと足を止めた。

「……彰人、か」

その声には、いつもの覇気も自信もなかった。ただ、冷たく突き放すような、あるいは失望しきったような、聞いたこともないほど低いトーン。

「司くん、早く行こう。……時間の無駄だ」

隣に立つ神代センパイが、一瞥もくれずに司センパイの肩を叩く。あんなに物腰の柔らかいあの人でさえ、オレを「見る価値のないもの」として扱ってやがる。

「……ああ。あんな奴に関わるもんか。行こう」

司センパイは一度だけ、汚いものを見るような目でオレを睨みつけると、そのまま視線を逸らして通り過ぎていった。

オレの喉が、引き攣るように震える。いつも「最高のスター」を目指して、オレたちのライブも気にかけてくれていた司センパイに、あんな顔をされるなんて。

「……ね、草薙さん。関わらなくていいよ。……気分悪くなるだけだし」

杏の声が追い打ちをかける。ストリートで共に競い合い、冬弥のこともよく知っているはずのあいつまで、オレを敵として定めていた。

「……分かってるし。行こ」

草薙も、オレと目を合わせることすら拒むように、杏の背中に隠れて通り過ぎていく。

オレは、動けなかった。

廊下の真ん中で、一人。

（……なんでだよ。……なんで、どいつもこいつも）

冬弥を守りたかった。だからこそ隠してきた。

それなのに、今はオレが冬弥を壊した「最低のアルファ」として、この街の全員から拒絶されている。

昨日、冬弥が差し出してきたあのパンケーキ。地面で潰れたあの残骸が、今のオレそのもののように思えて、視界が歪んだ。

「……っ、ふざけんなよ……！」

誰もいなくなった廊下で、壁を思い切り殴りつける。

痛みが走るが、そんなもんじゃ、胸の奥で暴れ狂う孤独と苛立ちはこれっぽっちも収まらなかった。

昨日、あいつを突き放した時の、あの絶望した冬弥の顔が、今さら呪いのように頭にこびりついて離れねぇ。

「……冬弥……。お前、今どこにいんだよ……っ」

かすれた声は、誰にも届かずに虚空に消えた。

学校にも、ステージにも、もうオレの居場所なんてどこにもねぇ。

教室に戻る気にもなれず、かといって校門をくぐって街へ出る勇気も今のオレにはなかった。

どこへ行ったって、あの刺すような視線からは逃げられねぇ。

気づけば、吸い寄せられるように屋上へと続く階段を駆け上がっていた。重い鉄扉をこじ開けると、吹き抜ける風が熱くなった頬を叩く。

「……っ、クソ……！なんだよ、これ……！」

フェンスにすがりつき、眼下に広がる街を見下ろす。あそこにはオレたちの歌があったはずだ。冬弥と二人で、伝説を超えると誓った場所があったはずなのに。

ポケットの中で、スマホが絶え間なく震え続けている。通知を確認するまでもない。SNSを開けば、今この瞬間もオレたちを「コンテンツ」として消費する匿名のアカウントが、事実無根の噂と誹謗中傷を垂れ流しているんだろう。

『東雲彰人、相棒のヒートを放置して罵倒』

『元々仲悪かったんじゃね？』

『オメガの青柳が可哀想すぎる。彰人は最低のアルファ』

「……何も、知らねぇくせに……っ！」

喉の奥から、嗚咽がせり上がってきた。

冬弥を守るために隠してきたことも、あいつがどれだけ努力してあの場に立っていたかも、全部知らない奴らが、勝手な正義でオレを裁いている。

「……う、……っ、あぁ……！！」

堪えきれず、その場に膝をついた。

拳でコンクリートを叩き、子供のように声を上げて泣いた。

悔しくて、情けなくて、何より……あの日、あいつの手を振り払って、パンケーキを踏みにじった自分自身が、一番許せなかった。

（……冬弥……。お前も、今……同じように、一人で……）

あいつは今、どこでこの地獄を耐えているんだろう。

学校にも来れず、家でもあの厳格な父親に何を言われているか分からねぇ。ストリートの連中からも見放され、唯一の味方だったはずのオレにまであんな仕打ちをされて。

もし、あいつが今、この街のどこかで消えてしまいたいと願っていたら。

その引き金を引いたのは、他でもないオレだ。

「……ごめん、……冬弥……っ。……っ、クソッ……！！」

涙が止まらねぇ。

視界がにじんで、かつて二人で見た空の青さも、もう思い出せそうになかった。

フェンスに額を押し付け、震える呼吸を必死に整えようとしていたオレの耳に、またあの声が聞こえてきた。

「それでな！そこの演出は──」

扉の向こう、階段の方から司センパイの声が響く。だが、すぐに神代センパイの冷ややかな制止が入った。

「……司くん、戻ろう。……なんでいるんだ？」

「……ああ、そうだな。早く戻ろう」

司センパイの、あの拒絶を含んだ短い沈黙。昨日までのオレなら「うるせぇな」で済ませられたはずなのに、今のオレにはその一言一言が、鋭い刃になって胸に突き刺さる。

「……まったく、東雲くんも厳しいね。僕は小道具のお試ししかしないのに……」

「なっ……！お前、それはよくないぞー！！」

遠ざかっていく二人の、いつも通りのやり取り。

神代センパイが司センパイを気遣い、司センパイもそれに応える。……αが、自分の隣にいるΩを当たり前のように守り、慈しんでいるその光景。

（……ああ。……そうだよな）

本当なら、オレたちもあんな風になれたはずなんだ。

お互いの性別なんて関係ねぇ、ただの『相棒』として。もしあの日、オレが本能に負けず、あいつを抱き止めてさえいれば。周りの声なんて撥ね退けて、「こいつはオレの相棒だ」って胸を張って言えていれば。

