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「炎の如く輝く冠よ。どこへ行くのだ。久方ぶりに帰ってきたと思えば、まだ族長でもないお前が私を持ち出すなど、こっぴどく叱られる、では済まぬぞ」
溜水に繁茂する藻の如く色濃い木々のまばらに生える森、緩やかな傾斜で誰をも拒まぬ山を行くのは一人の女フラマウタとひとりでに歩く案山子だった。
女は荒々しさを秘めた美しい顔貌に、黒曜石の瞳に思慮を光らせ、巡回兵の如く確かな足取りと深く眠る者のように調った息遣いから壮健な肉体を窺える。無垢な麻布の衣に季節外れの分厚い毛皮を纏い、獣の牙や角にまじないを彫刻した装身具で己を飾り付けている。
一方女を追うように歩く案山子はありあわせらしい種類のばらばらな布切れで縫い合わせられており、所々ほつれて手入れされていない庭のようになっているが、幾千の戦を想像させる傷だらけの青銅鎧を身につけている。
濃緑の森に覆われた山は褥に焦がれる夕陽を背に隠しつつあり、奇妙な二人の道行きは深い暗がりの中に沈みゆく。残り火の如き明かりが枝葉にかかっているばかりの森には餓えた獣の気配が漂い始めている。
「……」フラマウタは羽虫の鳴くような声で、ちょっとした散歩よ。相変わらず口うるさいね、衛る者は、と答えた。
シュダと呼ばれた案山子は鎧をがちゃがちゃ言わせながら呆れた様子で言い返す。「何が散歩だ。狼は減ったが最近は熊が出る。見よ。木の皮が剥がされているぞ」
「……」あれは鹿の仕業よ、とフラマウタは霧深い森の奥のせせらぎのような声で言ったのだった。
「鹿か。うむ」シュダは零れ落ちていた剥皮を拾う。「だが中々興味深いな。これは実り豊かな秋の森で木の実を拾うが虫の巣食っていることに気づいた子供の姿に見える。さしずめ鹿の木版画といったところか」
「……」先を行くフラマウタは立ち止まって振り返り、目を細め、吐息よりも小さな声で、私には木の皮に見える、と囁いていた。そして、それにシュダなら熊から守ってくれるでしょ、と付け加えたのだった。
「いや、君な。生きとし生けるものを無闇に殺すべきではないだろう」
言葉少なくも応酬を欠かさない二人は燃え尽きた炭のように黒く染まった森を恐れを見せずに通り抜け、更に道なき道を躊躇いなく上り、山の中腹にある拓けた平らな土地にたどり着く。とはいえ他に人の気配はない。
やって来た方向、夜闇に溶けた森の向こうには一日を終えて眠りに就いた平原があり、二人には見慣れた今少しの間は眠らぬ集落が広がっている。
ぽつりぽつりと藁葺き屋根の粗末な家が立ち並んでいるが、抜きんでて高い特別な意味を持つ建物はない。平原のどこへも道は伸びておらず、世の噂も災いもこの集落には興味を示さない。集落の中にも舗装された道はなく、人と家畜の足で踏み固められた道があるだけだ。欲深い外敵を拒む堅い壁はなく、申し訳程度のまじないを施した見た目には粗末な柵がある。人食いの野獣を見逃さない見張りの塔も、気まぐれな神に感謝を捧げる祈りの塔もない。何処より流れ来り何処へと流れ去る川は剥き出しで、橋もかかっていなければ停められた舟もない。しかし簡素な村というには広大な里だ。
その中心にはとても立派な、この素朴な土地の者たちが神と崇める木が一柱、星も月も恐れぬが如く高らかに聳えている。数刻を経てもなおその大樹の頂にはまだ残光が引っかかっており、本来薄い色の葉が燃えるように赤く輝いていた。
「見よ。金剛樹の輝きを。あの妙なる美を」シュダは飾り気のない布の眼で金剛樹を見つめる。「夕陽の赤を、月明かりの黄を、雲一つない昼空の青を受けて、元の色以上に鮮烈に照り返す不思議な樹は二つとない。外の世界のどこにもなかったろう? 家出娘よ」
「……」フラマウタは地面に座り込み、雪の落ちる音のような声で、まあね、と愛嬌のない声色で言った。
シュダは畑でも見張っているかのように立ったまま集落を眺め、酔ったような語調で語る。「寄せても返らぬ夜の底、金剛樹の抱く村里の家々は砂浜を飾る端正な貝殻のようだ。炊事の煙は泡の如く、夜闇に溶けて消えていく。営みの火明かりは揺らめいて、地上に心を奪われた魚の銀の鱗のように煌めいている。変わり映えはせず、豊かとも言えないが、美しい土地だ……あれは何だ?」
