テラーノベル
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純白の扉を抜けた先、そこはこれまでのどの場所よりも広く、そして圧倒的な「静寂」に支配された空間だった。
「……っ」
肺に吸い込んだ空気が、鋭い氷の針のように喉を刺す。
吐き出した息は驚くほど白く、まるで霧のように視界を遮って消えていった。
そこは、天井がどこまでも高い、巨大な裁判所の回廊。
窓一つない壁は無機質なモノクロームに染まり、床のタイルは鏡のように磨き上げられている。だが、そこに生命の温もりは一切ない。ただ、肌を撫でる冷気が「お前は場違いだ」と告げているようだった。
(……見られている)
耳羽がピコ、と鋭く跳ねた。
今までのような大罪たちの殺気ではない。もっと事務的で、もっと徹底的な、「観察」の視線。
見上げると、回廊の柱の影や、高い梁の隙間から、いくつもの「瞳」が浮遊していた。それらは瞬き一つせず、僕の歩みを、呼吸を、手にした斧の錆びまでを記録するように見つめている。
コツ、コツ、と僕の足音だけが、高い天井に跳ね返り、背後から追いかけてくる。
その規則正しい足音に混じって、どこからか「音」が聞こえてきた。
―トーン、……ポロロン……。
重厚な石の壁を震わせ、静かに、けれど逃げ場のない響きで流れてくるピアノの旋律。
それは「裁判所」という言葉から最も遠い場所にあるような、ひどく理性的で、冷徹な調べだった。
その旋律は確かな質量を持って、冷たい空気を震わせていた。
それはベートーヴェンの『月光』。第一楽章の、あの救いようのない絶望を静かに湛えたメロディが、迷宮のような廊下の壁を反転しながら僕の耳羽を打つ。
(……誰が……あんなに悲しい音を)
僕は音を立てないよう、細心の注意を払って歩を進めた。突き当たりの巨大な木製の扉。そこから一筋の光が漏れ、ピアノの調べと共に、わずかな「羽毛」の匂いが漂ってくる。
僕は指先を扉の縁にかけ、重い扉を数ミリだけ、滑らせるように押し開けた。
視界に飛び込んできたのは、月明かりのような白い光に照らされた、広大な大ホールだった。
中央に置かれたグランドピアノ。そこには、一人の異形が座っていた。
「……っ」
思わず息を呑む。
黒い法服を纏ったその体には、あるはずの「首」がない。代わりに、彼の周囲には六枚の白くほわほわとした耳羽が、まるで独立した生き物のように優雅に浮かんでいた。そして彼の背後、虚空を漂う五つの巨大な瞳が、譜面を見つめるようにじっと一点を射抜いている。
Wrath。
裁判官の服を纏ったその男は、僕が知っている「怒り」とは程遠い。彼はただ、長くしなやかな指先で、鍵盤に自らの静かな感情を押し込めるように、丁寧に『月光』を紡いでいた。
(もっと……よく見ないと)
彼が何を裁こうとしているのか。その背後の目が、何を映しているのか。
僕は吸い寄せられるように、さらに扉を押し開こうとした。だがその瞬間、手にしていたランタンの鎖が、わずかに僕の衣服に引っかかった
「……あ」
わずかなバランスの崩れ。使い慣れていたはずの、重い、血に汚れた斧が、凍りついたタイルの床へと滑り落ちた。
―ガァァァァァンッ!!!