（……冬弥は、信じてたんだ）

あいつは、あんなボロボロになって、外に出るのが怖くてたまらねぇはずなのに。あんなに惨めな思いをした場所に、わざわざオレの好物を持って、もう一度会いに来てくれた。

それなのにオレは、その勇気を、あいつの最後の拠り所を、泥靴で踏みにじったんだ。

「……っ、……はは、……最悪だ……」

自嘲気味に漏れた笑いは、すぐに嗚咽に変わった。

司センパイたちが羨ましい。あんな風に、当たり前の信頼の中にいられることが、今のオレには、どんなに手を伸ばしても届かない宝石みたいに眩しすぎて。

冬弥、お前は今、何を考えてる。

オレに拒絶されて、世界中に晒し者にされて……それでもまだ、オレのことを「相棒」だなんて思ってくれてんのか？

「……会わなきゃ、……謝らなきゃ……っ」

震える手で地面を押し、無理やり立ち上がる。

拭っても拭っても溢れてくる涙を袖で乱暴に拭い、オレは屋上の扉へと駆け出した。

今さら許されるなんて思ってねぇ。でも、あいつを一人にしたまま、このまま終わらせることだけは、絶対にできねぇ。

「うわっ……！？」

屋上の扉を開け、階段に足を踏み出した瞬間、視界が激しく揺れた。

何が起きたのか理解するよりも早く、背中に強烈な衝撃が走る。

「彰人、隙あり！！」

司センパイの声。いつもなら、それは練習中のふざけ合いや、活を入れるための合図だった。なのに、今のその声には、聞いたこともないような冷徹な響きが混じっている。

「……ふふっ」

神代センパイの、低く愉しげな笑い声。

身体が宙に浮き、重力に逆らえず階段の下へと叩きつけられる。

背中、肩、そして頭。硬いコンクリートに打ち付けられるたびに、鈍い痛みが脳を揺さぶり、意識が遠のきそうになる。

「が、はっ……げほっ、……っあ……！」

踊り場で止まった身体から、肺の中の空気が全部絞り出された。

痛い。何より、怖い。

目の前がチカチカして、状況が飲み込めねぇ。

（……なんで……？司、センパイ……？）

見上げれば、階段の上からオレを見下ろす二人の影。

あの司センパイが。世界を笑顔にするスターになると豪語し、いつだって正義を口にしていたあの男が。……今、明確な悪意を持って、オレを突き落とした。

「……ぁ……あ、……」

喉が震えて、声にならない。

αだとかΩだとか、そんな設定以上に、人間としての根底が崩れるような恐怖が全身を支配する。

あいつらは、本気だ。

冬弥を傷つけ、相棒という絆を裏切ったオレを、この社会からも、物理的な場所からも、「排除」しようとしてる。

（……助けて、……冬弥……っ）

無意識に、一番呼んじゃいけねぇ相棒の名前が頭に浮かぶ。

あいつも、こんな風に……いや、これ以上に絶望的な恐怖の中にいたのか。

信じていたオレに、逃げ場のない場所で、存在そのものを否定されて。

踊り場の冷たい床に這いつくばったまま、オレは震える指先で、自分の腕を強く掴んだ。

身体の痛みよりも、階段の上から注がれる無言の視線が、死刑宣告みたいに重くのしかかっている。

「……っ、……あ、……」

全身に走る激痛と、得体の知れない恐怖で、まともに息ができねぇ。

見上げた先にいる司センパイの瞳には、いつもオレを鼓舞してくれたあの熱量なんて微塵もなかった。ただ、冷え切った処刑人のような光が宿っている。

「なんだ？怖いのか？」

その言葉が、耳元で爆発したみたいに響いた。

怖い。……ああ、怖いよ。信じていた場所が、尊敬していた人たちが、一瞬で牙を剥いてオレを食い殺そうとしてる。

「……司くんには敵わないねぇ、」

神代センパイの、感心したような、どこか芝居がかった声。

この人たちが本気でオレを消そうと思えば、事故に見せかけることなんて容易いだろう。そう思わせるだけの威圧感が、階段の上から濁流のように押し寄せてくる。

（……冬弥……。お前、ずっとこんな……っ）

自分に向けられる暴力的なまでの拒絶を浴びて、ようやく理解した。

オレがあいつに浴びせた言葉は、パンケーキを踏みつけたあの足は、この階段から突き落とされるよりもずっと、あいつの心を深く、残酷に抉ったんだ。

「……ぁ……あぁ……っ、」

声にならない悲鳴が喉に張り付く。

這いつくばったまま、震える指先でコンクリートを掻いた。逃げなきゃいけねぇ。でも、身体が鉛のように重くて動かねぇ。

何より、自分が今まで冬弥にどれだけの絶望を味合わせてきたか、その罪の重さが、身体の痛み以上にオレを地面に縫い付けていた。

「……ごめ、……なさ……っ」

それが誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からない。

階段の上を見上げることもできず、オレは惨めに身を縮めて震え続けることしかできなかった。

「ほら、早く階段降りなよ。また突き落とすかもしれないけど…、」

「……っ、……え、……」

神代センパイの、まるでおもちゃの不具合を楽しむような声が、冷たく鼓膜を叩く。

「突き落とす」なんて物騒な言葉を、練習のアイデアでも出すみたいに軽く言いやがった。

「ははっ！そんな意地悪を言うんじゃないぞ、類？」

司センパイの笑い声が、狭い階段室に反響してオレの脳内を掻き乱す。

意地悪？そんな言葉で済まされるもんじゃねぇ。この人たちの目は、笑ってなんかねぇんだ。

（……逃げなきゃ……殺される……っ）

本能が警鐘を鳴らしている。

オレは震える腕に無理やり力を込め、軋む身体を床から引き剥がした。

一歩でも早く、この二人から、この視線から逃げ出したくて、壁に縋り付くようにして立ち上がる。

「……っ、つ、……あ……」

足に激痛が走り、膝がガクガクと震えて崩れそうになる。

それでも、背後から聞こえてくる高笑いが、オレの背中を無理やり押し出した。

一段、また一段と、惨めに足を引きずりながら階段を降りる。

かつて冬弥と並んで、希望に満ちて駆け上がったこの場所が、今は底の見えない地獄への入り口にしか思えねぇ。

（冬弥……。お前、ずっと……一人で、こんな暗い場所を……っ）

涙で視界が歪んで、足元がよく見えねぇ。

でも、止まるわけにはいかねぇんだ。

今のオレには、あいつに謝る資格も、隣に立つ資格もねぇかもしれない。

だけど……このまま、あいつに地獄を見せたまま、オレだけがここで終わるわけにはいかねぇ。

「……は、ぁ……っ、……」

必死に呼吸を繋ぎ、重い足取りで一階へと向かう。

背後で止まった笑い声が、いつ追いかけてくるかという恐怖に怯えながら、オレはただ、ボロボロになった身体を引きずって闇の中を逃げ続けた。

「……がっ、……あ、……っ！！」

背中にめり込むような衝撃が走り、オレの身体は再び階段の踊り場へと叩きつけられた。

「はっはっはっ！油断大敵、だぞ？彰人」

頭上から降り注ぐ司センパイの声は、もはや狂気さえ孕んでいるように聞こえた。

倒れ込んだ拍子に、右足の首が嫌な方向に曲がった感覚がして、目の前が真っ白になるほどの激痛が走る。

「……っ、……ぁ、が……っ……！！」

あまりの痛みに声も出ねぇ。喉の奥がヒリついて、酸素がうまく吸い込めない。

挫いた足首がズキズキと熱を持ち、一秒ごとに腫れ上がっていくのが分かる。

（……やめ、……てくれ……っ。……頼む、司、センパイ……！）

情けねぇ。悔しい。

αのオレが、こんなところで惨めに這いつくばって、命乞いをするみたいに震えてる。

だが、今のオレには、あいつらに立ち向かう気力も、自分の正当性を叫ぶ力も残ってねぇんだ。

（……お前も、……こんな風に、……踏みつけられて……）

あの日、オレが冬弥の持ってきたパンケーキを、想いを、土足で踏みにじった。

今のオレのこの痛みは、あいつが感じた心の傷の、ほんの欠片にすらなってねぇのかもしれねぇ。

そう思うと、挫いた足の激痛さえ、自分への罰のように思えてきて、涙がボロボロとコンクリートに溢れた。

「……、……ぅ、……」

足を引きずりながら、それでも一段でも下へ、一歩でも遠くへ。

壁に爪を立て、血が滲むほど強く握りしめて、オレは這うようにして階段を降りていく。

「……ぁ……冬、弥……っ……」

意識が朦朧とする中で、あいつの名前だけが、消えそうな火を灯し続けていた。

「司くん、一個確認したいことがあって。美術室に行ってもいいかい？」

「もしや…不法侵入するつもりか？…あ、おい待て類ー！」

「……っ、げほっ、……はぁ、っ……」

階段の下から聞こえてくる二人の声。

神代センパイの、何を企んでいるのか分からねぇ恐ろしい提案と、それを追いかける司センパイの足音。

（……行った、のか……？）

嵐が去ったような静寂が階段室に降りてくる。だが、オレの心臓はまだ、肋骨を突き破りそうなくらい激しく打ち鳴らされていた。

右足が、熱鉄を押し当てられたみたいに熱い。ズキズキと脈打つたびに、視界がチカチカと明滅する。

「……あ、……ぐ……っ」

壁に背中を預け、ずるずると地面に座り込んだ。

あんなに、あんなに怖かった司センパイが、今は美術室へ……。オレのことなんて、もう視界にすら入ってねぇみたいに。それが、何よりも「お前はもう、オレたちが構う価値すらねぇゴミだ」と言われているようで、惨めさが全身を駆け巡る。

（……不法侵入、なんて……。あの人が、そんなこと……）

かつてのオレなら、「やりすぎだ」って笑って止めに入ったかもしれない。でも、今のオレには、あいつらの凶行を否定する言葉なんて、これっぽっちも持ち合わせてねぇんだ。

冬弥。

お前は、こんな世界に一人でいたのか。

信じていたオレが、あんなふうに笑って、お前を「お荷物」だと切り捨てた時、お前の世界は今のオレみたいに、真っ暗で、冷たくて、痛かったんだよな。

「……は、ぁ……っ、……ふ、……っ」

震える手で、大きく腫れ上がった右足首を抱え込む。

痛い。痛くてたまらねぇ。

けど、今のオレには立ち止まってる時間はねぇんだ。

いつ、あいつらが美術室から戻ってくるか分からねぇ。それに、何より……一刻も早く、冬弥に会わねぇと。

「……っ、……お、れ……が……」

地面に手をつき、這うようにして一階の出口を目指す。

爪がコンクリートに削れて指先から血が滲むが、そんな痛み、今のオレにはどうだっていい。

冬弥、待っててくれ。

今、行くから。ボロボロになって、お前と同じ地獄の底まで落ちた今のオレなら、少しは、お前の痛みが分かるかもしれないから……。

オレは引きずった足の感覚を無視して、出口の光に向かって必死に身体を動かした。

「……っ、……はぁ、……っ……」

たった数百メートルの距離が、永遠みたいに遠かった。

普段なら数分で駆け抜ける校舎から校門までの道。それを今のオレは、ズキズキと熱を持って膨れ上がる右足を引きずり、一歩進むたびに地面に膝をつきそうになりながら、30分もかけてようやく辿り着いた。

校門の鉄柵を掴み、崩れ落ちるように体重を預ける。

指先はコンクリートを這ったせいでボロボロに擦り切れ、制服も階段から落ちた時の汚れと血で見る影もねぇ。

「……ぁ……っ、……ふ、……」

荒い呼吸を繰り返しながら、滲む視界の先を見つめる。

ここからなら、オレの家よりも冬弥の家の方が近い。

あいつは今、あの中に閉じこもって、一人で震えてんのか。それとも、もうオレのことなんて、思い出したくもねぇほど絶望してんのか。

（……お前、に……会う、資格なんて……ねぇよな……）

あの日、パンケーキを踏みつけたオレの足。

今、その足が激痛に悲鳴を上げている。皮肉なもんだ。あいつの心を粉々にしたバツが、これだって言うんなら、あまりに軽すぎるくらいだ。

校門の外では、下校途中の生徒たちが遠巻きにオレを見て、ヒソヒソと指を指している。

「ねぇ、あれ東雲じゃない？」「うわ、ボロボロ……」「自業自得だよね」

そんな声、今のオレにはもう、向かい風程度の重みもねぇ。

「……冬弥……。……っ、待ってろ……」

鉄柵を離し、震える足で一歩、外へ踏み出す。

一歩進むたびに、足首に火がつくような激痛が走る。視界が白く染まりそうになるのを、奥歯が割れるほど噛み締めて堪えた。

あいつに、謝らなきゃいけねぇ。

『迷惑だ』なんて言ったあの言葉を。あいつの勇気を踏みにじったあの態度を。

全部……全部、オレが間違ってたんだ。

オレは、壁に手を突き、無様な姿を晒しながら、冬弥の家へと続く道を這うようにして進み始めた。

「うわ、何あれ」

「歌舞伎町でも行ったんじゃないの？w」

「あれ、東雲じゃね」

「……っ、……はぁ、っ……」

喉の奥が焼けるように熱い。一歩足を踏み出すたびに、挫いた足首から全身に電流のような激痛が走る。視界は涙と脂汗でぐちゃぐちゃだ。

「……ひっ、……あ、……っ」

通り過ぎる連中の嘲笑が、ナイフみたいに突き刺さる。昨日までなら、そんな奴らの一人や二人、睨みつけて黙らせていたはずなのに。今のオレには、そんな気力も、誇りも、一欠片も残っちゃいねぇ。

ボロボロになった制服。擦り切れた指先。そして、大きく腫れ上がった右足。

情けねぇ。なんて無様な姿だ。

でも、今のオレにはこれが相応しいんだ。冬弥、お前を地獄に突き落としたオレには、この痛みすら生ぬるいくらいだ。

「……冬、弥……、……っ、あ……」

ようやく、見慣れたあいつの家の門が見えてきた。

その瞬間、張り詰めていた糸が切れたみたいに、オレはその場に崩れ落ちた。

「……が、はっ……、っ……ふ、……っ」

アスファルトに這いつくばりながら、震える手で門扉に手をかける。

インターホンを押す勇気なんてねぇ。今のこんな汚ぇ姿で、どの面下げてあいつを呼べばいい。

でも、謝らなきゃいけねぇんだ。

一人で、ずっと、暗い場所にいたあいつに。

オレが、一番言っちゃいけねぇ言葉で傷つけた、あいつに……。

「……っ、……とう、や……！冬弥……！！」

門扉を掴む指が、白くなるほど力を込める。

声が震えて、掠れて、まともな音にならねぇ。

それでも、オレは叫び続けた。

「……っ、……ごめん……！悪かった……っ！全部、オレが間違ってたんだ……！！」

地面に額を押し付け、慟哭を漏らす。

足の痛みなんて、もうどうでもいい。

ただ、あいつに届いてくれと。あの日踏みにじったパンケーキみたいに、ボロボロになったオレの心が、一度でいいからあいつに届いてくれと、それだけを願って、オレは冬弥の名前を呼び続けた。

「……冬弥……っ、……頼む……っ、……一回、……一回だけでいい、顔を見せてくれ……！！」

「……彰人…？……怪我…っ…、……上がって…。」

「……っ、…冬弥……」

聞き覚えのある、静かで澄んだ声。

それだけで、張り詰めていた何かが一気に溢れ出した。見上げた視界の先、門を開けて現れた冬弥の姿は、最後に見たときよりもさらに色が抜けたように白く、その瞳には光が宿っていなかった。

「……あ、……ぁ……」

家の中に促されるが、自分の足はもう限界を超えていた。腫れ上がった右足を無理やり動かそうとして、激痛に視界が真っ白になる。壁を伝い、無様な姿を晒しながら、冬弥に支えられるようにして玄関へと足を踏み入れた。