シュダの視線の先、煌めく金剛樹の葉よりも多くの灯火が夜闇の向こうから集落の方へとにじり寄ってくる。
「……」フラマウタは、動かないで、と言ったのだった。その弱々しい声はシュダの魂に届き、力強く縛り付けた。
フラマウタは浮かぬ顔で、シュダは苛立ちを滲ませながらも無表情で、二人はじっと濃く深い夜の闇の、地を這う粒のような光の動きを見つめた。そうして見守っている内に光の群れは少しも歩を緩めずに集落へと雪崩れ込む。集落の方でも応えるように多くの灯火が生まれ、光の群れと光の群れがぶつかる。地響きのような人の声のどよめきが二人の元まで届く頃には囁きになっていた。
シュダは石のように硬直して立ち竦んだまま怒鳴る。「あれは何だと問うているのだ!? フラマウタよ!」
「……」フラマウタは抱えた膝に顔を埋め、シュダはこの村が好き? 金剛樹族が好き? と星々と語る時のように静かに話したのだった。
「一体何を言っている?」
「……」フラマウタは答えて、と命じた。
「お前の爺さんの爺さんの爺さんの頃からこの里を守ってきた」青銅鎧の案山子シュダは慣れた手つきで錆びた記憶を磨いて輝かせる。「そう命じられたからだが、気が付けば愛着を抱いていた。金剛樹に至っては私が初めて目覚めた時にはまだ幼木だったからな。兄弟のように感じているよ。……一体なんだというのだ」
「……」フラマウタは霧雨に濡れた壁を伝う水の音のように細やかな声で、まるで……永遠に解けない氷か海に沈まず陸にたどり着かぬ難破船のよう、と言い、さらに続ける。
男はへたれ。女はぐうたら。先を行く世界に取り残され、降り積もる時に埋もれていく。喰って寝るだけの獣と同じ。学もなけりゃ芸もない。唯一の取り柄だった戦も、相手にさえされなくなり、古き勇名を恐れる者は外の世のどこにもいない。唯一知られているのはダーケオ族のシュダ。案山子の亡霊。刃を構え、振らぬ者。知ってる? 私たちが外で何て呼ばれているか。惰弱な蛮族よ。と、フラマウタは瞼の瞬きほどの声で言い放った。
「穏やかで平和、だった。何が悪い。蛮族呼ばわりは頭に来るが、奴らのもたらした文物に魅了されるほどの価値がないというだけだ。それよりもずっと美しく豊かなものが、ここにはある。お前も昔はそう言っていたではないか」
ダーケオ族の集落に次々と欲深な火の手が上がる。憐憫を誘う悲鳴が聞こえるが、勇気を奮い立たせる鬨の声もまた聞こえる。長い平穏の時を過ごしはしたがダーケオ族は戦いを忘れてなどいない。
あるいはこの戦が古い記憶をよみがえらせたのか、とシュダは布と綿の頭で考える。
「このために私をここへ連れてきたのか。鞭を打てば先に進むだろうと? ……ならばせめて共に戦うことさえ許されぬのか。負け戦を演じろと命じられれば、そうできると言うのに。これでは肝心な時に逃げ出した臆病者だ……。待て! 嗚呼! 金剛樹に火が!」気高く聳える金剛樹さえ、邪な炎の黒い這いずり跡で染められていく。「やめさせてくれ! フラマウタ! 金剛樹に、あの美に何の罪があるというのか!」
「……」フラマウタは小さく首を振って、小さな声で、このように言い募った。
私は外に出て、なぜこの里は足を止めているのかが分かった。この幾世代、私たちの里はずっと凍り付いていた。本来、砂を掬った手の椀を川の流れに浸した時のように、時の流されるまま変化しないものなど無い。私たち人間は必死に努めて、ようやく僅かばかりの古いものを先へと運ぶことができる。だけど、私たちは、ダーケオ族は血も汗も流すことなく何も失わずに済んでしまった。シュダを得て以来。
その光景を魂に刻みつけようと、フラマウタはじっと燃え盛る金剛樹を見つめ、興味無く答える。「そうか。私を封印するか何かして、お前たちは前に進むという訳か」
「……」フラマウタは決断した者の悲しげな目で案山子の横顔を見つめ、外の者たちが戦をしてでも望む物はシュダだけだから、かといって誰かに渡すつもりもないけど、と沈黙と変わらぬ声でそう言った。
「フラマウタよ。変わらぬことはそれほどまでに良からぬことなのかね?」
フラマウタは立ち上がり、案山子の背中に回り込み、その着せられた青銅鎧の内側へと手を突っ込む。
「私たちにとって不変は死と同義よ」
「あるいは美と――」
シュダの言葉を待たず、フラマウタは鎧の内側に仕込まれていた札を剥がした。