静寂を、耳を劈くような金属音が引き裂いた。
ピアノの旋律が、断末魔のような不協和音を立てて止まる。
次の瞬間。
浮遊していた六枚の耳羽が一斉に、機械的な鋭さで僕のいる扉へと向けられた。
背後に浮かぶ五つの瞳が、ギチギチと音を立てて反転し、暗闇の中にいる僕を「発見」する。
「Hoo…!」
それは叫びというより、驚きと拒絶の混ざったフクロウのような鳴き声。
Wrathは僕と視線を合わせる間もなく、椅子から弾かれるように跳ね上がった。
彼はピアノの側に開いていたベランダの窓へと、法服を大きくはためかせて駆け出す。
あまりにも必死で、不器用な跳躍。
「待て……っ! 待ってくれ!」
僕が扉を蹴破るようにしてホールに飛び込んだ時には、もう遅かった。
彼はベランダの縁を蹴り、鉛色の夜空へと姿を消していた。
静まり返ったホールに残されたのは、荒れ狂う風に吹かれて床に散らばった真っ白な楽譜と、彼が持っていたであろう数枚の古い紙。
そして、月明かりを浴びてキラキラと舞い落ちる、真っ白な羽毛だけだった。
Wrathが夜空へと消え去った後のホールは、開け放たれた窓から吹き込む冷たい風にさらされていた。
僕は滑り落ちた斧を拾い上げることも忘れ、彼が座っていたピアノの元へと歩み寄る。
床一面に、雪のように白い紙が散らばっていた。
僕はそのうちの一枚を拾い上げる。そこには、丁寧な、けれどどこか震えるような筆致で、僕がこれまでに「救済」してきた者たちの名前が記されていた。
『Gluttony:孤独の食事を好む。本当は甘いものが好き』
『Sloth:弟への手紙を書こうとして、またペンを置いた』
『Envy:私の羽を綺麗だと言ってくれた。すまない、自分にはその羽が相応しくないのだ』
『Lust : 人間を弄ぶことが好き、けどそんなことを永遠とやっていたら罰が当たる』
『Greed : 彼はよく私とあの方が送った青い薔薇を気に入っている、その薔薇の花言葉のように夢が叶うといいな』
「……これは……」
それは「罪人」を裁くための記録ではなかった。
言葉を持たない裁判官が、友として、家族として、彼らを見守り、その「心の揺らぎ」を愛おしむように書き留めた日記だった。
そして、黒いグランドピアノの脚元。そこから、何かがはみ出している。
僕は膝をつき、その影を覗き込んだ。
「…っ…あ…」
喉の奥が、氷を詰め込まれたように凍りついた。
そこには、大量の、あまりにも大量の「真っ白な羽」が、赤黒く変色した血痕と共に打ち捨てられていた。
それらは、今さっきWrathの周りを舞っていた柔らかな耳羽とは違う。かつて彼の背に生えていたであろう、立派な、力強い「翼」の成れの果てだ。
一本一本、自分の手で引き抜き、毟り取った形跡。
根元には、乾ききっていない生々しい血がこびりついている。
彼が「自分には翼など必要ない」と、自らの「飛ぶ自由」と「救い」を否定するために、どれほどの痛みの中でこれらを毟り取ったのか…。
(…なんで…こんな……?)
床に散らばった羽の中に、一際丁寧に畳まれた一枚があった。
僕はそれを拾い上げ、無機質な視線で文字を追う。
『Pride : 彼は今日も、自分を大理石の彫刻のように塗り固めている。
神に近づこうと背を伸ばすたびに、彼の心から「温もり」が零れ落ちていくのが見える。
彼は私を「支配できない」と嘆くが、そうではない。
私はただ、彼が孤独に耐えかねてマントを握りしめるその指先を、見ることしかできないのだ。
彼は、███に嫉妬している。