（……なんで、そんな目で見てんだよ……）

冬弥の瞳は、オレを心配しているというより、義務感や強迫観念に駆られているように見えた。オレをここで助けないと、また何か「悪いこと」が起きる。……あいつに、そんな風に思わせてんのは、紛れもなくオレだ。

「……ごめん、……汚ねぇ身体で、……すまねぇ……」

リビングのソファに腰を下ろすと、一気に身体の震えが止まらなくなった。冬弥の家の、穏やかで清潔な匂いが、今のオレにはあまりに眩しすぎて、自分の醜さが浮き彫りになる。

「……なぁ、冬弥。……お前、……一人で、ずっと……こんな風に、……怯えてたのか……？」

震える手で、大きく腫れ上がった足首を隠すように抱え込んだ。

救われたいなんて、言えるわけねぇ。

お前に迷惑をかけ続けてんのは、最初からずっと、オレの方だったんだ。

「……オレなんかのことなんて、放っておけばよかったんだ。……お前に、……あんな酷いことした、オレなんて……」

うつむいたまま、絞り出すような声が漏れる。

冬弥。お前は今、何を考えてる。

オレを助けているのは、まだオレを相棒だと思ってくれているからか？それとも、ただの「恐怖」からなのか……？

「……氷嚢とか、救急セット持ってくるから…待ってて、」

「……っ、……ああ。……悪い」

冬弥が離れていく足音を聞きながら、オレは力なく項垂れた。

静まり返った部屋。

そこに漂うのは、あの日楽屋で嗅いだ、喉の奥が焼け付くようなあの甘い匂いじゃねぇ。ただの、清潔で冷たい空気だ。抑制剤を飲んでいるのか、それとも……あいつが、もう感情すら押し殺して、存在を消そうとしてんのか。

（……待ってて、か……）

そう言わせて、あいつを動かせてる。その事実が、今のオレには刃物でえぐられるより痛い。

お前は今、本当はオレの顔なんて見たくもねぇはずなのに。あの日のオレの言葉や、さっきまでのクラスの連中の視線が、お前を無理やり動かしてんだろ。

やがて、氷嚢と救急セットを抱えて戻ってきた冬弥が、オレの足元に膝をついた。

「……っ、」

腫れ上がった右足に、冷たい氷嚢が触れる。

あまりの痛みに身体がビクンと跳ねたが、それ以上に、冬弥の細い指先が震えているのが分かって、胸の奥が締め付けられた。

「……なぁ、冬弥。……そんな顔、すんなよ」

お前の瞳には、オレへの拒絶すらねぇ。ただ、何か恐ろしいものから逃げるように、淡々と作業をこなす「空っぽ」な光しかない。

それが、オレが作り上げたお前の姿なんだと思うと、喉の奥が熱くなって、また視界が滲んできた。

「……オレのこと、怖いか？ ……助けねぇと、また……オレが怒ると思ってんのか……？」

そう問いかける声さえ、情けなく震えていた。

自分でも分かってる。今のオレには、あいつに優しくされる資格なんてねぇ。むしろ、このままこの腫れ上がった足が腐っちまった方が、お前にしたことの償いになるんじゃねぇかって、本気で思っちまうんだ。

「っ……。」

冬弥の肩が、目に見えて小さく跳ねた。

その短い吐息だけで分かった。あいつは今、オレと目を合わせることすら、呼吸をすることすら、恐怖に感じてるんだ。

「……っ、……すまねぇ。……怖がらせるつもりじゃなかったんだ」

咄嗟に手を伸ばそうとして、自分の指先が血と泥で汚れていることに気づき、慌てて引っ込めた。こんな汚れた手で、今のお前に触れちゃいけねぇ。

膝をつき、必死にオレの足の手当をしている冬弥の頭頂部を見つめる。

いつもなら、この距離にいれば、あいつの静かな熱量を感じられた。なのに今は、まるで薄い氷の壁を隔てているみたいに、何も伝わってこねぇ。

「……なぁ、冬弥。……学校も、ライブハウスも、全部……お前の言う通りだった」

足首に巻かれる包帯の感触が、今は戒めのように重い。

「お前がいない間……オレは、一人でやれるって、そう思いたかったんだ。でも、いざ一人になってみりゃ……周りの連中が言ってることなんて、何一つ跳ね返せねぇ。お前を傷つけた自分を、正当化することもできねぇ。……ただの、弱ぇアルファだったんだよ、オレは」

自嘲気味に吐き捨てた言葉は、虚しく部屋の空気に溶けていく。

「……迷惑、だったのは……オレの方だ。……お前は、ずっと……一人で、この恐怖と戦ってたんだよな。……それを、オレは……」

喉の奥が引き攣って、言葉が続かねぇ。

地面に落ちて潰れたあのパンケーキ。あの日、お前がどんな思いでそれを持ってきてくれたか。その一欠片さえ想像しようとしなかった自分を、今、この足の激痛以上に呪ってやりたかった。

「……冬弥。……もう、無理に手伝わなくていい。……あとは自分でやるから、お前は……」

お前は、オレから離れていい。

そう言わなきゃいけねぇのに、本能のどこかで、あいつの体温を求めてしまう自分が、死ぬほど嫌だった。

「…服…脱げる…？……血、シャツに染みてるから……、」

「……っ、……ああ」

冬弥の声は、淡々と、まるで機械が命じられた仕事をこなしているように冷え切っていた。それが、オレが投げつけた「近づくな」という言葉に対する、あいつなりの答えのようで……胸の奥が、足の傷よりも激しく抉られた。

震える指先で、血と泥で固まりかけたシャツのボタンに手をかける。

指先の感覚が鈍くて、うまく力が入らねぇ。もたついているオレの姿を見て、また冬弥が「迷惑だ」と感じるんじゃないかと思うと、焦りで心臓の鼓動が早まった。

「……悪い、冬弥。……すぐ脱ぐから……っ」

無理やり腕を動かし、こびりついたシャツを肌から剥がす。

階段から落ちた時に擦ったのか、脇腹から背中にかけて、赤黒い痣と擦り傷が広がっていた。シャツの白い生地に、乾きかけの血がべったりと張り付いている。

「…………」

上半身を剥き出しにしたまま、オレは力なく項垂れた。

αとしての威厳も、ストリートで磨いてきたプライドも、今のオレには何一つ残ってねぇ。ただの、傷だらけで無様な一人の男が、相棒だったはずの男に縋っている。その事実に、情けなくて涙がこぼれそうになる。

「……お前、……オレのこんな姿見て……ざまぁみろって、思わねぇのかよ」

冬弥が新しいタオルや消毒液を準備する背中に、掠れた声を投げかける。

「……あの日、お前をあんなに酷い言葉で追い出して……お前の大切な場所、全部めちゃくちゃにしたんだぞ、オレは。……なのに、なんで……そんなに、丁寧に……っ」

お前が優しくすればするほど、オレの犯した罪が、より鮮明に自分を締め付ける。

怒ってくれればいいのに。殴って、追い出してくれればいいのに。

そうすれば、少しは楽になれるかもしれないのに……お前は、ただ黙って、オレの傷口を見つめている。

「…、……消毒液…染みるの嫌……？」

「……っ、……嫌じゃねぇよ。お前が思う通りに……やってくれ」

冬弥のその、機色を窺うような、何をするにもオレの「許可」を求めてくる態度……。それが、あいつの意志をオレが根こそぎ奪っちまった証拠に見えて、喉の奥がヒリついた。

（……染みるのが嫌、だなんて……）

あの日、ステージでお前が浴びせられた罵声や、さっきオレがお前の差し入れを踏みにじった時の絶望に比べりゃ、消毒の痛みなんて、あってないようなもんだ。なのに、冬弥は今のオレを、腫れ物に触れるみたいに扱ってやがる。

「……好きにしろ。痛くたって構わねぇ。お前の、やりやすいように……」

そう言うのが精一杯だった。冬弥が震える手で綿球を傷口に当てた瞬間、焼けるような痛みが走る。身体が勝手に強張るが、オレは唇を噛み締めて、声を上げるのを必死に堪えた。

お前の細い指先が、オレの肌を掠める。

かつては隣で肩を並べて歌っていた、信頼の塊だったその指先が、今はただの「義務」としてオレの汚れを拭っている。

「……冬弥。お前、さっきから……オレの顔、一回も見てねぇな」

目の前で、傷口を消毒する冬弥の頭頂部を見つめる。

お前を、指示がないと動けねぇほど追い詰めたのはオレだ。オレが「二度と話しかけるな」なんて言ったから、お前は自分という存在を消して、ただオレを「怒らせないように」動く人形になっちまったのか。

「……ごめん。……ごめんな、冬弥……。オレ、……本当に、最低なことした……」

消毒液の匂いが、冬弥の家の冷たい空気と混ざり合う。

お前のその沈黙が、今のオレにはどんな罵倒よりも重く、深く、胸にのしかかっていた。

「…、」

「……っ、……いｯ、……」

傷口に冷てぇ消毒液が触れた瞬間、鋭い痛みが身体を突き抜けた。思わず奥歯を噛み締め、膝の上の拳に指が白くなるほど力がこもる。

だけど、声は出さなかった。出せるわけがねぇ。

冬弥は、何も言わずにただ淡々と手を動かしている。お前の指先から伝わってくるのは、温もりじゃねぇ。いつオレが怒り出すか、いつ不機嫌になるかっていう、張り詰めたような緊張感だけだ。

（……お前に、こんな顔させて……）

かつて、一緒に練習してた時に見せてくれた、あの穏やかな表情はどこへ行ったんだよ。

ただの作業として、オレの血を拭い去っていくお前の手元を見ていると、あの日、お前が差し出したパンケーキを、オレがどんなに酷いやり方で拒絶したかが鮮明にフラッシュバックしてくる。

