『Venom:The last dance』 のネタバレ有り。
朝のアパートのキッチン。エディ・ブロックは、ぼさぼさの髪を片手で整えながら、古びたコーヒーメーカーを眺めていた。
「……動いてくれよ、頼む」
カタカタと不安な音を立て、コーヒーメーカーは気まぐれに熱い蒸気を吹き上げた。
その時、背中越しに重々しい声が響いた。
「エディ。これは明らかに“壊れている”」
エディは振り返り、ため息をつく。
「分かってるよ。だからこうして拝んでるんだ」
黒い影が壁からにじみ出るようにして現れ、巨大な笑みを形作る。
「俺が直してやろうか?」
「お前がやったら、コーヒーメーカーごと食うだろ」
「それは……正しい」
エディは額を押さえながら、ようやくできあがった黒い液体をカップに注いだ。
ヴェノムは目を細め、興味深そうにそれを覗き込む。
「俺の分は?」
「お前、飲んだって味分からないだろ」
「いいや、分かる。“カフェイン”は美味い」
結局、エディはカップを差し出した。ヴェノムは舌のような触手を伸ばし、一口すすった。
「……苦い」
「ほら見ろ」
「だが、嫌いではない」
昼下がり。
エディはパソコンの前で取材メモを整理していた。
新聞記者としての仕事は相変わらず不安定だが、ヴェノムとの共生生活は、少なくとも退屈はしない。
「エディ」
「なんだ」
「外に出よう。退屈だ」
「俺は仕事がある」
「じゃあ俺がやる」
「お前はタイプもできないだろ」
パチパチとキーボードを叩く触手。
画面には、意味不明なアルファベットの羅列が並んだ。
「どうだ」
「記事どころか暗号だよ」
エディは思わず吹き出した。
夕方。
二人は散歩がてら、近所の店で食料を買い込んだ。
ヴェノムが勝手に触手を伸ばし、棚からチョコレートをカゴに放り込む。
「これは必要だ」
「またか……」
「俺はチョコが好きだ。脳にいい。お前の気分も良くなる」
「俺の財布には悪いけどな」
店員が怪訝そうに見る中、エディは小声で「頼むからおとなしくしてくれ」と呟いた。
夜。
帰宅したエディはソファに崩れ落ちた。
疲労で体が重い。だが、ヴェノムの声が心の中で響く。
「お前は無防備すぎる。今日もあのヘンテコな奴らに襲われそうになっただろ?俺がいなければとっくに死んでいた」
「わかってる……でもな」
エディは天井を見つめた。
「時々思うんだ。お前が俺の中にいるのは、本当に良いことなのかって」
静寂が訪れる。
ヴェノムはしばらく何も言わなかった。
だが、やがて低く、重い声が返ってきた。
「俺も時々考える。人間と共にいる意味を……」
「……」
「だが、結論は変わらない。俺たちは離れられない。お前も、それを知っているはずだ」
エディは目を閉じる。心臓の鼓動が、自分だけのものではないと感じる。
「……そうだな」
手足が重く、視界がぼんやりとしていた。
意識を取り戻したのは、白い天井と、淡く差し込む光の中だった。
冷たい管と繋がれた腕。モニターの電子音。
「…ここは…病院か」
かすれた声でつぶやく。
起き上がろうとすると、頭の奥で何かがひび割れるような痛みが走った。
胸の中、空虚な穴が開いたような感覚。
「ヴェノム…」
その名前を呼んでみるが、何も返ってこない。沈黙。
記憶が断片的に蘇る。戦い。犠牲。酸性の渦。
ヴェノムが、自分を守るために身を投じた瞬間。
コードックスが砕け散る音。
その結末を、自分が見届けられなかった悔恨。
手首を見つめる。管と点滴。
自分は生き残った。
だが、共に歩んできた“もう一つの意志”を失ったまま、生きるという現実。
窓の方へ視線を移す。灰色の空、遠くにビルのシルエット。
ニューヨーク…あの街。
ヴェノムがいつも夢見ていた場所。
自分も、いつかそこに行きたかった。
だけど今、それは甘い願望になった。
歩行器に手をつき、病室を出る。
ひんやりとした廊下、廃病院のような空気。
だれとも目を合わせられず、足を一歩ずつ進める。
ナースステーションを通り過ぎる時、若い看護師がちらりとこちらを見た。
彼女の視線に、エディはまっすぐに返せなかった。心臓が締めつけられる。
廊下の突き当たり、窓ガラス越しに外の世界が見える。
街灯。車の灯り。遠くのネオン。
その向こうに、自由と希望があるようにも見えた。
だが、胸の奥には冷たい空洞がある。
ヴェノムの存在が抜け落ちた穴。
それをどう埋めるのか、自分でもわからない。
病室に戻ろうとしたとき、ふと手が震えた。
胸ポケットを触ると、そこにあったのはヴェノムとの共生を示すわずかなしるし――
小さな黒い欠片のようなもの。
震える指先で、それを取り出す。
「くそ…お前、まだ…」
言葉に詰まり、口を閉ざす。
深い闇の中で、かすかな声。
錯覚か、記憶か、それとも残響か。
“お前を忘れない”
エディはそれを信じたくなかったが、胸の奥底で、なにかが応えたような気がした。
そして彼は、ゆっくりと、その破片を握り締め、目を閉じた。
喉の奥で、かすかに呟いた。
「I AM VENOM, TOO…」
その言葉は、静かな誓いでもあり、失われたパートナーへの呼びかけでもあった。
埃っぽい病室の中に、残響だけが揺れていた。