いや、あれは「羨望」だ。神に愛され、神の道具として完成されているあの少年を、彼は「自分のあるべき姿」だと思い込んでいる。
Prideよ。君は君のままで十分美しいのに。
君のその「人間臭い」傲慢さが、私は何よりも愛おしいのだ。 罪深き憤怒の我が身に、白き翼は穢れに等しい。Prideよ、この羽を、君の孤独を暖めるマリアージュに変えてくれ。』
「……マリアージュ?」
僕は思わず、その単語を口の中で繰り返した。意味が分からない。
自分の体を損なってまで、他人の孤独を埋めようとするその思考回路が、僕にはどうしても理解できなかった。
ピアノの下、赤黒い血に染まった羽の山を見下ろしても、込み上げてくるのは同情ではなく、形容しがたい「困惑」だった。
父上のために命を削り、大罪を救済す。それが世界の理だ。
なのに、この場所にあるものはすべて、その理から外れている。
僕はそれ以上、彼の「記録」を読むのをやめた。これ以上この部屋にいても、理解できないノイズが増えるだけだ。
僕は床に転がった重い斧を引きずり、再び無機質な廊下へと繋がる扉を開けた。
「……っ」
一歩、回廊へ踏み出した瞬間。
背筋に、氷の刃を押し当てられたような鋭い感触が走った。
ピアノの部屋へ向かう時よりも、視線が「鋭く」なっている。
壁のレリーフ、天井の隅、倒れた椅子の脚。
そこかしこに埋め込まれた「瞳」たちが、剥き出しの敵意を隠そうともせず、僕の一挙手一投足を凝視していた。
コツ、コツ、と足音を立てるたび、その視線は物理的な「痛み」となって肌を刺す。
まるで、目に見えない無数の針で全身を固定されているような、不快な圧迫感。
(痛い。……視線が、痛い……)
耳羽がピコピコと、激しい警告音のように跳ねる。
廊下を進むほどに、空気は密度を増し、呼吸をするだけで肺が押し潰されそうになる。
あの男はどこにもいない。けれど、この廊下そのものが彼の「憤怒」の器となって、僕を拒絶していた。
「……あ」
次の瞬間、僕が踏み出した床が、音もなく消失した。
落下した衝撃で、視界が激しく点滅する。
「……はぁ、……っ……!」
肺を圧迫する空気。僕はなんとか斧を支えに立ち上がった。
そこは、これまでのどの回廊よりも高く、重厚な木材と石材で造られた大法廷の中央だった。
見上げれば、首を断つための巨大な鉄の刃、ギロチンが、僕の真上で、不吉な振り子のように音もなく揺れている。
そして、正面の最も高い場所。
そこには「裁判長」が座るべき、権威の象徴である巨大な椅子に、Wrathが鎮座していた。
首のないその体は、裁判官の法服を黒い霧のように漂わせ、六枚の耳羽は怒りに触れたかのように鋭く逆立っている。
窓は一切ない。ただ、どこからともなく入り込んだ鉛色の雨が、天井の亀裂を伝ってポツリ、ポツリと、重々しい音を立てて床を濡らしていた。
彼の周囲には、数匹のモノクロの蝶が、まるで魂を抜き取られた幽霊のように力なく、けれど意志を持って浮遊していた。それらは時折、バサリと翅を震わせ、静寂の中に不穏なノイズを刻む。
Wrathが、ゆっくりと手元の巨大な「木槌」を握りしめた。
―ガァァァァァンッ!!!
室内全体が震えるほどの轟音。
その音を合図に、頭上のギロチンを繋いでいた鎖が、意志を持った蛇のように一気に解き放たれた。
「……っ!!」
僕は咄嗟に横へ跳んだ。
ーズドォォォォォンッ!!!
銀色の巨大な刃が、僕がいた場所を粉砕し、石の破片が礫となって僕の頬を切り裂く。
「……はぁ……っ、この……ッ!」
立ち上がろうとした僕の目の前を、一匹のモノクロの蝶が横切った。
(……Envyの……!?)