「……冬弥。……痛くねぇよ。……だから、そんな……怯えたように、手を震わせんな……」

掠れた声でそう言っても、お前の指先の震えは止まらねぇ。

お前にとって、今のオレはもう相棒なんかじゃねぇんだな。いつ牙を剥くか分からねぇ、ただの「怖いアルファ」でしかないんだ。

「……なぁ、冬弥。……オレ、お前に……何て言えば、……もう一度、ちゃんと……」

言いかけて、言葉を飲み込んだ。

「ちゃんと」なんて、今のオレが望んでいいもんじゃねぇ。

消毒液が傷口に染みるたびに、お前を傷つけた罪悪感が、心臓を直接握りつぶしてくるみたいに苦しくて、オレはただ、されるがままに項垂れることしかできなかった。

冬弥の手によって、擦り傷の上に白い包帯が丁寧に巻かれていく。

その手つきは驚くほど慎重で、オレを刺激しないように、怒らせないようにという細心の注意が払われているのが痛いほど伝わってきた。

（……なんで、そんなに優しくすんだよ……）

オレは、お前の誇りを踏みにじって、お前が勇気を出して持ってきてくれたパンケーキを土足で潰したんだぞ。罵ってくれればいいのに、突き放してくれればいいのに。

お前のこの献身的な沈黙が、今のオレには、どんな言葉よりも鋭く胸に刺さる。

「……冬弥、もう……いい。……十分だ」

包帯が巻き終わる直前、オレは震える手で、冬弥の手首をそっと、壊れ物に触れるような力で掴んだ。

お前の肌は驚くほど冷たくて、どれだけの間、あいつが一人で凍りついていたのかを物語っていた。

「……これ以上、お前に……こんなこと、させられねぇ。……オレを助けたって、お前には……何の得もねぇだろ……？」

掴んだ手首を通じて、冬弥の拍動が伝わってくる。

早くて、不規則で……恐怖に怯える小動物みたいだ。

オレは、お前にとって、ただの「加害者」になっちまったんだな。

「……なぁ、……冬弥。オレのこと、……嫌いか？ ……それとも、もう……顔を見るのも、……怖くてたまらねぇか……？」

覗き込むようにして、うつむいたままの冬弥の瞳を探そうとする。

お前をこんな空っぽの殻の中に閉じ込めたのは、オレだ。

でも、それでも……。

もう一度だけ、お前と「相棒」として向き合いたいと願ってしまう自分を、心の底から軽蔑しながら、オレはあいつの反応を待った。

「……っ…」

掴んだ手首が、ビクッと大きく跳ねた。

その一瞬の反応に、オレは自分の心臓が凍りつくような感覚を覚えた。

冬弥は、オレに触れられただけで、こんなにも……呼吸を止めるほど怯えてんのか。

「……っ、……悪い、」

慌てて指を離す。

お前の肌に残った、オレの指の痕さえ、今は消えない汚れのように思えてきて、やり場のない手が空中で無様に震えた。

「……怖がらせる、つもりじゃなかったんだ。……ただ、もう……お前に、無理してほしくなくて……」

冬弥は、オレから視線を逸らしたまま、救急セットを片付けようと慌ただしく手を動かし始めた。その一挙手一投足が、まるで「次の指示」を待っているような、あるいは「この場から早く逃げ出したい」と叫んでいるような、不自然な速さだ。

（……ああ。……お前の目に、オレはもう映ってねぇんだな）

そこにいるのは、オレが壊した『青柳冬弥』の抜け殻だ。

どんなに言葉を尽くしても、どんなに謝っても、あの日お前の心に刻んだ「拒絶」は、そんな簡単に消せるもんじゃねぇ。

「……冬弥。……明日、学校に……来れるか？そんなの……聞ける立場じゃねぇのは、分かってる」

うつむいたまま、床を見つめて掠れた声を絞り出す。

「でも、……オレは、もう二度と……お前を、一人になんかさせねぇ。……お前が、オレを許さなくても……顔を見るのが嫌でも……。……オレは、お前の隣に……」

最後まで言いかける前に、喉の奥が熱くなって、言葉が詰まった。

お前にとって、それはもう「救い」じゃなくて「呪い」にしかならねぇのかもしれねぇのに。

「……嫌…。……彰人が、またこんな風になったら……っ…、」

「……っ、冬弥……」

あいつの口から漏れた、震えるような拒絶。

それが「オレが嫌いだから」じゃなくて、またオレが傷つくのが嫌だっていう……こんなボロボロにされた後でも、あいつがオレの心配をしてるんだって気づいた瞬間、胸の奥が張り裂けそうになった。

「……バカか、お前は……っ。なんで、そんな……っ」

お前をこんな風にしたのは、他でもねぇオレなんだぞ。

司センパイたちに突き落とされたのも、学校で針のむしろにされてんのも、全部オレが蒔いた種だ。お前が、そんなことに責任を感じる必要なんて、一ミリもねぇんだよ。

「……いいか、冬弥。よく聞け。オレがこうなったのは、お前のせいじゃねぇ。……オレがお前を裏切って、一人で勝手に自滅しただけだ」

オレは震える手で、もう一度、今度は力を入れずに、冬弥の細い肩にそっと触れた。

今度は拒絶されないように、ただそこに「いる」ことを伝えるためだけに。

「お前が怯える必要なんてねぇんだ。お前は……お前はただ、そこにいてくれるだけでいい。……これ以上、自分を責めんな。……頼むから」

お前の瞳に、少しでもいいから、自分を許す光が戻ってほしい。

オレが壊したお前の心を、今すぐには治せねぇかもしれない。けど、お前が「嫌だ」って泣くなら、オレは何度だってその言葉を拾い集める。

「……怖かったよな。一人で、ずっと。……ごめんな、冬弥。……もう、大丈夫だ。……オレが、……今度こそ、絶対に……お前を、守るから……」

そう言って、オレは情けなく震える身体を抱きしめるように、冬弥をゆっくりと自分の方へ引き寄せた。

「…、」

腕の中に収まった冬弥の身体は、驚くほど細くて、折れてしまいそうなくらいに強張っていた。

「……っ、……すまねぇ。……すまねぇ、冬弥……」

抱きしめた肩越しに、熱い塊が込み上げてくる。

お前をこんなに怯えさせて、自分を殺してまでオレに従うようにさせて……。αとして、相棒として、オレがやってきたことはどこまでも独りよがりで、残酷なことだった。

冬弥の身体からは、あの日のような甘ったるい匂いはしねぇ。ただ、微かに混ざる消毒液の匂いと、冷え切った吐息の気配だけが、オレの胸に痛烈に響く。

「……お前が、オレを助けなきゃって思ってんのは……オレを『相棒』だと思ってるからじゃねぇんだよな。……助けないと、また何かされるって……そう思わせてんだろ、オレが」

後悔で喉が塞がりそうになる。

それでも、オレはあいつを離せなかった。今ここで離しちまったら、本当にもう二度と、あいつの心に触れることはできねぇ気がしたから。

「……もう、指示なんて待たなくていい。……オレに、顔色なんて伺わなくていいんだ。……怒りたきゃ怒れ。……嫌なら、嫌だって、もっとハッキリ言ってくれ……」

冬弥の背中に回した手に、ぎゅっと力がこもる。

「……お前が、お前でいられる場所を……オレが全部奪っちまったけど。……一から、……いや、ゼロからでもいい。……もう一度、やり直させてくれねぇか……」

腕の中の冬弥は、まだ震えたままだ。

オレの言葉がどれだけ届いているのか、それとも、この温もりさえもあいつにとっては恐怖でしかないのか。

オレはただ、祈るような気持ちで、その震えが少しでも収まるのを待った。

腕の中で、微かに、本当に微かに冬弥が頷いたのが分かった。

「……っ、……ああ、……そうか」

その小さな肯定に、目頭が熱くなる。

でも、腕を通じて伝わってくる震えは止まってねぇ。

お前は今、心からオレを信じて頷いたんじゃねぇんだよな。そう答えないと、オレがまたどんな態度を取るか分からねぇから……自分を殺して、必死にオレの望む答えを差し出してくれたんだ。

（……クソ。……オレは、どこまでお前を追い詰めれば気が済むんだよ）

優しく抱きしめているつもりのこの腕さえ、今の冬弥にとっては逃げ場を塞ぐ檻みてぇに感じてるんじゃねぇか。そう思うと、抱きしめる力が自然と緩んだ。

「……ごめんな。……怖ぇよな。……急にこんな風に言われたって、信じろって方が無理だよな」

オレはゆっくりと冬弥を解放し、少しだけ距離を置いた。

右足の激痛が再びズキズキと脳を揺さぶるが、そんなもんどうでもいい。今は、目の前で呼吸を乱している冬弥を、一秒でも早く安心させてやりてぇ。

「……今日はもう、休め。……オレも、……お前の顔色をこれ以上悪くさせたくねぇし」

立ち上がろうとして、右足に力を込めた瞬間、鋭い痛みに顔が歪んだ。

「……っ、……が、……っ」

壁に手をついて、なんとかバランスを保つ。

無様だ。本当に、今のオレには何一つ残ってねぇ。

でも、その無様な姿を晒してでも、お前に伝えなきゃいけねぇことがある。

「……冬弥。……明日、もし……もし気が向いたらでいい。……お前が、……外に出てもいいって思えたら……連絡くれ。……連絡先、……オレ、消しちまったから……。……お前の方から、送ってくれると……助かる」

情けねぇお願いだ。でも、今のオレにはお前と繋がる手段すら残ってねぇんだ。

「……じゃあな。……手当て、……マジで助かった。……ありがとう、冬弥」

オレは一度だけ、あいつの瞳を真っ直ぐに見つめようとして、すぐに視線を逸らした。今のオレの目は、まだあいつを怖がらせちまうかもしれないから。

足を引きずりながら、玄関へと向かう。

お前の家を出たら、またあの刺すような視線が待ってる街だ。でも、もう逃げねぇ。

「……おやすみ」

「……彰人…、！…その……っ…足…、痛むから…。…傷も手当てできてない……。……泊まって…。」

「……っ、え……？」

ドアノブに手をかけたまま、オレの動きが止まった。

振り返ると、そこには震える声を絞り出して、必死にオレを引き止めようとしている冬弥がいた。

「泊まって、……って。お前……本気で言ってんのか？」

信じられなかった。あんなに酷いことをして、さっきまでオレに触れられるだけで呼吸を止めるほど怯えていたあいつが。それでも、オレのボロボロな姿を見て、放っておけねぇって言ってんのか。

（……なんでだよ。……なんで、そこまで……っ）

右足は、心臓の鼓動に合わせてズキズキと熱を持って暴れている。正直、一歩踏み出すたびに目の前が暗くなるほどの激痛だ。だけど、それ以上に冬弥のその言葉が、今のオレには痛くて、温かくて……。

「……お前、……本当にいいのかよ。オレがいたら、また……眠れねぇくらい怖い思い、させるかもしれねぇんだぞ」

わざと突き放すようなことを言ってみるが、声は情けなく震えていた。

冬弥の瞳を見れば、まだそこに薄い恐怖の膜が張っているのが分かる。でも、それ以上に「彰人をこのまま帰せない」っていう、あいつなりの、かつての相棒としての意地みたいなもんが見えた気がした。

「……ハッ、……本当、お前は……バカお人好しだな」

自嘲気味に笑いながら、オレはゆっくりとドアから離れた。

壁を伝い、再び冬弥のいるリビングの方へと足を引きずる。

「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ。……その代わり、……本当に嫌になったら、すぐ言えよ。……オレ、……お前の家のソファで大人しくしてるから」

