「今すぐ自宅へお戻りください」
「……どうして」
「理由は簡単です。大切なお客様がお見えになっているからでございます」
「大切なお客様? そんな人、覚えがない」
先輩は本当に覚えがないらしく、困っていた。誰だか知らないけど――でも、大切なお客さんって言うくらいだ。戻った方が良さそうに聞こえる。
「先輩、ここは俺に任せて帰った方がいいのでは?」
「……ううん、大丈夫。大体察しはつくから」
「どういうことです?」
「実は、お父さんからラインが入っていたんだ。ほら、ちょっと前に『お見合い』の話があったでしょ。あれだと思う」
……ああ、すっかり忘れていた。あの時は俺が阻止したけど、先輩のお父さんは激昂して、刀を振り回してきたんだった。でも、あの後の牧田事件で感謝された覚えもある。
それは関係ないってことか。お見合いはするつもりか。
「それなら行く必要はないですね」
「……愁様、なにを仰いますか! 旦那様のご厳命ゆえ、お嬢様を一刻も早く自宅へ戻さねばなりません」
ジークフリートさんが|鷹《たか》のような鋭い目で俺をにらむ。なかなかの迫力だ。だが、俺は屈することもなく、冷静に見つめ返した。
「お帰り下さい、ジークフリートさん。先輩には選ぶ権利があると思うのです」
「しかしですな……」
店内でこのまま言い争いになるのもお客さんに悪い。外で話そうと思ったが、先に先輩が動いた。
「ごめんなさい、ジークフリート。お父さんには“お断りします”と伝えておいて」
嫌な汗を流し、一瞬悩むジークフリートさんだったが――折れたようだ。
「分かりました。旦那様にはそのように伝えます。ですが……お嬢様」
「わたしは大丈夫。いざとなったら、愁くんと駆け落ちするから」
「か、駆け落ち!? そ、そんなこと旦那様が許すと……!?」
「お父さんは関係ない。わたしがどうしたいかよ」
「……お嬢様には敵いませんな。既に馬に蹴られておりますが、早々に立ち去ります」
踵を返すジークフリートさんの背中は、どこか寂しそうだった。
これでいいんだ。こうしなければ、俺と先輩の関係は終わってしまう。それだけは嫌だ。
――仕事に戻り、しばらくするとお客さんが増えてきた。
さすが先輩の力。フォロワー数三千は伊達ではない。
ゾロゾロとやって来るコスプレ冒険者たち。こりゃ、忙しくなるぞ。
先輩は、お客さんと撮影やら接客をしていた。
一方の俺は給仕の仕事だ。
執事はこうなるよな。
無心で仕事をこなしていくと、カウンター席の騎士の衣装をした女性から話しかけられた。十字軍のグレートヘルムのせいで顔が見えないな。
「やあ、愁くん」
「はい、お呼びでしょうか……って、なんで俺の名前を?」
「そりゃ、私だもん」
兜を脱ぐその人は――九十九さんだった。
「って、なんでコスプレしているんですか! しかも、大胆なビキニアーマーで!」
「今日はオフだからねえ。たまにはお客さんで来てみた」
「お客さんって、九十九さん……コスするんですね」
「そりゃねえ。そうじゃなきゃ、冒険者ギルドの受付嬢なんて出来ないっしょ」
なるほど――と、俺は妙に納得してしまった。って、そうじゃない。いくらなんでも派手すぎる。肌の露出多すぎるだろう。
「そ、そうですか。なにか頼みます?」
「う~ん、強いて言えば愁くんかな」
「――は?」
「愁くんが欲しい」
「ナニ、イッテンダ、コノヤロウ」
「もちろん本気。愁くんと大人のデートしたい」
ぐっと顔を近づけてくる九十九さん。……うぅ、このスーパーモデルみたいに整った容姿を目の前にすると胸がドキドキする。
「勘弁してください。これ以上のトラブルはもう避けたいんですよ」
「あ~、やっぱりね。さっき、執事の人が凄い剣幕だったもんね。あれ、柚ちゃんのところが雇っている本物?」
「そうですよ。正真正銘の本物の執事。俺みたいなコスプレ野郎とは次元が違いますよ」
「そっかそっか。今日の所は引いておこう」
「今日のところは?」
「その代わり」
ちょいちょいと手招きされ、俺は顔を近づける。
「なんです?」
「人差し指貸して」
「はい?」
俺は人差し指を差し出した。
すると、九十九さんは「いただきま〜す」とか言って“ハムッ”と俺の指を咥えてきた。ちょ、オイ。この人何やってんだ!!
「――――ッ!?」
頬を赤らめる九十九さんは、俺の指を舌を使ってベロベロ舐めていた。
「……ん~、おいしい」
「……つ、九十九さん! 恥ずかしいですって」
「ああ、そうだ。私のことは千桜でいいからね」
「年上の人を名前で呼べませんよ……」
「構わないよ。私は気にしないし」
「俺は気にするんです」
というか、指に九十九さんの唇の感触とか……唾液が付着して……しばらく手を洗わないようにしよう。うん。
などとやってると、先輩が膨れてやってきた。
「愁くん、何してるの! 九十九さんと近すぎ、離れて」
「せ、先輩。ちょっと話していただけですよ!」
「なんで顔が赤いの?」
「そ、それは……特に理由はないです」
「ふぅん。怪しいな」
ジトッとした目を向けられるが、迫力がねぇ~。可愛くて仕方なかった。これ、写真に撮りたいな。
「そ、それよりお客さんは良いんですか?」
「今、終わったところ。やっぱり平日だからね、休日に比べたら少ない方だよ。それより、愁くん……こっち来て」
「え、でも」
「いいから!」
手を引っ張られ、誰もいない裏口へ。
仕事中だというのに、先輩はどこへ連れていく気だ。
「あの、先輩……お客さんが」
「今は愁くんが最優先事項。いい、愁くん……浮気は絶対ダメ! 禁止!」
「し、していませんよ」
「どうかな。でもね、させない為にも……んっ」
先輩は踵を上げ、俺の唇を奪ってきた。……マジか。完全に不意打ちを食らった。
まさか、先輩からキスしてくるとは思わなかった。
しかも業務中に。
――ああ、でも。
今の先輩のキスには、今まで以上に気持ちが乗っていた。甘くて……脳が蕩けそうだ。こんな幸せを俺にくれるなんて。
俺も雰囲気に流され、先輩の腰を抱き寄せた。
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