蝶が通り過ぎた場所の空気が、鏡が割れるような音を立てて凍りつき、僕の動線を塞ぐ。
「Growl…!」
裁判長席から、Wrathの鋭い鳴き声が響く。
六枚の耳羽が、激しく、かつ正確に僕の呼吸を捉えている。
彼は立ち上がることすらしない。ただ、木槌を叩くリズムだけで、この大法廷のすべてを僕の「処刑道具」に変えていた。
降り注ぐのは、天井から漏れ出す冷たい雨。
そして、逃げ場のない室内で、四方八方から襲いかかる「音」と「刃」。
僕は雨に濡れ、錆の匂いを放つ斧を強く握り直した。
耳羽が苛立ちでピコピコと震える。
この重苦しい静寂を、一秒でも早く、この斧でぶち壊してやりたかった。
「……チョコマカと……ッ!!」
僕は苛立ちを叩きつけるように、石畳を蹴った。
天井から降り注ぐ雨が、斧の重厚な刃を濡らし、滴り落ちる。
Wrathが再び木槌を振り下ろし、頭上のギロチンが僕を圧殺せんと落下してくる。だが、僕はもう止まらない。
逃げるのではなく、向かってくる巨大な刃の側面。
僕はその銀色の「面」に足をかけ、重力を無視するようにウォールランを開始した。
ーガァァァァァッ!!!
ギロチンが床を粉砕する轟音を背中で聞きながら、僕は垂直に近い法廷の壁を、弾丸のような速度で駆け上がる。耳羽が風を切り、視界の端で数匹のモノクロの蝶が僕を追いかけるが、今の僕の速度には追いつけない。
裁判長席に座るWrathの五つの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
六枚の耳羽が、予測不能な僕の動きを捉えようと狂ったように振動する。
彼は慌てて木槌を連打し、新たな刃を召喚しようとしたが、僕の方が一瞬早かった。
僕は壁を強く蹴り、宙を舞った。
重い斧を、全身のバネを使って頭上高く振りかぶる。
標的は、裁判長席の背後に浮かぶ、あの不気味で神聖な「瞳」。
「Hiss…!」
Wrathが初めて、悲鳴に近い声を上げた。
彼が反射的に顔を覆おうとした瞬間、僕の斧が空気を切り裂き、最も大きく見開かれた「中央の目」を真っ向から捉えた。
―グシャァァァッ!!!
嫌な、生々しい破壊音。
硬質なはずの異形から、ドロリとした「黒い液体」と、火花のような「光の粒子」が同時に溢れ出した。
「Aaa-gghh……!!!」
Wrathの叫びが、法廷の壁を震わせる。
それは、彼が大切に守ってきた「聖域」が汚され、友たちの記憶を宿した「視界」を一つ失った、断腸の思いがこもった痛切な叫びだった。
僕は返り血ならぬ「黒い飛沫」を顔に浴びながら、裁判長席の机の上にドサリと着地した。
目の前には、潰れた目を押さえ、のたうち回るWrath。
「……痛いか? ……僕もだよ。お前のその『正義面』を見てるだけで、頭が割れそうなんだ」
僕は煤と黒い液体で汚れた頬を袖で拭い、残った四つの瞳を冷たく射抜いた。
耳羽がピコ……ピコ……と、獲物を追い詰めた興奮で、不気味に、規則正しく脈動していた。
「…hoo……」
Wrathは、潰された中央の瞳から溢れ出す黒い液体を、黒い手袋をはめた指先で静かに、けれど一切の無駄なく拭い去った。
その指先が、手元の木槌を再び握り直す。
彼は決して取り乱さない。
むしろ、その立ち姿は先ほどよりも威圧的で、氷のような静寂を纏っていた。
彼が椅子に座り直し、一度だけ深く、喉を鳴らす。
―ガァァァンッ!!!
木槌が叩きつけられた瞬間、大法廷の壁という壁に、血のように赤い「判決文」が浮かび上がった。
【 審理開始:第一刑――『頭を垂れよ』 】
「……っ、う……!?」
文字が刻まれた刹那、僕の首の後ろに、目に見えない巨大な「刃」の重圧がかかった。
強制的に頭を下げさせられる。逆らえば、その瞬間に首を断ち切られるという本能的な恐怖。
僕は屈辱に顔を歪めながら、冷たい石畳に額がつくほど深く身を屈めた。
シュルル…と頭上で鎖が鳴り、ギロチンの刃が僕の項のわずか数ミリ上で静止する。
Wrathの六枚の耳羽が、指揮者のタクトのように優雅に動く。
彼は言葉を使わない。ただ、その耳羽の動きと、浮かび上がる文字だけで、この世界の物理法則を「法」として支配していた。
―ガァァァンッ!!!