そう言って、オレは再びソファに深く身体を沈めた。

張り詰めていた緊張が少しだけ解けて、同時に身体中の傷が悲鳴を上げ始める。

「……悪いな、冬弥。……何から何まで、……甘えっぱなしで」

「…、……何もないから…買い物行ってくる…。」

「……っ、おい、待てよ！」

立ち上がろうとして、右足に走った激痛に思わずソファへ崩れ落ちる。

「……っ、……あ、が……っ。……冬弥、いいって。買い物なんて、そんな……今の時間から一人で行くなんて、危ねぇだろ……っ」

顔を歪めながら、必死に声を絞り出した。

何より、お前は今……外に出るのが一番怖ぇはずだろ。

学校に来れなくなるほど追い詰められて、街中の連中に好奇の目で見られて……。そんなお前を、オレのメシのために夜の街に一人で出せるわけねぇ。

「……オレは、腹なんて減ってねぇよ。……水さえあれば、それで十分だ。だから……頼むから、そんな無理すんな」

ソファの端を強く掴み、冬弥の背中に呼びかける。

お前はまた、そうやって「何かしてやらなきゃいけない」って自分を追い込んでんだろ。オレが「泊まる」って言ったから、完璧にもてなさなきゃ、不備があったらまたオレが怒るんじゃないかって……。

「……冬弥。……こっち来て座れよ。……買い物なんていいから。……な？」

お前を一人で外に出すくらいなら、空腹で倒れた方がマシだ。

オレは必死に呼吸を整え、おびき寄せるように、でも決して威圧的にならないように、弱々しい苦笑いを浮かべてあいつを見た。

「……お前が、……そこにいてくれるだけでいいんだ。……本当に」

「…分かった」

冬弥が、まるでおもちゃの電池が切れたみたいに静かに隣へ座った。

「……おう。それでいい」

少しだけ、本当に少しだけ、リビングの空気が柔らかくなった気がした。隣から伝わってくる冬弥の体温はまだ微かに震えているけれど、さっきまでの「逃げ場のない緊張感」とは少し違う。

オレはソファの背もたれに深く体重を預け、天井を仰ぎ見た。

視界の端に映る冬弥の横顔は、相変わらずどこか遠くを見ているみたいで……。それでも、こうして隣にいられることが、今のオレには奇跡みたいに思える。

「……なぁ、冬弥。オレ、……さっきまで、マジで全部終わったと思ってたわ」

自嘲気味に、ポツリと言葉を落とす。

「学校でも、街でも……。どいつもこいつも、オレのことゴミを見るような目で見てきて。司センパイたちにあんな風にされて……。ああ、これがオレに相応しい最後なんだなって」

右足の疼きを噛みしめる。でも、その痛みがあるから、今こうしてお前の隣にいる現実を疑わずに済んでいるのかもしれねぇ。

「……お前が門を開けてくれた時、……マジで、心臓止まるかと思った。……お前にだけは、合わせる顔がねぇって……。……それなのに、お前……」

オレはチラリと隣の冬弥を見た。お前は今、何を思ってオレの隣に座ってんだ。

「……冬弥。……もし、……もしもお前が、また誰かに何か言われたり……嫌な思いしそうになったら、……その時は、絶対にオレを呼べよ。……オレが、……今度こそ、お前の前に立って、……全部、ぶっ飛ばしてやるから」

言葉にすればするほど、自分の無力さが浮き彫りになるけど。

でも、これだけは、お前に誓っておきたかった。

「…、……腕、手当てまだできてないから…。」

「……っ、ああ。そうだったな」

冬弥がオレの腕に視線を落としたのを見て、自分でも忘れていた擦り傷の痛みがぶり返した。階段で転げ落ちた時にやったんだろう。制服の袖が破けて、赤黒い血が肌に張り付いてやがる。

冬弥は、再び救急セットを引き寄せると、震える手で新しい綿球を取り出した。

「……悪いな。足だけで十分だったのに、……お前に、こんな汚れ仕事ばっかりさせて」

冬弥の指先がオレの二の腕に触れる。

その瞬間、あいつの身体がピクッと強張ったのが分かった。

怖ぇんだよな。αであるオレの肌に直接触れることが、今の冬弥にとっては、いつ爆発するか分からねぇ爆弾に触れるのと同じくらい、神経を削る作業なんだろう。

「……なぁ、冬弥。……そんなに、息詰めんなよ。……オレは、お前に何をされたって怒らねぇよ。……たとえ、消毒液ぶっかけられたってな」

わざと冗談めかして言ってみたが、冬弥は小さく唇を噛んだまま、黙々と作業を続けている。お前にとって、今のオレの言葉は「冗談」じゃなくて「機嫌を損ねないための台詞」に聞こえてるのかもしれねぇ。

「…………」

リビングに、消毒液のツンとした匂いと、冬弥の細い吐息だけが響く。

お前がオレの腕を丁寧に拭いていくたびに、あの日、お前を「お荷物」だと切り捨てた自分の声が、脳内でリフレインしてオレを責め立てる。

（……この手で、お前と一緒に上を目指すって誓ったはずなのに）

オレは、じっと手当てをされている自分の腕を見つめた。

冬弥。お前のその静かな献身に、オレはどうやって応えればいい？

「ありがとう」なんて言葉じゃ、お前が流した涙の数には到底足りねぇんだよ。

「……背中とかは…？」

「……背中、か」

冬弥にそう聞かれて、一瞬言葉に詰まった。正直、階段を転げ落ちた時に打ち付けた背中から腰にかけては、脈打つような鈍い痛みがずっと居座ってやがる。

「……ああ。……いや、正直に言うわ。結構、派手にやった。……多分、痣だらけだろうな」

隠そうとしたって、どうせお前には見透かされる。それに、今のオレがお前に嘘をつくのは、一番不誠実な気がした。

「……見苦しいかもしれねぇけど。……悪い、また頼めるか？」

オレはソファに座ったまま、少しだけ身体を前に倒して、冬弥に背中を向けた。

脱ぎ捨てかけたシャツを完全に肩から落とすと、ひんやりとした部屋の空気が、熱を持った傷口に触れてピリピリと刺す。

（……お前に、こんな……無様な傷跡まで見せることになるとはな）

背後で冬弥が息を呑む気配がした。鏡を見てねぇから分かんねぇけど、きっと、素人目に見ても酷い色になってんだろう。

司センパイたちのあの「正義」が刻んだ、オレという人間の不始末の証拠だ。

「……冬弥。……見ての通り、……マジで、情けねぇよな。……お前を守るなんて大口叩いたくせに、……このザマだ」

自嘲気味に呟きながら、後ろにいる冬弥の気配を待つ。

お前のその細い指先が、この汚ぇ傷跡に触れるのを想像するだけで、申し訳なさと、どうしようもねぇ情けなさで胸が潰れそうになる。

「……染みても、痛くても、文句は言わねぇから。……お前の好きにやってくれ」

「……氷水にタオル浸して、それを背中につけるとかでもいいか…？……ごめん…俺知識なくて…、」

「……ああ、それで十分だ。むしろ、それが一番助かる……」

背後から聞こえる冬弥の、どこか自信なさげで、でも一生懸命に答えを探そうとする声。

「知識がなくて」なんてお前に謝らせちまってるのが、またオレの胸をチクチクと刺しやがる。お前は音楽や勉強にはあんなに詳しいのに、こんな怪我の手当てなんて、本当なら一生縁がなくてよかったはずのもんなんだ。

「……悪いな、冬弥。……冷てぇの、ありがてぇわ。……今、背中が火を吹いてるみたいに熱いんだ」

洗面器にタオルを浸す水の音が、静かなリビングに響く。

やがて、氷水でキンキンに冷やされたタオルの気配が背中に近づいてきた。

「……っ、……つ、……！」

肌に触れた瞬間、あまりの冷たさと刺激に肩が大きく跳ねた。

でも、その後にじわじわと熱を奪っていく感覚が、昂ぶっていた神経を少しずつ落ち着かせてくれる。

「……ふぅ、……。……あぁ、……きくわ……」

冬弥の手が、タオルの上からそっと、オレの背中の痣を抑える。

その手のひらの重みを感じながら、オレは深く息を吐き出した。

（……温けぇな、……お前の手）

氷水で冷やされているはずなのに、タオルの向こう側にある冬弥の体温だけが、やけに鮮明に伝わってくる。

「……なぁ、冬弥。……お前、……本当にいいのかよ。……こんな……ボロボロのアルファ、家に置いて。……お前の家族に……、親父さんにバレたら、……また怒られるんじゃねぇのか」

お前の家の厳格さは、オレもよく知ってる。

自分のことより、今はただ、お前の平穏をまたオレが壊しちまうんじゃねぇかって……そのことばかりが怖くてたまらねぇ。

「…いや……出張だからいない…。…母さんも付き添ってて」

「……そうか、出張か。……なら、少しは安心だな」

親父さんの名前を出しただけで冬弥の肩が震えねぇか心配だったが、不在だと聞いて、オレ自身も胸をなでおろした。あんなに厳格な人のことだ、今の冬弥の状態を知られたら、それこそ何を言われるか分からねぇし……ましてや、その原因を作ったオレがこんな姿で上がり込んでるなんて知られたら、お前を連れ戻すどころの話じゃ済まなくなる。

「……母さんもいないのか。……じゃあ、本当に一人だったんだな、ずっと」

冷たいタオルが背中の熱を吸い取っていく。心地よさと同時に、誰もいないこの大きな家で、冬弥がたった一人、恐怖や絶望と向き合っていた時間を想像して、また胃の奥がキリキリと痛んだ。

お前は、この静かすぎる家の中で、オレの罵声を、あの日のステージの雑音を、何度も何度も思い出してたんだろうな。

「……悪いな。そんな時に、またオレが……騒がしくしてよ」

オレはうつむいたまま、タオルの上から背中を抑えてくれている冬弥の手を、意識の片隅で感じていた。

「……なぁ、冬弥。……親父さんが帰ってくるまで、オレ……ここにいてもいいのか？お前が一人でいるのが、……その、なんだ……。……心配、なんだわ」

本当は、オレがお前にそばにいてほしいだけなのかもしれねぇ。

でも、今のこの弱りきったお前を一人にするのは、階段から突き落とされた時以上の恐怖をオレに与える。

「……嫌なら、無理にとは言わねぇけどな」

「…冷蔵庫、なんもなくて……。カロリーメイトしか食べてない…。」

「……っ、カロリーメイトだけ……？」

その一言に、オレは絶句した。

一ヶ月だぞ。お前、この広い家で一人きり、そんなもんだけで食いつないでたのか。

ただでさえ細ぇ身体が、これ以上薄くなっちまったらどうするんだよ。あんなにストイックに歌の練習してた時だって、しっかり食わねぇと声が出ねぇって言ってたじゃねぇか。

（……クソ。オレが、お前から『食事を楽しむ心』まで奪っちまってたのか）

「……冬弥。お前、そんなんじゃ身体がもたねぇ。……っ、悪い、ちょっとスマホ貸せ」

オレは自分のスマホ……あいつの連絡先を消した、あの忌々しい機械を取り出そうとして、手が止まった。今さら、どのツラ下げて連絡手段なんて。

「……いや、いい。……お前のスマホから、出前頼もうぜ。今の時代、スマホ一つでありとあらゆるもんが届くんだ。……お前の好きなもん、何でもいい。肉でも、温かいスープでも、……それこそ、甘ぇもんでも。オレが全部払うから」

