「これから」
信じたいものがある。信じたいひとがいる。そう思えることはとても特別で大切なものなんだと思っていた。でも、それは必ずしも相手にとってもそうであるとは限らない。
ただ片方が一方的に相手への理想を形作ってしまい、結果的に相手を窮屈な気持ちにしてしまっている。そんな状況に陥ってしまっているのでは無いのかと和哉を見て僕は思った。
僕にとっての理想があると同時に和哉にとっての理想ももちろんあるだろう。価値観が全て一致するなんて、そんなことがあるわけが無い。そんなことがあるわけが無いのに、何故か裏切られた気持ちになってしまう。僕にはまだ分からなかった。
「違うって、どういうことだよ」
和哉の言葉に困惑している筈なのに気付けば無意識にそんなことを口走っていた。
「だから、俺は……」
和哉の唇が少し震えている。
「あれはじいちゃんの為なんだ」
菊さんは俯いていた顔を上げて、真剣な眼差しで和哉を見ている。それから和哉はフゥと一息ついて、さっきとは逆にゆっくりと落ち着いた様子で喋り出した。
「一昨年の秋にじいちゃんが最初に倒れたのは俺が学校に行ってる日だった。授業中に急に相談室に連れていかれて、そこでじいちゃんが倒れたって聞いたんだ。恐かった。じいちゃんを失ってしまう気がして、心臓の音が頭の中まで響いて、動揺してたのを今でも覚えている。それから、じいちゃんが運ばれたっていう病院についたら、すぐに先生に呼ばれてさ。そこで心臓弁膜症だって教えられた。もう2年も持たないって…..」
「でも、それって早めに治療すれば助かるんじゃ…..」
和哉は首を横に振る。
「ずっと、我慢してたんだよ。あの人は。俺の学費を稼ぐためにさ。俺を引き取ってからまた働き出して、体に異変を感じながらも黙って働き続けてたんだ。俺さ、感謝してんだよ。男手ひとつでここまで育ててくれて。だから、じいちゃんには最後くらい良い思いさせたくて、オレ….」
「だから、あんな奴らとつるんでお金稼いでたのか!?」
僕がまた大きな声を出してしまう。すると、隣に座っていた菊さんが僕をなだめるように肩を叩く。
「最初はあの人達とつるむ気は無かった。本当だ。でも、入院費や家賃も払わなきゃいけなかったから、それしか無かったんだ。高校もその時に辞めた。」
何も知らなかった。和哉の置かれていた状況もおじさんの病気が深刻なことも、何も。
知らないくせにあんなに口を出したんだ。和哉はひどい奴だ、恩知らずだとか勝手に決めつけて。
「でも、相談してくれたら何か出来たかもしれないじゃない」
菊さんは周りの人には聞こえず、だけど僕達には聞こえるくらいの声量、そして沈んだような声でそんなことを言った。
「迷惑なんか掛けたくなかったから….」
俯いて弱々しくそう答える和哉の横顔を見ているとこっちまで胸が引き締められている気がしてくる。
「だからって…..」
「大切な人には心配させたく無かったから」
大切な人。まさか、和哉からそんな風に僕らが見られていたとは思わなかった。
「和哉……」
「和哉君….」
和哉は変わってなんかいなかった。言葉は尖ったように聞こえるけど、本当はとても思いやりがある僕にとっての兄のような存在。兄弟なんかいなかったけど、それでも和哉なら胸を張って兄弟だって言える、そんな気持ちをここしばらく何処かに忘れてしまっていたことに今、気が付く。
自分から見える部分的なものでしか判断していなかった。和哉が離れていったんじゃない。僕が和哉としっかり向き合おうとしていなかったんだ。
和哉は小さく息を吐く。そして、身体を少し仰け反らせて空を見上げる。
「だからこそでしょ…..」
えっ。さっきまで黙って話を聞いていた佐藤さんが急に立ち上がった。彼女は俯いていて、表情が見えない。でも、明らかにいつもの楽観的な彼女が居ないことだけは分かった。
「えっ…?」
和哉も思わず呆気にとられている。
いつもの彼女からは考えられない低くて、重い声。僕は彼女がまるで違う人のように見える。
「大切なら、大切な人ならさ!!」
彼女は大きな声ではっきりとそう言った。
「伝えなきゃ駄目だよ。大切な人なんでしょ。おじいさんも菊さんも晴斗くんも。私はさ、和哉君のことあまり知らないし、色々口出し出来る立場じゃないけど、私は知ってる。いつか絶対に後悔するって。心配掛けたくないからって伝えずそのままって、本人はもしかしたら安心したりするかもしれない。でも、伝えて貰えなかった相手はどう思うと思う?もし、取り返しのつかないことになってしまったとしたら、その人達は力になれなかったことを絶対に悔やむよ。私は、私はね、そういう人達を何回も見てきた。その場に泣き崩れて、ゴメン、ゴメンって何度も、何度も謝ってる人達を…….」
早口になったり、時にはゆっくりな口調で彼女はそう告げた。
「だからさ、もうそんなことしちゃ駄目だからね。それだけは絶対」
僕らはそれからしばらくそのテラスの席に座っていた。ゆっくりとゆっくり時間が流れていく。そんな気がした。気が付くともう陽も落ちて、辺りは暗くなってきていた。
「じゃあ、またな。和哉」
病院の自動ドアを通り抜けて、駐車場の前に出たあと僕は菊さんと佐藤さんと一緒に駐車場に止めている車の方に向かう。
「じゃあね、和哉君。たまには嘉村堂に顔を見せるのよ」
「うん、ありがとう」
和哉は静かにそして優しい声で返事をする。
「あ、あの、佐藤さんだっけ?」
「うん、何?」
佐藤さんが振り返って応える。いつもみたいな元気な声では無いけど、和哉みたいに優しい声で。
「ありがとう、叱ってくれて。俺さ、周りが見えてなかったみたいだ。でも、お陰で気づけた」
「感謝してね!!」
元気な彼女はいつもみたいに満面の笑みで得意げにそう言う。和哉も何だかスッキリと吹っ切れたような顔をした。
「晴斗、お前もありがとな。色々と。」
「うん」
「でも、駄目だなー俺は。だからさ、俺あの人達と縁を切るよ。簡単にはいきそうに無いけど。これからはもうちょっと、周りに頼ってみる」
「うん」
「俺はお前の兄貴だからな」
嫌な笑顔で僕を見てくる。正直、腹が立つ。何処かの元気なクラスメイトがもう一人増えたみたいだ。
「そうだね、頑張って貰わないと」
空を見上げるとさっきまで空に浮かんでいた雲も無くなり、空を星が一面に覆い尽くしていた。君らなら大丈夫だよって空がそんなことを言ってくれているような気がした。
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