【 第二刑――『地を離れよ』 】
次の瞬間、僕が伏せている石畳から、無数の「嫉妬の硝子」が牙のように突き出してきた。
僕は弾かれたように上空へ跳躍する。
空中で僕を待ち構えていたのは、Slothの「酸の雨」を凝縮したような、黒い水の弾丸。
『飛べ』 『しゃがめ』 『止まれ』
Wrathが木槌を打つたびに、僕という存在が、ただの「被告人」として弄ばれていく。
耳羽が酸の雨のせいで赤くなっていく。
裁判長席に座るWrathは、拭い去った後の潰れた目を閉じ、残った四つの瞳で冷酷に僕を観察し続けている。
彼の背後では、Envyの蝶たちが、死のカウントダウンを刻むように不規則に舞っていた。
僕は空中で斧を振り直し、着地の瞬間に生じるわずかな隙を狙って、Wrathの座る高座を見据えた。
次は、どの命令を「無視」して、その喉元に食らいついてやろうか。
―ガガァンッ!
ーガァンッ!!
ー ガガガァンッ!!!
木槌が叩きつけられる間隔が、もはや音楽としての体をなさなくなっていく。
法廷の壁に浮かび上がる「赤」の文字が、視界を塗りつぶさんばかりに増殖した。
【 第三刑――『右へ』 】
【 第四刑――『左へ』 】
【 第五刑――『伏せろ』『飛べ』『右』『右』『左』!! 】
「……っ……あ、……クソッ……!!」
一秒間に数回。人間の反射速度の限界を試すような、Wrathの「判決」の嵐。
右に跳べばEnvyの硝子が床から生え、左に避ければSlothの酸の弾丸が空気を裂く。
僕は泥を這いずるような無様な動きで、必死にギロチンの刃を掻い潜り続けた。
裁判長席に座るWrathの四つの瞳は、感情を排したまま、僕という「異物」が死のダンスの中で崩壊するのを静かに待っている。
空間の振動そのものを音波の刃に変えて僕の全身を切り刻む。
肺が焼け、耳羽が熱を帯びて真っ赤に染まる。
「……もう……飽きたんだよ…お前の…その……独りよがりな…裁判は…!!!」
【 第六刑――『右か左か、選べ』 】
壁一面に、巨大な死の二択が突きつけられた。
右にも、左にも、逃げ場はない。どちらを選んでも、待っているのは巨大なギロチンの鉄槌。
だが、僕はそのどちらも選ばない。
「……上だ……ッ!!!」
僕は指示を無視し、正面の壁、Wrathの座る高座へと続く垂直の壁に向かって、弾丸のような速度で突っ込んだ。
「規則違反」を示す真っ赤な文字が視界に溢れる。頭上のギロチンが、僕の首を求めて凄まじい速度で落下を始めた。
―ガギィィィィンッ!!!
刃が僕の踵をかすめ、石畳を粉砕する。
だが、その衝撃を僕は「推進力」に変えた。
砕け散った石片を足場に、僕は垂直の壁を駆け上がる、二度目のウォールラン。
垂直の壁を走りながら、僕は重い斧を横一文字に構えた。
Wrathの四つの瞳が、かつてないほど激しく収縮する。
彼は手元の木槌を握り潰さんばかりに力を込め、僕の「軌道上」に強制的な死の判決を叩きつけた。
【 追撃刑:『其処に停まれ』『其処で死ね』『死ね』『死ね』!! 】
僕は空中で斧を大きく旋回させた。
迫りくる視線のレーザーを斧の腹で弾き飛ばし、その反動でさらに加速する。
壁を蹴り、宙を舞い、真っ直ぐにWrathの頭上、残された四つの瞳の真っ只中へと突っ込んだ。
「……二つ目……いや、三つ目もだ!!」
僕は空中で身体を捻り、斧の刃ではなく、その石のように硬い「柄の末端」で、Wrathの右側に浮かぶ二つの瞳を同時に突き刺した。
―グシャ、パキィィィィィンッ!!!