本当は、オレがキッチンに立って、お前に温けぇもんを作ってやりたかった。でも、この足じゃお前の足を引っ張るだけなのが、死ぬほど情けねぇ。

「カロリーメイトはもういい。……今日は、ちゃんとしたもん食おう。……な？オレも、お前が何か食ってくれるのを見ねぇと、……安心して眠れねぇんだわ」

オレはソファに座ったまま、冬弥の顔を真っ直ぐに見つめた。

お前の頬が、少しでもふっくら戻るまで。

お前が「美味い」って笑えるようになるまで。

オレは、どんなに嫌われても、お前の前から消えてやるつもりはねぇ。

「……何がいい？麺か？米か？ ……お前の気分で決めてくれ」

「……俺はなんでも…、」

「……『なんでもいい』、か」

その言葉が、ただの遠慮じゃなくて、本当に「選ぶ気力」さえも失っちまってる響きで、また胸が締め付けられた。お前はいつも、パンケーキの話になると「あそこの店が気になる」とか、楽しそうに話してくれてたはずなのに。

「……分かった。じゃあ、オレが決めるぞ。文句言うなよ？」

オレは、お前から預かったスマホの画面を慎重に操作し始めた。指先が少し震える。

今の冬弥の細い身体に必要なのは、重すぎるもんじゃなくて、内側から温まるもんだ。

「……よし、うどんにする。……あと、親子丼も一つ。お前、少しは米も食わねぇと力出ねぇだろ。……余ったらオレが食うから、無理しなくていい」

注文を確定させて、スマホをテーブルに置く。

静まり返ったリビングに、出前の到着を待つまでの、少しだけ気まずくて、でもさっきよりはずっと穏やかな時間が流れ始めた。

「……冬弥。お前、ずっとこの家に閉じこもってたんだな。……窓も、開けてなかったのか？」

カーテンが閉まりきった部屋を見渡す。

ここには、お前を責める奴も、笑う奴もいない。だけど、ここにあるのは「安全」じゃなくて、ただの「孤独」だったんだな。

「……飯が届くまで、少しだけ窓、開けねぇか。……冬の空気は冷てぇけど、……少し入れ替えた方が、……お前も、楽になれる気がして」

オレは壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がろうとする。

「……あ、……っ、……」

右足の激痛に顔をしかめるが、今度はお前の手を借りずに、自分の足で窓まで行きたかった。お前のために、少しでもこの淀んだ空気を変えてやりたかったんだ。

「…彰人、」

「……っ、わりぃ。……情けねぇな、本当に」

お前の肩に手を預けると、驚くほど細いのに、しっかりとオレの体重を支えてくれる感覚が伝わってきた。ビクビクと怯えていたさっきまでとは違う、かつての「相棒」としての冬弥の反射がそこにあって、不覚にも泣きそうになる。

「……ありがとな、冬弥。……助かる」

お前に支えられながら、一歩一歩、慎重に窓際へと進む。

お前の体温をこんなに近くで感じていると、あの日、お前を突き放した自分の拳を叩き潰してやりたくなる。こんなに温かくて、こんなに脆いお前を、オレは……。

窓際に辿り着き、枠に手をかける。

「……開けるぞ」

ゆっくりと窓を引くと、夜の冷たい空気が一気に部屋の中へ流れ込んできた。

淀んでいた空気がかき混ぜられ、街の遠い喧騒と、冬の夜特有の澄んだ匂いが鼻をくすぐる。

「……ほら、……結構、いい匂いすんぞ。……外の空気は」

オレは窓枠に寄りかかりながら、隣で一緒に外を見つめる冬弥の横顔を見た。

冷たい風に、お前の透き通るような髪が少しだけ揺れる。

その瞳に、ほんの少しでもいいから、外の世界が「敵」ばかりじゃないってことが伝わればいいんだが。

「……冬弥。……飯が届いたら、……明日からのこと、少しだけ話さねぇか。……無理に学校に来いなんて言わねぇ。ただ、……お前が、お前自身を嫌いにならない方法を、一緒に考えさせてほしいんだ」

風に当たって少し赤くなった冬弥の耳朶を見つめながら、オレは静かにそう言った。

「…、」

冬弥は何も言わず、ただ静かに外の景色を眺めていた。

冷たい夜風が二人の間を通り抜けていく。かつてステージの袖で、出番を待ちながら一緒に吸い込んだ、あのひりつくような空気とは違う。今はただ、痛みを分かち合うための静寂がそこにあった。

「……寒かったか」

冬弥の肩が小さく震えたのを見て、オレは慌てて窓を閉めた。

急激に静まり返った部屋の中で、カチャリと鍵を閉める音がやけに大きく響く。

「……座ろうぜ。あぁ、っと……」

再びソファに戻ろうとしたその時、インターホンの音が鳴った。

「……来たな。冬弥、……わりぃ。オレ、この足じゃ受け取りに行くのも一苦労だ。……お前に頼んでもいいか？」

そう言って、オレは無理やり口角を上げて笑ってみせた。

お前に「役割」を与えてやりたかった。オレをケアするだけの「義務」じゃなくて、これから一緒に飯を食うための、対等な準備を。

「……オレの分も、そこ置いといてくれ。……一緒に、食おう。……な？」

冬弥が玄関へと向かう背中を見送りながら、オレは深く息を吐き出した。

お前が少しでも、この温かい食事を『喉を通るだけの物質』じゃなくて、『美味い』と思える時間にしてやりたい。

……もし飯が食い終わったら、少しだけ、お前の好きなクラシックの曲でも流してくれねぇか？お前の部屋に流れる音が、オレの罵声じゃなくて、お前の好きな音楽に上書きされるまで、オレはここにいるから。

「……分かった…、でも…そんなに食べられないものと思う…、」

「……ああ、分かってる。無理強いはしねぇよ。……お前のペースでいい」

お前の言葉に、オレは余計な口を挟むのを止めた。

「しっかり食え」とか「美味いぞ」なんて、今の状態のお前に押し付けるのは、またオレの独りよがりになるだけだって、やっと気づいたから。

冬弥が受け取ってきた袋から、温かいうどんの容器を取り出す。

湯気と一緒に、出汁の優しい匂いがふわりと広がった。

「……置くぞ。こっちはお前の。……こっちはオレの」

テーブルに並べて、オレは黙って自分の箸を手にとった。

冬弥の顔色を窺いすぎるのも、きっと今のあいつには負担なんだろう。

オレはただ、隣で静かに、温かいもんを口に運ぶ。

ズズッ、と麺を啜る音だけが、静かなリビングに響く。

お前が、一口でも、二口でも……。

この温かさが、少しでもお前の身体の芯に届けばいい。

「…………」

オレも今は、何も言わねぇ。

ただ、こうしてお前と肩を並べて飯を食ってる。

今はその事実だけで十分だ。

飯を食い終わった後も、部屋には重たい沈黙が流れていた。

冬弥の容器には、まだ半分以上の中身が残っている。けれど、今のあいつにとっては、それが精一杯なんだろう。

「……ごちそうさま。片付けはオレがやるから、そのままにしとけ」

オレはテーブルの上のゴミをまとめ、不自由な足を引きずりながらキッチンへ運んだ。余計なことは言わねぇ。ただ、動くことで、お前に気を遣わせる時間を少しでも減らしたかった。

「……なぁ。もう夜も遅ぇし、そろそろ休もうぜ」

リビングに戻り、ソファの横に置かれたクッションを整える。

「オレはここで寝る。……冬弥、お前はちゃんと自分のベッドで寝ろよ。……何かあったら、すぐ呼べ。……聞こえるように、ドアは少し開けといていいから」

本当は、お前を一人にするのも心配だけど、今の距離感ならこれが限界だ。

オレはソファに横たわり、慣れねぇ狭さに身を沈めた。

「……おやすみ、冬弥」

目を閉じると、右足の痛みと、お前の震える肩の感触が、暗闇の中で交互に浮かび上がる。

明日が来たからといって、何かが劇的に変わるわけじゃねぇ。

それでも、お前が明日、今日より少しだけ長く息ができるように。

オレは、静かに眠りにつくお前の気配を待った。

「……っ…。…、」

「……冬弥？」

横になったまま、視界の端でお前の動きを追っていたオレは、その異様な光景に心臓が跳ねた。

お前は自分の部屋に行くどころか、リビングの、それも壁際の隅っこにうずくまって……膝を抱えて、まるで自分をこれ以上小さく見せようとするみたいに丸まっちまった。

「……おい、何してんだよ。そんなとこで……」

慌てて身体を起こそうとしたが、右足の激痛が走って声が詰まる。

暗がりのなか、お前の震えはさっきよりもずっと酷くなっているように見えた。

（……クソ。……オレのせいだ）

オレが「泊まる」なんて言ったから。オレがすぐそばにいるという現実が、お前の身体を、心を、そこまで強張らせてんのか。安全な場所なんて、この家のどこにもないって、お前にそう思わせてんのは……他ならぬオレだ。

「……冬弥。……悪かった。……やっぱり、オレがここにいるのは間違いだったんだな」

声をかけようとして、思いとどまる。

今のオレが近寄れば、お前はもっと追い詰められるだけだ。

「……いい。……お前がそこがいいなら、無理に動けとは言わねぇ。……けど、これだけは持ってけ」

オレはソファに置いてあった毛布を、なるべく威圧感を与えないように、ゆっくりと床を滑らせるようにして、お前の足元まで押しやった。

「……床は冷てぇから。……それ、被ってろ。……オレは、もう寝る。……何もしねぇから。……お前のこと、見ねぇようにしてるから……。だから、少しでも……身体、休めろよ……」

オレは反対側を向いて、お前から視線を外した。

背中で、お前の荒い吐息が聞こえる。

お前をこんな姿にまでして、オレは何が「相棒」だ。何が「守る」だ。

「…………」

暗闇の中、オレはただ自分の拳を強く握りしめることしかできなかった。

「……いつもここだから大丈夫…、」

「……いつも、ここ、だと……？」

冬弥が押し返してきた毛布を見つめたまま、オレの思考が止まった。

その言葉の重みが、心臓を直接握りつぶされたみたいに痛い。一ヶ月、お前は……自分の部屋のベッドじゃなく、この冷たくて硬い床の隅っこで、ずっと夜をやり過ごしてきたのか？誰かに襲われるのを待つみたいに、それとも、自分を罰するみたいに……。

