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「今日、クラリーチェ先生があんなふうに言ったのには、理由があるんだ」
「理由……?」
「彼女はな、かつて最愛の夫を落馬で亡くしている」
ランディリックの言葉を聞いて、リリアンナは得心した。だからこそ子育て後の年配女性が多い家庭教師を、あんなに若いクラリーチェがしていたのだ。クラリーチェほどの美貌であの若さなら、本来再婚だって可能だったはずなのに、それをしたくないほどに亡夫のことを愛していたんだろう。そんなクラリーチェが実家に頼らず生きていくためには仕事をするほかなかったはずで……それがきっとカヴァネスだったのだ。
「今回急遽王都へ戻っていたのも、実の弟が同じく落馬で重傷を負ったからだ」
リリアンナは息を呑んだ。
あの日、王都の生家へ急ぎ戻る直前のクラリーチェから、弟君が怪我をしたというのは聞かされていたリリアンナである。
でも、それが落馬のせいというのは初耳だった。
ご主人が落馬で命を落とされたということは、弟さんもただでは済まなかったのではないかという不安に駆られた。命に別状がないというのと、後遺症がないというのはイコールではない。
「あの……弟さんは……」
「幸い回復して元気になられたそうだよ」
だからこそ、クラリーチェは笑顔でリリアンナの元へ戻ってこられたのだ。
そんなクラリーチェが昼間、毅然とした声で『どんなにおとなしい馬でも、一人でお乗せになるのは危険です』と言った姿が脳裏によみがえる。
それがどんな思いから出た言葉だったのか、ようやく分かった気がした。
「だから――僕は、彼女の言葉を無視するわけにはいかなかったんだ。心配性だと笑ってやることもできたが、あの表情を見たら……どうしても、ね」
そこでランディリックは、静かに息を吐いた。
「……本人の了承は得ている。軽々しく口にすることではないが、キミには誤解して欲しくなかった」
リリアンナは俯いた。
胸の奥で、昼間の自分の言葉がひどく重たく響く。
(先生とランディを責めるような気持ちになってた……。知らなかったとはいえ、私、なんてことを)
そんなリリアンナの肩を、そっと伸ばされたランディリックの手がふんわりと包み込む。
「リリー。キミが一人で馬に乗りたい気持ちも分かるし、僕もリリーなら大丈夫だと思ってる。だが……ミセス・クラリーチェの気持ちも汲んでやってはもらえまいか?」
その声には、まるで深い森の奥に落ちるような静けさがあった。
言葉も、涙も、もう出てこない。
ただ、胸の奥がじんわりと熱くて、息を吸うのも苦しかった。
「……うん。わかった……」
リリアンナは今度こそランディリックの目をしっかり見つめて小さく頷いた。
「私、もう拗ねたりしない。先生の言うことも、ちゃんと聞く」
ランディリックの唇が、ふっとやわらかく緩む。
「ありがとう。……じゃあ、これからは僕と一緒に乗ろう」
「一緒に……?」
「ミセス・クラリーチェの言葉を守るためにも、な?」
そう言って、ランディリックは小さく笑う。
その笑みを見た瞬間、胸の奥にあったわだかまりがすうっと消えていった。
(不思議ね。……私、ランディが笑ってくれるのが一番嬉しいみたい)
頬をほんのり染めたまま、リリアンナもそっと笑みを返した。
夜の静けさのなか、二人の間に流れる空気が、ようやく温かく戻っていく。