一つは生々しく潰れ、もう一つは耐えきれずに硝子細工のように粉々に砕け散った。
黒いノイズの飛沫が、僕の顔を、そしてWrathの法服を無残に汚していく。
「Aaa-ggh……hoo…gaaa……ッ!!!」
彼はたまらず裁判長席の机に突っ伏し、残された「二つの目」を両手で押さえてのたうち回る。
その衝撃で、天井のギロチンが狂ったように上下し、法廷内の照明が火花を散らして消え始めた。
その中で、Wrathの六枚の耳羽が、ボロボロになりながらも僕を殺すためだけに、不気味に、鋭く、ピンと立ち上がる。
「……はぁ……はぁ……まだだ。……まだ、……動けるだろ……?」
僕は着地の衝撃で軋む膝を無理やり立たせ、黒い飛沫を吐き捨てた。
顔の半分が返り血で汚れ、耳羽は怒りの熱で沸騰しそうだ。
裁判長席の奥、暗闇の中でWrathがゆっくりと、幽霊のように立ち上がる。
残された二つの目は、もはや神聖な裁判官のそれではない。
友を、視界を、誇りを奪われた、剥き出しの「怒り」の眼光だった。
遠く、闇の中で、扇子が、パチリと閉じる音が聞こえた気がした。
―カチ、……カチ、カチ……。
残された二つの瞳を血走らせ、Wrathは震える手で、ひび割れたガベルを再び握り直した。
彼はもう、命令を文字にする力も残っていないのかもしれない。
だが、その六枚の耳羽が、空気を震わせて僕の脳内に直接「声」を叩き込んできた。
『 …死ね…。今、此処で……消えろ…!!! 』
これまでで最も短く、最も重い、絶対的な死の判決。
その「声」が響いた瞬間、頭上の巨大なギロチンだけではなく、法廷の影に潜んでいた数多の予備の刃が、一斉に僕の四肢を断つべく放たれた。
「…断る」
僕は降り注ぐ死の雨の中、一歩も動かずにWrathを見据えた。
耳羽がピコピコと、悲しいほど規則正しく、僕に流れ込むWrathの感情を拾い上げる。
「……お前の悲しみなんて、僕には分からない」
僕は斧を引きずりながら、一段、また一段と、裁判長席へと続く階段を登る。
足元の石畳には、天井から漏れ出す鉛色の雨と、Wrathの瞳から溢れた黒い液体が混ざり合い、ドロリとした不浄な水溜まりを作っていた。
「救ってほしいんだろ、とか。……そんな温かい言葉、期待してたのか?」
僕は、残された二つの瞳を血走らせ、ガベルを震える手で握るWrathの目の前まで辿り着いた。
Wrathの耳羽が、僕から放たれる圧倒的な「拒絶」を察知して、悲鳴のような高周波を立てる。
『 ……死ね……!!!お前のような……お前のような……「空っぽ」に……っ!! 』
Wrathの脳内音声が、怒りと屈辱でひび割れる。
彼は最後の力を振り絞り、ひび割れたガベルを僕の頭上へ振り下ろそうとした。
だが、僕はそれを避けない。
代わりに、僕は一歩踏み込み、無防備な彼の懐へと滑り込んだ。
Wrathの動きが、一瞬だけ止まる。
六枚の耳羽が、戸惑うようにピコ……と小さく揺れた。
誰もが、主人公が初めて「慈愛」を見せ、彼を抱きしめたのだと思っただろう。
「……残念だったな。……僕に、そんな機能はついてないんだよ」
抱擁のような体勢のまま、僕は空いた右手を、彼の背後に浮かぶ「残された二つの瞳」へと、躊躇なく突き立てた。
―グシャァァァァァッ!!!