「……っ、そんなわけ、ねぇだろ……」

声を荒らげそうになって、必死に飲み込んだ。今、オレが感情をぶつければ、お前はもっと縮こまってしまう。

「……大丈夫なわけ、ねぇだろ……冬弥。お前、ずっとこんなところで……」

返された毛布をもう一度手に取るが、それをまた無理に渡すこともできねぇ。お前にとって、オレから与えられるものは、たとえ防寒のための毛布であっても、支配の象徴にしか見えてねぇのかもしれねぇから。

オレはソファから力なく床にずり落ち、お前と少しだけ距離を置いた場所で、同じように背中を壁に預けた。

「……分かった。じゃあ、オレもここでいい。ソファは……お前の家の立派なやつすぎて、落ち着かねぇんだわ」

嘘だ。右足は悲鳴を上げてるし、身体中が痛ぇ。でも、お前をその孤独な暗闇の中に一人で置いておくことなんて、今のオレにはできねぇ。

「……毛布、ここに置いとくからな。……気が向いたら使え」

オレはお前から視線を逸らし、反対側の壁をじっと見つめた。

お前をこれ以上追い詰めないように。でも、お前が一人じゃないことだけは伝わるように。

「…………寝るぞ。……おやすみ」

「…でも、足がっ……、」

「……っ、足なんて、どうでもいいんだよ」

お前の口から出た言葉が、自分の恐怖よりもオレの怪我を案じるものだったから、余計に胸が締め付けられる。

「いいか、冬弥。オレの足が痛むのは、オレが自分で蒔いた種のせいだ。自業自得なんだよ。……でも、お前がそんな、部屋の隅で凍えてるのは……それは全部、オレのせいなんだわ」

本当は、お前を抱きしめてベッドまで運んでやりたい。でも、今のオレが触れれば、お前はまた壊れちまうかもしれない。それが分かってるから、これ以上近づけねぇ。

「頼むから、自分のことを一番に考えてくれ。……オレのことは、放っておいていいんだ。痛かろうが、無様だろうが……。お前が少しでも、マシな場所で寝てくれる方が、今のオレにはよっぽど救いなんだよ」

オレは壁に後頭部を預け、自嘲気味に息を吐いた。

「……そんなとこにいたら、身体も心も、どんどん固まっちまうぞ。……お前がそこから動かねぇなら、オレもここを動かねぇ。……意地でもな」

お前にとって、オレのこの「意地」すら、まだ脅迫みたいに聞こえてるのかもしれねぇけど。

それでも、お前を一人きりでその暗闇に置いておくことだけは、もう二度としないって決めたんだ。

「……冬弥。……毛布、使え。……な？」

冬弥が、まるではじかれたようにビクッと肩を揺らし、それから機械的に……あるいは、そうしなければならないと自分に言い聞かせるように、深く、静かに頷いた。

その頷き方を見て、オレは奥歯を噛み締めた。

お前は今、オレの言葉を「気遣い」として受け取ったんじゃねぇ。

「毛布を使え」「そこから動くな」っていう……逆らっちゃいけない『命令』として受け取ったんだな。

（……クソ。何が『意地でも』だ。何が『救い』だ。結局オレは、また言葉の暴力でお前を縛り付けてるだけじゃねぇか……）

「……っ、…………あぁ」

言葉を返そうとして、喉の奥が熱くなって言葉が出てこねぇ。

お前に優しくしたいと思えば思うほど、その優しさがお前を追い詰める凶器に変わっていく。この一ヶ月、オレが植え付けた恐怖は、そんな簡単に消せるもんじゃねぇって、突きつけられた気分だ。

「……悪い。……今の、命令じゃねぇんだ。……忘れてくれ。……好きなようにしていい……。本当に、……好きなように」

オレは力なく首を振って、持っていた毛布を床に置いた。

お前の視界に入らないように、さらに身体を小さく丸めて、壁の向こう側を向く。

「……寝るわ。……マジで、もう何も言わねぇから。……勝手に喋って、悪かった」

静まり返ったリビングで、オレは自分の荒い呼吸を必死に抑えた。

隣で気配を殺している冬弥。

お前がその毛布を手に取るのか、それとも、命令が解除されたことに戸惑って、さらに硬直しているのか。それすら確認するのが怖くて、オレはただ、痛む右足を抱えながら、暗闇の中でじっと耐え続けた。

「……っ…別にそんなつもりじゃ……ごめん……。」

「……っ、いや、謝んな。謝るのはオレの方だ」

冬弥の震えるような、消え入りそうな謝罪。それを聞いた瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。

お前が謝る必要なんて、一ミリもねぇんだよ。悪いのは、お前にそんな顔をさせてるオレなんだ。

お前が「命令」だと感じてしまったのは、お前のせいじゃない。オレがこれまで、お前に拒絶を許さないような、余裕のない言葉ばかりをぶつけてきたからだ。

「……ごめんな、冬弥。オレが……お前をそんな風に、追い込んじまってたんだな」

オレは壁を向いたまま、絞り出すように言った。

今、お前の顔を見たら、情けなくて涙が止まらなくなりそうだった。

「命令なんかじゃねぇ。お前が謝ることも、オレの顔色を窺うことも……本当は、何一つしなくていいんだ。……でも、すぐには信じられねぇよな。……悪かった。黙るわ」

オレはそれ以上、何も言わずに目を閉じた。

お前の気配が少しだけ揺れて、それからまた、静かな沈黙が戻ってくる。

（……いつか、また。お前が自分の意思で笑って、自分の意思でオレを罵倒できるくらい……元に戻れるまで。オレは、何度でもやり直すからな）

暗闇の中、冬の夜気だけが静かに二人を包んでいく。

冷たい床の上、お前とオレの距離はたった数メートルなのに、そこにはまだ、オレが壊してしまった深い溝が横たわっていた。

「…、」

突然の衣擦れの音に、オレは思わず肩を揺らした。

（……冬弥？）

暗闇の中、ゆっくりと、でも確かな意志を持って立ち上がるお前の気配。

オレは刺激しないように、壁を向いたままじっとしていた。お前がどこへ行こうとしてるのか、それともオレから逃げようとしてるのか、心臓が嫌なリズムを刻み始める。

だけど、聞こえてきたのは離れていく足音じゃなかった。

お前の気配は、ゆっくりと……本当に一歩ずつ、慎重にこっちへ近づいてくる。

「…………っ」

息を止めた。

やがて、オレのすぐ後ろでお前の気配が止まる。

冬弥の細い吐息が、すぐ近くで聞こえる。

お前が何をしようとしているのか分からなくて、怖くて、でも……逃げちゃいけない。

「……冬弥？」

オレは、最低限の音で、掠れた声を絞り出した。

威圧感を与えないよう、寝転んだまま、ゆっくりと首だけでお前を見上げる。

暗がりの中で立っているお前の表情は、よく見えない。

でも、その手には、さっきオレが床に置いたあの毛布が握られていて。

「……っ、冬弥……？」

背中に、さっきよりもずっと冷たくて重みのある感覚が戻ってきた。

お前……部屋の隅っこで縮こまってたのは、怯えてただけじゃなかったのか。

溶けかかった氷嚢を取り替えるために、わざわざ立ち上がって、また準備してくれたのか。

「……ありがとな。……冷てぇ……、けど、気持ちいいわ」

お前がオレのすぐ後ろに膝をついて、慎重に氷嚢の位置を整える。その指先が、ほんの一瞬だけオレの剥き出しの肌に触れて、すぐに熱を避けるみたいに引っ込んだ。

お前はまだ、オレに触れるのが怖いんだな。

それなのに、こうしてオレの怪我のために動いてくれる。

「……冬弥。そんな……甲斐甲斐しくしなくていいんだぞ。……お前、自分のことだけ考えてればいいって言っただろ」

そう言いながらも、お前の献身が、ズタズタになったオレの胸を温めていくのが分かった。

氷の冷たさが痣の熱を鎮めてくれるみたいに、お前の存在が、オレの中の焦りや罪悪感を、ほんの少しだけ和らげてくれる。

「…………」

お前は何も言わず、ただ丁寧に氷嚢を固定しようとしてる。

その横顔を盗み見ると、お前の瞳は、まだどこか遠くを見ているような、深い哀しみを湛えたままだった。

「……隣、……座れよ」

オレは壁際、お前が座るためのスペースを少しだけ空けて、床をポンポンと叩いた。

「隅っこよりは、ここ……壁があって落ち着くぞ。……毛布、一緒に使おうぜ。……オレも、一人じゃちょっと寒ぃんだわ」

わざとらしく鼻をすすってみせる。

「命令」じゃなく、ただの「わがまま」として届くように。

お前を暗闇の隅から、少しでもオレの側に引き寄せたくて。

「……待ってて…。…彰人…これ使って、」

「……冬弥」

お前、自分の部屋まで行って……重てぇのに、わざわざ布団まで運んできてくれたのか。

広げられた布団の温かそうな質感が、この殺風景で冷え切ったリビングに、場違いなほどの優しさを持ち込んでくる。お前が今のオレにできる「精一杯」を探して動いてくれたんだと思うと、胸の奥が熱くなって、視界が滲みそうになった。

「……ありがとな。……じゃあ、お言葉に甘えて」

オレはゆっくりと身体を引きずり、お前が敷いてくれた布団の上に腰を下ろした。床の硬さが消えて、お前の体温が残っているような柔らかさが身体を包み込む。

「……あったけぇわ。……マジで、生き返る……」

お前は布団を渡し終えると、また少し距離を置こうとした。でも、オレは咄嗟に布団の端をめくって、隣のスペースを空けた。

「……冬弥。お前も、入れよ。……そんな隅っこでまた丸まってたら、オレ、申し訳なくて一睡もできねぇ」

お前の顔を真っ直ぐ見る。

「……これは、相棒としての『お願い』だ。……お前を一人で震えさせるために、ここに来たんじゃねぇんだよ」

お前が戸惑ったように、視線を泳がせる。

その瞳が、オレの言葉の「裏」を探るのをやめて、ただの「願い」として受け取ってくれるのを、オレは祈るような気持ちで待ち続けた。

「……っ…ぁ…分かった…。」

「……っ、…………」

冬弥が、またあの、感情を押し殺したような顔で頷いたのを見て、オレは自分の失言を呪った。

（……クソ。まただ。『お願い』なんて言っておきながら、結局オレはお前に、断る余地なんて与えてねぇじゃねぇか……）

お前のその強張った身体が、「分かった」という言葉の裏にある「従わなきゃいけない」っていう強迫観念を物語ってやがる。

お前にとって、今のオレの言葉は全部、かつての親父さんがお前に押し付けてきた「正論」と同じくらい、逃げ場のないものに聞こえてるんだな。

「……冬弥。……わりぃ、今の、無しだ」

オレはめくっていた布団の端を、そっと下ろした。

「……お前の好きな場所でいい。……お前が、一番……マシだって思えるところで。……命令なんて、もう二度としねぇって決めたのに。……ごめんな」

オレは布団を独り占めする形になったまま、少しだけ位置をずらして、お前との間に物理的な距離を作った。

「……オレは、ここで寝る。……お前がどこにいても、もう何も言わねぇから。……だから、そんなに怖がらねぇでくれ……」

声を震わせないようにするのが精一杯だった。

お前を救いたいと願うたびに、自分の傲慢さが浮き彫りになって、お前をさらに深く傷つけていく。

「…………おやすみ、冬弥」

オレは布団の中に潜り込み、背中を向けて丸まった。

視界を遮れば、お前が少しでも楽になれるんじゃないか。そう願うことしか、今のオレにはできなかった。

「……っ…。」

背中で、冬弥が立ち尽くしたまま動かない気配が伝わってくる。

（……動けねぇんだな。何が『正解』か分からなくて……）

「好きなようにしていい」と言ったことが、逆にお前を迷わせて、縛り付けている。今の冬弥にとっては、放置されることも、選ばされることも、全部が「罰」みたいに感じられるのかもしれない。