「同義なのだ」そう言ってシュダは一歩、二歩進む。
踏み固められた土と砂の露わになった広場にいた。その中心で立ち竦むシュダは、いくつもの細やかな飾りを施された立派な鎧の体を得ている。周囲には帽子と外衣と長靴が一体になったような奇妙な衣の魔法使いらしき者たち。
少し離れた真正面でシュダと向かい合う老いた男は冠をかぶっている。そして剣を佩いた屈強な男たちが侍っている。
「よくぞ目覚めた」と老いた男がしわがれた声で言う。
シュダは周囲を見渡し、ここがどこかの王城の中庭らしいことに気づく。厳めしい砦の壁の向こうに更に高い尖塔がいくつも空へ伸びている。ダーケオ族が築くことも打ち滅ぼすこともなかったような城砦だ。屋根の上には誇らしげに、樹木を図案化した旗がたなびいている。
そして空高く輝かしい枝葉に気づく。シュダはそれを視線でたどるように勢いよく振り返り、そこにそびえる金剛樹を仰ぎ見た。火から回復したのかと安堵したが、それは違うようだった。枝ぶりも樹皮の模様もまるで違う。よく知るそれとは別の金剛樹だ。
「ここはどこだ? フラマウタはどこだ?」金剛樹を仰ぎながらシュダは誰に尋ねたつもりもなく呟いた。
しかし立派ななりの老いた男が己が役目と答える。「フラマウタは我が誇りある祖にしてダーケオ王国の中興の祖。まずその名を気にするとは、やはり伝説にある通り女王フラマウタに封印された蛮族の守護者、悪霊シュダなのだな」
長い月日が流れたのだと悟る。札を剥がされている間は主観時間が停止することを知っていたが、これほどの歳月を飛び越えたのは初めてのことだ。この金剛樹も、かつての金剛樹の後に育った新たな樹なのだと察し、その長大な時間に、それが一瞬の内に失われたことに圧倒される。
シュダは自嘲するが如く静かに笑う。
「フラマウタの望み通り、そして狙い通り。お前たちは先に進み、こうして発展したのだな」そしてフラマウタは二度とシュダを起こすつもりはなかったということを知り、深い悲しみを覚えた。「それで? 何を望む? 立派な祖の施した封印を解いてまで得たいものは何だ?」
年老いた男は息を調えてから億劫そうに口を開く。「一方でフラマウタとは誰も知らぬ我が恥ずべき祖でもある。シュダの力を軽んじ、己が力に溺れた傾国の魔女、我が国に蔓延る悪しき思想の根源」
「傾国? そうは見えぬが」
シュダはもう一度城壁の向こうに見える尖塔を眺めるが傷一つない綺麗なものだ。
「フラマウタは国を押し広げるために多くの恨みを買ったのだ。多くの戦を経て一度ならず亡国の危機に陥った。それでも我々は何度となく地を這いつくばえど、なお立ち上がり、こうして蘇ってきたのだ」
老いたる男は息せき切ってよろめくが誰の助けも借りずに踏ん張る。
シュダは素直に称賛する。「立派なことだ。投げやりで向こう見ずな奴の子孫とは思えんな。まあ良い。疾く望みを言うが良い」
「お前の持つ魔法を我々はよく知っている。フラマウタの隠匿した秘密は全て暴かれた。北方の邪教徒どもも東方の蛮族どもも南方の異民族どもももう懲り懲りだ。我が祖国を全ての敵から守り、永遠の繁栄を見守れ」
シュダは呆気にとられ、堪えきれないという風に噴き出す。
「何がおかしい? 出来ないと申すか?」と老いた男はその可能性も考えていた様子で尋ねる。
「いや、できるさ。まさに我が長ける魔法は防衛の魔術ばかり。どのような敵も跳ね除けよう」
そう言うとシュダの鎧から黒羽が溢れ返り、巨大な鴉の三つ首が生える。それぞれ頭蓋骨、槍、鍵束を咥えている。
「我が嘴の上の堅牢なる門が永遠の繁栄と永久の美を約束しよう」
そして八枚の黒翼が伸び、それらは黒い泥を滴らせていた。
「我が翼の上の断固たる砦が永遠の静寂と永久の不動を約束しよう」
さらに羊の四足が垂れ下がるが、これらは地に足を着けない。
宙に浮かんだシュダが三つの鴉の首で劈くと、王国の四方に天から石が降ってくる。それは整えられた石材であり、隙間なく積み上げられ、周囲を囲む王城よりも天を指す尖塔よりも巨大な壁がダーケオ王国を取り囲んだ。
シュダは変化を望む女王を想い、不変を望む老王の頭上で、金剛樹の輝きを振り仰ぎ、不朽の城壁を築いた。
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