「ーーーッ!!!」
声にならない、絶叫。
Wrathの全身が、弓のように大きくのけ反る。
僕の指先が、彼の視覚の核を内側から握りつぶし、不気味に冷たい血の奔流が、僕の腕を肘までどす黒く染め上げた。
五つあった瞳は、これで全て潰れた。
Wrathは完全なる「闇」へと突き落とされ、手からガベルが滑り落ちる。
彼は僕の肩に縋り付くようにして、ガタガタと、まるで壊れた機械のように震えていた。
「……これで、終わりだ。……裁判官」
僕は、自分に縋り付く「かつて友人たちのために泣いた男」を、ゴミでも捨てるような無機質な動作で突き放した。
「……はぁ……はぁ……」
僕は背を向け、出口へと歩き出そうとした。
視界を奪い、すべての「瞳」を潰した。もはや奴に抗う術はないはずだ。
だが、背後で聞こえたのは、静寂ではなく、石を爪で掻きむしるような不吉な音だった
「……っ…しぶといんだよ……!!」
振り返ると、視力を失い、黒い液体を垂れ流したままのWrathが、幽霊のように立ち上がっていた。
フラついた足取り、崩れかけた姿勢。それでも彼は、法服の袖から一本の「白い短剣」を抜き放っていた。
それは、自ら毟り取った羽を、自らの血で固めて研ぎ澄ませた、あまりにも痛々しい執念の刃。
もはや旋律も、言葉も、判決もない。
ただの「死」を撒き散らす獣のような叫びを上げ、Wrathは僕の胸元へ向かって突進してきた。
(……しつこい。……消えろって言ってるんだ……!!)
反射だった。
逃げるには遅すぎた。斧を振りかぶる隙もない。
僕の目に飛び込んできたのは、Wrathの頭上で、今にも千切れそうに軋んでいた「ギロチンの鎖」。
僕は迷わず、手元の斧をその鎖目掛けて全力で投げつけた。
―ギィィンッ!!!
火花が散り、最後の一本だった太い鎖が、音を立てて断たれる。
次の瞬間、世界から音が消えた。
―ドシュゥゥゥゥゥッ!!!!
重力に従い、数トンの鋼鉄の刃が、真っ直ぐに直下した。
ちょうど、僕に食らいつこうと踏み込んだWrathの、その「胴体」の真上へと。
乾いた衝撃音。
石畳が激しく砕け、法廷全体が地震のように揺れる。
濛々と立ち込める砂埃と、天井から漏れる鉛色の雨。
その沈黙の真ん中で、ギロチンの刃は、Wrathの法服ごと、その細い身体を無慈悲に「真っ二つ」へと断ち切っていた。
飛び散った黒い血が、僕の顔を塗りつぶす。
「ho……hoo…」
喉の奥で、弱弱しい声が漏れる音。
真っ二つにされながらも、Wrathはまだ消えていなかった。
黒い床の上、手探りで何かを探すように、白い手袋をはめた指先が力なく動く。
彼が最期に触れたのは、先ほど僕が踏みにじった、あの「手紙」の成れの果てだった。
僕は、もはやピコピコと動くことすらなくなった彼の耳羽を一瞥し、血溜まりの中に転がる「白い短剣」を無造作に踏みつけた。
―パリンッ。
短剣が砕ける音と共に、Wrathの残骸は、真っ白な羽毛が混ざった「灰」となって、雨の中に溶けて消えていった。
法廷の主を失い、天井の巨大な歯車が、断末魔のような悲鳴を上げて回転を止める。
僕は、壁に突き刺さったままの斧を、ゆっくりと引き抜いた。
耳羽は、もう動かない。
ただ、重い、あまりにも重い鉄の匂いだけが、僕の体温を奪っていった。
【”WRATH END / RELIFE”】
コメント
5件
ふぁぁぁぁぁぁ愛激甘フクロウ裁判官!!!!!!天才ですねSin.さん