オレは布団の中から、顔だけを少しだけお前に向けた。

「……冬弥。立ちっぱなしじゃ、疲れちまうぞ。……椅子でも、ソファでも……なんでもいい。お前の身体が、一番楽な形にしてくれ」

できるだけ声を低く、穏やかに。

お前の思考を急かさないように、ゆっくりと言葉を置く。

「……オレは、もう寝るからな。……お前のこと、見てねぇから。……本当に。……おやすみ」

オレは再び目を閉じ、自分の呼吸を整えることに集中した。

お前がどこに座ろうと、どこで寝ようと、それを「評価」したり「拒絶」したりしない。ただ、同じ部屋に息をしている人間がいる。今はそれだけの存在になろうと努めた。

暗闇の中、時計の針が刻む音だけがやけに大きく響く。

お前が、少しでも強張った身体を緩めて、どこかに身を預けられるようになるまで。オレはただ、静かに待つことにした。

結局、お前はまた……あの部屋の隅っこに戻っちまったんだな。

暗闇に目が慣れてくると、少し離れた壁際で、再び膝を抱えて小さくなるお前の輪郭が見えた。布団も毛布も使わず、ただ冷たい壁に背を預けて。

（……お前にとって、そこが一番『安全』なんだな。何も期待せず、誰の視線も届かない、その場所が）

オレが持ってきた毛布も、お前が運んできてくれた布団も、今の冬弥にとっては「いつ奪われるか分からない贅沢」か、あるいは「オレの顔色を窺うための道具」にしかならなかった。

それが、たまらなく情けねぇ。

「…………」

オレは何も言わなかった。また何か言えば、お前をそこから立たせてしまう。また「命令」に従わせようとしていると怯えさせてしまう。

お前がそこに座ることを選んだのなら、今はそれが、お前にとっての「正解」なんだ。

オレは布団の中で、お前の座る隅っこの方へと、こっそり足元を向けた。お前が寒さに耐えかねて、もし少しでもこちらに手を伸ばしたくなった時、すぐに気づけるように。

「……ふぅ、……」

わざと大きく、深く息を吐いて、寝入ったふりをする。

お前を監視していないことを示すために、力を抜いて、暗闇に身を任せる。

お前が、その冷たい場所で、ほんの数分でもいいから……深い眠りに落ちてくれることを祈りながら。

「…、」

（……ダメだ。完全に、袋小路に入っちまってる……）

寝たふりをしていても、お前の意識がピンと張り詰めているのが痛いほど伝わってくる。

「自由にしろ」と言えば正解を探してパニックになり、「こうしろ」と言えば強制される恐怖に怯える。お前の中の『相棒』という場所が、オレが壊したせいで、今は空っぽの……あるいはトゲだらけの地雷原になっちまったんだ。

何時間経っただろう。窓の外が、夜の闇から少しずつ、白んだような、冷たい灰色の空気に変わり始めている。

お前は一歩も動かず、瞬きすら忘れたような静かさで、ずっとそこに座り続けている。

オレも、そんなお前を置いて眠れるわけがなかった。

「……冬弥」

オレは布団を跳ね除け、痛む足を引きずりながら、お前が座っている隅っこの、少し手前まで這うようにして近づいた。

隣に並ぶんじゃねぇ。お前を追い詰めるような正面でもねぇ。

お前の視界の端に入るか入らないかくらいの場所に、ただ、オレも床に座り込んだ。

「……もう、朝になっちまうな。……結局、お前、一睡もしてねぇだろ」

問い詰めるわけじゃない。ただ、事実を口にする。

お前の横顔は、不健康なまでに青白くて、今にも消えてしまいそうだ。

「……なぁ、冬弥。オレが今からやることは、命令じゃねぇ。お願いでもねぇ。……ただの、オレの勝手な独り言だ。……だから、お前は聞かなくていいし、答えなくていい。……そこから動かなくてもいいんだ」

オレは壁に頭を預け、白み始めた天井を見上げた。

「……オレな、キッチンで何か温けぇもん淹れてくるわ。……お前の分も、勝手にそこに置いとく。……飲むか飲まねぇか、いつ飲むか……全部、お前が決めていい」

お前に「選択」をさせるのが今の負担なら、オレが勝手に「提供」して、その後の処理をお前に丸投げする。お前がそれを無視しても、オレは怒らねぇ。

オレは壁をつたって、ゆっくりと立ち上がった。

「……少しだけ、待ってろ」

お前から離れ、キッチンへと向かう。

お前のために何かを作る。今はそれだけが、この壊れちまった関係の中で、唯一お前を傷つけずにいられる手段のような気がしたんだ。

キッチンに立ち、震える手で電気ケトルのスイッチを入れた。

静まり返った家の中に、水が沸騰する低い音が響き始める。

（……何がいいかな。コーヒーは今のあいつには刺激が強すぎるか……）

棚の奥を探ると、いつかお前が「少し甘いものが飲みたい」と言って買っておいたココアの袋を見つけた。あの日のお前は、まだ普通に笑って、普通に自分の好みを口にしてたんだよな。

マグカップに粉を入れ、お湯を注ぐ。

甘くて温かい湯気が、オレの鼻先をかすめた。

「…………」

お前の分とオレの分。二つのカップを持って、リビングに戻る。

お前は、さっきと変わらない場所で、まだ石像みたいに固まって座っていた。

オレは、お前の手の届く範囲に、でもお前のパーソナルスペースを侵しすぎない絶妙な距離に、そっとマグカップを置いた。

「……ココアだ。……勝手に置いとくぞ。……冷めてからでもいいし、一口もつけなくてもいい。……こいつの処遇は、お前に任せるわ」

オレは自分用のカップを持って、少し離れた位置に座り、一口啜った。

甘さが、一睡もしていない身体に重たく染み渡る。

「…………」

お前は、置かれたカップをじっと見つめている。

湯気がゆらゆらと、お前の虚ろな瞳の前で揺れている。

お前がこの温かさに手を伸ばすのが先か、それとも朝日が完全に部屋を照らし出すのが先か。

オレは、お前を急かすような視線は送らず、ただ自分の中の冷え切った心を温めるように、ゆっくりとココアを飲み続けた。

「……冬弥。……少しだけ、話していいか。……返事はいらねぇ。お前はただ、そこに座って……気が向いたら聞いててくれ」

オレはマグカップを両手で包み、立ち上る湯気の向こう側を見つめた。お前を直視すると、またお前を強張らせちまうからな。

「……オレな、ずっと勘違いしてたんだ。……相棒なんだから、ぶつかり合うのが当たり前で、本音を叩きつければ、いつか分かり合えるって……。……でも、それはオレが『お前もオレと同じくらい強い』って、勝手に決めつけてただけだった」

一口、ぬるくなったココアを飲み込む。

「お前がどれだけ繊細で、どれだけ独りで抱え込んでたか……。オレは、一番近くにいたはずなのに、何も見てなかった。……いや、見ようとしてなかったんだと思う。……ただ自分の理想を、お前に押し付けてただけだ」

静まり返った部屋で、自分の声だけがやけに響く。

「……一ヶ月前、あんなひどいこと言った時……。……オレ、本当は怖かったんだ。お前がどんどん遠くに行っちまう気がして……焦って、最低な言葉で、お前を繋ぎ止めようとしちまった。……でも、それは繋ぎ止めるんじゃなくて、お前の心を壊す行為だったんだな」

オレは自嘲気味に笑って、床に視線を落とした。

「……今さら謝ったって、許してもらえるなんて思ってねぇ。……ただ、これだけは知っておいてほしい。……お前が今、何を考えてるか分からなくても、……何もしなくても、……たとえ、歌えなくなったとしても。……オレにとっての相棒は、世界中で、……お前一人だけなんだわ」

お前の肩が、ほんの少しだけ揺れた気がした。

「……だから、ゆっくりでいい。……お前が自分を取り戻すまで、オレは何度でもここに来るし、何度でも飯を持ってくる。……嫌なら、ドアの前に置いて帰るだけでもいい」

オレはカップを置いて、最後に一度だけ、お前の横顔を見た。

「……お前は、もう自由なんだ。……オレからも、親父さんからも、……誰の『命令』も聞かなくていい。……お前が、お前として生きててくれれば、……オレは、それだけでいいんだよ」

「……ぁ…」

お前の喉の奥から、言葉にならない、掠れた音が漏れた。

その小さな「声」を聞いた瞬間、オレの全身の緊張がふっと解けたような、それでいて胸が締め付けられるような感覚になった。お前が、オレの言葉に対して、何らかの反応を返そうとしてくれた。それだけで、今は十分だった。

「……無理に喋んな。……わかってる」

オレは立ち上がらず、座ったままお前の方へと、ゆっくり身体を向けた。

「……届いてるなら、それでいい。……お前が今、何を感じてても……悲しくても、怖くても、あるいは何も感じなくても、……それは全部、お前の本当の気持ちだ。……それを、否定したりしねぇよ」

窓の外から、冷たい青色の光が、少しずつ暖色を帯びて部屋に差し込んできた。

朝日がお前の足元を照らし、埃が光の粒になって舞っている。

「……冬弥。……朝だ。……一日が、始まっちまうな」

オレは優しく、でもお前を急かさないように言った。

「……今日は、どうする？ ……このままここで座っててもいいし、……もし、少しでも気が向いたら、……顔、洗って、……また、何か食うか？」

お前が今、一番「やりたい」と思うこと、あるいは「これならできそう」と思うこと。

どんなに小さなことでもいい。それを、お前自身の手で選んでほしかった。

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彰冬　オメガバース

第1話 - 🥞:α ☕️:Ω

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