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――数日後 シェアハウス 朝
キッチンに、静かな音が響いていた。
コト、とマグカップを置く音。
それを置いたのは、なつだった。
「……」
なつは、少し離れた場所を見ている。
そこには――
テーブルの端に座っている、いるま。
そして。
その斜め向かいに座っている、こさめ。
会話はない。
でも。
前とは、明らかに違った。
前のいるまなら、そもそもここにいない。
部屋から出てこなかった。
誰とも同じ空間にいなかった。
でも今は――
同じテーブルにいる。
それだけで、十分すぎる変化だった。
なつは、それを見て。
小さく息を吐いた。
「……」
気づいている。
いるまが、少しずつ変わっていることに。
そして。
その理由も。
(……こさめ、か)
視線を向ける。
こさめは、いつも通りの顔をしていた。
無理に話しかけない。
無理に笑わせない。
ただ――
同じ空間にいる。
それだけをしていた。
「……」
なつは、少しだけ笑った。
(お前、すごいな)
心の中で呟く。
その時。
「……なつ」
不意に、名前を呼ばれた。
なつの目が、見開かれる。
声の主は――
いるま。
なつの心臓が、ドクンと跳ねた。
いるまから、話しかけてきた。
それは、初めてに近いことだった。
「……なに」
できるだけ、いつも通りの声で返す。
驚かせないように。
壊さないように。
いるまは、少し迷って。
そして。
「……牛乳」
ぼそっと言った。
なつは、一瞬ぽかんとして。
それから、吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
「ああ、牛乳な」
普通の会話。
それが、どれだけ奇跡か。
なつは、ゆっくり冷蔵庫を開けて。
牛乳を取り出して。
いるまの前に置いた。
「ほら」
「……ありがと」
小さな声。
でも。
ちゃんとした「ありがとう」だった。
なつの胸が、熱くなる。
「……」
何も言わない。
言ったら、壊れそうで。
代わりに、軽く頭をぽん、と撫でた。
その瞬間。
いるまの肩が、びくっと揺れた。
なつの手が止まる。
しまった、と思った。
でも。
いるまは、逃げなかった。
そのまま。
じっとしていた。
なつの手は、ゆっくり離れる。
「……悪い」
小さく言う。
すると。
いるまが、ぽつりと言った。
「……別に」
なつの目が、少しだけ見開かれる。
「……嫌じゃなかった」
その言葉に。
なつの呼吸が止まった。
「……そうか」
それだけ言うのが、精一杯だった。
――
その様子を。
こさめは、ずっと見ていた。
胸の奥が、じんわり温かい。
いるまが、少しずつ。
本当に少しずつ。
世界に戻ってきている。
その時。
ふと。
いるまの視線が、こさめに向いた。
目が合う。
一瞬。
時間が止まる。
いるまは、少しだけ気まずそうにして。
でも。
逸らさなかった。
こさめも、逸らさない。
静かな時間。
そして。
いるまが、小さく言った。
「……こさめ」
「うん」
「……今日」
少し、迷う。
それでも。
言う。
「……隣、座っていい」
こさめの心臓が、強く跳ねた。
隣。
隣に座っていいかと、聞いている。
拒絶じゃない。
選んでいる。
こさめを。
「……うん」
優しく答える。
いるまは、ゆっくり立ち上がって。
そして――
こさめの隣に、座った。
肩は、まだ触れない。
少しだけ、距離がある。
でも。
前より、ずっと近い。
「……」
沈黙。
でも。
苦しくない。
こさめは、何も言わない。
ただ。
隣にいる。
いるまも、何も言わない。
ただ。
隣にいる。
それだけで。
十分だった。
その時。
リビングのドアが開いた。
「おはよー」
らんが入ってくる。
そして。
その光景を見て。
止まった。
「……」
いるまが、こさめの隣に座っている。
らんの目が、少しだけ柔らかくなる。
「……そっか」
小さく、呟いた。
気づかれないように。
そして。
いつも通りの顔で言った。
「朝メシ、なに?」
その声に。
空気が、少しだけ明るくなる。
シェアハウスの朝。
まだ、完全じゃない。
まだ、傷は消えてない。
でも――
少しずつ。
確実に。
変わり始めていた。
そして。
いるまは、気づいていなかった。
隣にいるこさめの手が。
ほんの少しだけ。
震えていたことに。
嬉しくて。
怖くて。
大切で。
壊したくなくて。
それでも――
離れたくないと、思っていることに。
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